第4話 水嶋深月〈序〉


 ——同時刻。

 凪波大学 第一グラウンド。



 甲高いホイッスルの音が八月の空に響き渡る。

 それを合図に、青みがかったポニーテールの少女——水嶋深月は、呼吸を浅く整えながら、手に抱えたポールを垂直に構えた。



「……行きます」



 獣のようにすっと伸びた長い脚が、地面を蹴って前へと進む。

 タッ、タッ、タッ、とリズミカルに奏でられるその足音は、背の高い二本の支柱に支えられたバーへ向かって、勢いを付けながらぐんぐんと近づいていく。

 そうして支柱の手前まで来たところで、彼女は構えていたポールを地面へと突き立てた。



「……ふっ!」



 軽い跳躍の後、両腕に力を入れてそのまま170㎝以上ある自身の身体をバーの位置まで浮かせる。

 小さな頭が、くびれた腰が、しなやかな脚が、夜空に浮かぶ三日月のように美しい弧を描き、バーの上を通過していく。


 やがて、つま先部分がバーの上部を通り過ぎると、彼女の身体は重力に従ってそのまま真下へと落下していった。


 ぼふっ、という乾いた音と共に、彼女の身体が厚みのあるマットに包まれる。

 鋭い陽の光を気にしながらそっと瞼を開けると、視界には鮮烈な夏色の空とその中を泳ぐ一機の航空機が目に映った。


 目標を越えられたという確かな達成感に身を預け、しばらくそんな青空を仰いでいると、真上から彼女をのぞき込むように、一人の少女が声を掛けた。



「先輩、大丈夫ですか?」



 なかなか起き上がらない深月を心配してか、顔には少し不安の色が滲んでいる。

 深月は、そんな彼女を安堵させるかのように静かに笑みを浮かべると、すっと上半身を起こして言った。



「えぇ、大丈夫よ。心配させてごめんなさい」


「い、いえ! てっきり、どこか痛めてしまったのかと思いまして……。何事も無ければそれで大丈夫です! あっ、これどうぞ!」


「ありがとう」



 ぱぁっと明るい表情に戻った少女から、スポーツドリンクの入ったボトルを手渡された深月は、マットから立ち上がるとそのまま乾いた喉を潤した。


 冷たい液体が通るたび、白く細い喉元が微かに動く。

 美しさすら感じる彼女の動作を、少女は憧れの感情を抱きながらじっと見つめる。

 そんな彼女の視線に気が付いた深月は「なに?」と、優しく彼女に問いかけた。



「なっ、何でもありませんっ! 気にしないでくださいっ!」



 深月の問いかけで、はっ、と我に返った少女は、顔を真っ赤に染めながら目の前で激しく両手を振りかざす。それから続けて、「……そんなことより先輩!」 と、あからさまな話題転換を始めた。



「3m80㎝クリアだなんて凄いじゃないですか‼ もう十分全国レベルですよ!」



 目をキラキラと輝かせ、興奮した様子でそう告げる彼女に対し、当の本人はいたって冷静に自己の評価を下した。



「……どちらかというと、『ようやくスタートラインに立てた』って感じかしらね。4m……いえ、せめて3m90㎝は軽々越えられるようにならないと、まだまだ全国じゃ戦っていけないわ」


「大丈夫です! 先輩なら4mでも5mでも余裕ですよ! 絶対越えられるようになります!」


「……さすがに5mは無理そうだけど、それでも期待に応えられるよう頑張るわ。応援ありがとね、久美ちゃん」


「……はいっ‼」



 自分のことを、自分以上に期待してくれている可愛い後輩。

 そんな熱のこもった久美の瞳を見返しながら、深月は再び薄く笑みを浮かべた。


 蒼穹の果てには、高々と連なる真っ白な入道雲。

 その姿を目にするたびに、今年も夏の季節がやって来たのだと深月は強く実感する。

 幼い頃は、どこまでも走っていれば、いつかあの空に辿り着くと本気で思っていた。それが可愛らしい子供の幻想だと気付いたあとも、この夏空の下を駆け回ることが楽しくて楽しくて仕方がなかった。

 深月はそんな過去の自分を思い返しながら、マット脇に落ちていたポールを手に取り、再びスタートラインへと足を向ける。


 その瞬間、別のホイッスルがグラウンドに甲高い音を響かせた。

 音のした方向に目を向けると、どうやら他の部員がトラック走の練習を始めたようだった。

 3人の選手が代る代わり、ホイッスルの音に合わせてコースの中を駆けていく。

 その様子を懐かしむように見つめる彼女に向かって、久美が訊ねた。



「そういえば、先輩ってもともとは短距離の選手だったんですよね?」



 まるで予想していなかった問いに、深月の身体が一瞬硬直した。

 それから、驚きの中に微かな恥ずかしさを滲ませて言葉を返す。



「……よく知ってるわね。誰かから聞いたの?」


「あぁ、いえ。この前なんとなく過去大会の動画観てたら、先輩に似た同姓同名の選手が出てきたんですよ。それで気になっていろいろネットで調べてみたら、なんと先輩本人じゃないですか! しかも、陸上始めてから8年連続全国大会出場。中三と高一に限っては優勝までしてる天才スプリンター‼ ……あたし、そんなすごい人の後輩だったんですね。今まで、図々しく練習まで見てもらってたのが恥ずかしくなりましたよ。本当にすみません……」



 調べて分かった事実に一人興奮を隠しきれない様子の久美。

 そんな彼女の言葉を聞き、深月はそのクールな見た目に反し、あたふたと動揺を露わにしながら訂正する。



「ちょ、ちょっと久美ちゃん! 私、何も謝られるようなことしてないわよ? お願いだから顔上げて」


「でも、あたし……ぶっちゃけウザいくらい先輩に頼ってるじゃないですか。本来なら、あたしみたいなパッとしない選手の練習なんて、先輩がする必要ないのに……」



 この子はつくづく、自分のことを必要以上に美化している節がある。

 本当は、そんな大した人間じゃないのに……と、深月は改めて自分の評価を確認する。

 それでも、こんな自分を心から尊敬してくれる可愛い後輩にそんな顔をさせてはいけないと、深月は慈愛に満ちた表情を浮かべながら静かに言葉を返した。



「久美ちゃん。私は別に、誰かに頼まれたからあなたと一緒に練習してるわけじゃないのよ? 私があなたと組みたいと思ったから、こうして一緒に練習しているの。だから、そんな顔しないで。……ね?」


「……深月先輩」


「そういうわけだから、とりあえず一旦休憩にしましょう。私、アイス食べたくなっちゃった。久美ちゃんも食べるわよね」


「……は、はいっ! ぜひ‼」



 それから二人は、グラウンドに併設された屋内ジムへと足を運んだ。

 エントランス脇の事務窓口を抜けてしばらく進むと、氷菓専用の自動販売機と二脚の長椅子が設置された小さな休憩スペースが見えてくる。二人は冷気を纏ったアイスをそれぞれ購入すると、仲良く隣り合うよう椅子に腰を下ろした。

 二人の正面に設置された窓ガラスの向こうでは、ちょうど休憩に入った男子バスケ部員が、喧騒を引きつれてぞろぞろと体育館から出てくる様子が見える。

 久美はそんな男子バスケ部員たちの引き締まった肉体には目もくれず、今しがた購入したコーン付きチョコミントアイスの蓋を剝がしながら深月に顔を向けた。



「それはそうと、先輩」


「……ん、なに?」



 同様に、購入したソーダアイスのフィルムを近くのごみ箱に投げ捨てながらそう返す深月。そんな彼女を瞳に映したまま、久美は言葉を続けた。



「——どうして、短距離走やめちゃったんですか?」



 瞬間、深月の周りを漂う時間の流れがぴたりと停止した。

 まるで動画の停止ボタンを押したような、世界から自分だけが綺麗に切り取られたような、そんな感覚が深月を襲う。


 遮るものなど何もなかったはずの二人の間。

 そこに、とてつもなく重く厚い沈黙が唐突に割って入った。



「…………」



 ——それは、深月が最も触れられたくのない質問の一つだった。


 もちろん、そんな質問をしてきた久美を責めるつもりなど微塵も思っていない。

 自分の過去の選手歴を知れば、誰だって同じような問いを投げかけてくる。

 だからこそ、これまで誰にもその事実を告げずにここまで来たのだ。


 深月は果てしない時間を圧縮した刹那の沈黙の中で、久美に返す言葉を必死に模索する。

 しかし、その答えが見つかるより先に、久美がその沈黙を破った。



「ひょっとして、怪我とかですか?」


「怪我……そうね、それもあるかな」


「それも?」



 何か含みのあるような深月の言い回しに、久美は首を傾げる。



「何か他に、短距離続けられなくなるような理由があったってことですか?」


「……まぁ、ね」



 芸術品のように美しく、それでいて精悍な憧れの表情に、みるみると影がかかっていく。

 その様子を隣で眺めていた久美は、自分が知らず知らずのうちに決して踏み込んではいけない彼女の内側に足を踏み入れてしまったことに気がつき、勢いよく席を立ち上がった。



「あっ、す、すみませんっ! 不躾にあれこれ訊いてしまって……。言いづらいことならいいんです! 本当に気にしないでくださいっ‼ それよりアイス食べましょう! アイス! 早く食べないと溶けちゃいますし!」


「……そうね。あんまりさぼってても、他の部員に申し訳ないものね」


「そうですそうです! 急いで食べて練習に戻らないと……って、うぅ~……! 頭がぁ……‼」



 久美は自分の言動を深く反省しつつ、大好きな先輩を励ますその一心で、行き過ぎたほど明るく振舞ってみせる。


 まだひんやりとした冷気を放つチョコミントアイスを一気に咀嚼し、小さな唸り声を上げながら片手で頭を押さえる久美。

 そんな愛らしい後輩の姿を見て、深月もまた、軽く笑みを浮かべた。


 彼女は、その微笑の奥で静かに自問を始める。


 ……この季節を忌まわしいと思い始めたのは、いつのことだっただろう。

 ……いや、本当は分かっている。忘れるわけがない。


 ——あの日、あの瞬間。私にとってこの季節は、後悔の季節へと成り代わったのだ。


 彼女は繰り返し自問する。


 ……私はいつか、この後悔を誰かに打ち明けることが出来るのだろうか。

 いつかもう一度、全力でこの空の下を駆けることが出来るのだろうか。


 今はまだ、その答えの兆しすら見えていない。

 それでも彼女は——。



「久美ちゃん」


「……どうしました? 先輩」



 やわらかな微笑みを浮かべたまま、久美に告げる。



「……いつか。……いつかちゃんと、話すから」



 数秒、その言葉が持つ意味を考えていた久美は、「あぁ、そうか」と心の内で理解してから、憧れが向けるどこまでも真っすぐで清廉な眼差しを、満面の笑顔で受け取った。



「さて。それじゃあ、休憩も済んだことだし、そろそろ練習戻らないとね……って、あ、れ……」



 それから久美に2分遅れてアイスを食べ終えた深月が、そう言って席を立ち上がろうとした瞬間。突然眩暈に似た感覚に襲われ、深月はそのままその場に倒れた。



「せ、先輩! どうしたんですか⁉ 起きてください! 先輩っ‼」



 目の前で沈むように床に倒れる深月を見て、いつになく慌てふためく久美。

 そんな不安と恐怖と困惑が入り混じる彼女の表情を見つめながら、深月は薄れゆく意識の中で、あの日の言葉を思い返していた。



『絶対に優勝するから。一番でゴールしてみせるから。……だから見ててね、お母さん——』



 そして、世界は暗転する。


 必死に自分を呼ぶ久美。

 そんな彼女の声だけが反響して耳に残ったまま、深月の意識は、出口の見えない歪な陽炎の世界へと堕ちていった——。


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