第9話:幸せ充ちる楽園

 放課後、誰も使っていない教室の一角、周防宗純は教壇の前に立つ。日野秀斗、猪熊玲央、この二人は机の上に腰を下ろし、何とも言えぬ表情を浮かべていた。

「Sクラスの風間伊吹さん、彼女の得能は空手でしたか。伝統派、いわゆる寸止め空手で、61kg級日本王者です。女子高生ながら実に素晴らしい」

「んなことどうでも良いんだよ。あたしは何でゲームをしたら『ああ』なるのか、って話を聞きに来たんだ。知らねえなら帰るぜ」

 褐色の肌に金髪、海外の血が色濃く出ている、と言うよりも、そもそも彼女は混血であっても日本の血は一滴も入っていないのだ。色々あって日本の夫婦に引き取られ、猪熊姓を名乗っている。ゆえにその圧倒的な体格と、威圧感は相当である。

 本人は別に威圧している気などないのだが。

「まあまあ。将来を嘱望された人物ですし、周囲の期待も大きかったでしょう。容姿も整っていて、協会側も次世代の看板に仕立て上げようとしていたようですので。相当な重圧だったと思いますよ。ただの少女が背負うには大き過ぎる、ね」

 周防の言葉に日野は顔をしかめる。猪熊は「ハァ?」と理解を示さなかったが。

「彼女の心を蝕んだのは、電子ドラッグです」

「……そういうこと、か」

「……?」

 日野は理解を示し、やはり猪熊は理解できていない。こればかりは『アガルタ』への理解度が関係してくるので仕方がないだろう。

 周防も初めからそのつもりだったようである。

「まず、『アガルタ』というゲームは基本的に自身の感覚をアバターと共有しております。これは例外なく、そうなっていると考えて構いません。傷つけられたなら痛みますし、花を嗅げば匂います。美味しい料理を食べることも出来るのです。ですが、当然この機能は各感覚で異なりますが、大きな制限がかかっております」

 これは『アガルタ』の基礎知識である。アバターを作成する際に必ず説明を受ける項目であり、知らないと言うのは通らない。

 まあ、適当にアカウントを作って放置していた猪熊は首を傾げているが。

「最も強い制限がかかっているのは触覚、痛覚、この辺りでしょう。ゲームによっては四肢の欠損もあり得るので、そこへのケアは万全です。これが無くてはゲームが成立しません。お次はユーフォリア、多幸感の抑制や酩酊、酒酔いのような状態、脳の麻痺や機能不全、過剰な活発化、などです。これはゲームを成立させるためではなく、ゲームに依存させぬために必要な制限となります」

「痛みはわかるけど、多幸感を制限する意味が分からねえ」

「要は麻薬やお酒、煙草と同じ扱いになるのを防ぐため、社会に不利益を与えるものではなく、あくまで健全な娯楽とするために必要な措置、ですね」

 麻薬や酒、ここでようやく猪熊は理解する。

 どうやら彼女、運動は出来るが頭は残念寄りのようであった。

「ゆえにそれを阻害するような電子ドラッグに関しては、『アガルタ』設立時から厳しく取り締まりしてきた歴史があります。煙草、大麻、この辺りよりも数段低い依存性の薬であっても、運営は法的措置を取って開発者や販売業者を強く咎め、そもそも大元の感覚を厳しく制限することで、効果を薄めるなどの努力も欠かしておりません。通常プレイならば、アスガルタの特定区画でも大きな効果は見込めませんし、運営はすぐに嗅ぎ付けアカウントをBANします。割に合わないのです」

 そう、通常プレイであれば彼女のようなトランス状態に陥ることはない。最大限、あらゆる手を尽くし努力しても酩酊状態が関の山。大体の一般プレイヤー(十八歳以上)であればほろ酔い状態が限界であろう。

 だが――

「しかし、これらの制限を完全に突破する方法があります」

 あるのだ。裏技が。

「それが『裏抜け』、いくつかの方法を用いて『裏世界』に到達する。そうすればもう、制限はかからない。全ての感覚が十全に解放されるのです」

 電子ドラッグ、この単語が出た時点で日野はここまで予想出来ていた。表側ではどうやっても得られない感覚も、裏側でなら容易く得られる。実際に使用者も、売買の現場も、見たことがある。興味が無いので関わってもいないが。

 ただ、疑問が一つ芽生える。

「……風間ってのはゲーマーなのか?」

 当然、『裏抜け』するような者は『アガルタ』をそれなりにやり込んでいるケースが大半であろう。やり込み、その過程で伝手や情報を得て、リスクなどを加味してようやく突破するのだ。日野とて中学時代の後半からほぼ不登校で、廃人プレイをしていたからこそ辿り付けた場所でもある。そこらの学生が至れる所ではない。

「んなわけねえだろ。毎日稽古してんだぞ。テメエら『一般』と違って」

 日野の疑問を猪熊が一蹴する。日野もそう思ったからこそ口に出した。高校生で日本一、素晴らしい成績を残している者が、そこまで『アガルタ』に依存するとは思えない。しかもこの学校、同じSクラスでも運動系は審査が厳しく、毎年基準をクリアし続けないと退学や一般クラスに編入させられてしまう。

 もちろん、その際には特権を失うことにもなる。

「なら、どうやって――」

 そこでようやく日野は自分の愚かさに気付く。

 それを見て周防もまた笑みを浮かべた。

「はい。日野さんも気づいた通り、昨今『裏抜け』する簡単な方法が生み出されつつあります。当然、大々的に広がっているわけではありませんが――」

 周防が指を弾くと、後ろの液晶ボードに何か、メールのような文面が映し出される。ちなみにこれは魔法でも何でもなく、昨今の学校では黒板が廃止され、液晶画面に取って代わられるようになっていたのだ。まあ、まだ過渡期、金持ち私立から徐々に公立校も取り入れている最中ではあるが。

 この画面はおそらく周防のスマホ辺りの画面と共有しているのだろう。

「おそらく、これに似た文面が風間さんの下にも送られていたはずです。ランダムに生成された優しい言葉、疲れ切った者、傷ついている者、重圧に折れかけた者、そう言った正常な判断を失った者に響く文言で、このリンク先に誘うのです」

 周防は指差しながら、猪熊の表情を見る。そして、嗤った。

「僕は確認していませんが、このリンク先を辿るとアスガルタの一角であるものを手渡されることになるそうです。日野さんも良く知る、『あれ』を」

「……あれで『裏抜け』したら、電子ドラッグにありつけるわけか」

「はい。技術の進歩が産んだ、悲劇と言えるでしょう」

「……芝居がかった口調だな、おい」

 日野は腕を組みながら周防を睨む。この男は明らかに知り過ぎている。カヴォードが気に入っている以上、何かしらあるのだろうが――

「その電子ドラッグを捌いているのがヴァンガードってのは何処の情報だ?」

「……『裏世界』では有名な話ですよ。カヴォードさんはアナーキーな者を集め、ユオは悪人を束ね、ヴァンガードは金の力で人を集めている、と」

「……信じられない。あいつは喧嘩のことしか興味なかったはずだ。わけわからねえ二人とは違って、あいつほどわかりやすい奴はいなかった」

「昔の話です。今は、『裏世界』の商売、その多くに首を突っ込み、一つの商圏を確立するほどの実力者です。売れるものは売る。善悪問わず」

 日野は信じられないとばかりに顔を歪める。おそらく、仲間内で一番喧嘩した相手である。いつもどちらかが喧嘩を売って、買って、その繰り返し。金のことなど興味なさそうで、そんなものつまらないと言い切るタイプ。

 今の行いはまるで真逆、である。

「かなりの規模、個人で相手をするのはあまりにも危険です。日野さんも猪熊さんもどうか、関わらぬようにしてください」

「わかってる。そういうのは星軍の仕事だろ」

 日野は机から降りて、そのまま背を向ける。猪熊も黙って別の出口から出て行った。残された周防は笑みをたたえたままスマホを弄る。

 とても充足した表情で――

「残念ながらシュート君。今の星軍に戦力はいないのですよ。大事な大事なお仕事がありますので。であればさて、誰が止めることになるのやら」

 突如、彼の背後の液晶が別の映像に切り替わる。

 映し出されるのは暗闇。

『――イシュヴァラ、彼を政争に巻き込む気なら容赦しませんよ』

 聞こえるのは少女の声。

「デシリオン、派閥を持たない君じゃ僕を止めることなど出来ませんよ。いざと言う時に、君は誰の仲間でもないのですから」

『それは貴方も同じでしょう。教授、理事長、プランター、そして『ヌールアルカマル』、『自由』、貴方こそ本物が何処にあるのかわかりませんよ』

「僕はその全てに属しています。同じようで、それは大きく違うのですよ。それにしても興味深かったので、少し調べましたが……ふふ、中々面白い関係性ですね、貴女と日野君は。僕は好きですよ、貴女の、贖罪」

『……そこに踏み込んだ時が、貴方の最後です』

「おお、怖い怖い。安心してください。僕はね、種明かしに興味はありません。僕だけが知っていて、僕だけが全体像を知る。この状況が、好きなのです」

『気色の悪い男ですね』

「僕はジェンダーレスですよ。男でも女でもない。間違えないでくださいね」

 ぎょろりと眼を見開き、暗闇が映る画面を見つめる周防。

『承知していますとも。とりあえず警告はしておきました。彼を傷つけた時、今日を嫌と言うほど思い出して頂きます。周防宗純、くん』

 ぷつんと映像が途切れ、液晶は何も映さなくなった。周防は笑顔のまま教壇を降り、笑顔を張りつけたまま机を蹴り飛ばす。

 思い切り、力強く。

「……僕は何物にも縛られない。何物にも、だ」

 ガリ、血が零れるほどに彼は指を噛む。彼が彼女の急所を知るように、彼女もまた彼の急所を知っている。同じ組織に属する者同士。

 敵ではない。だが、味方でもない。


     ○


 猪熊玲央は搬送された病院に向かっていた。だが、そこには面会謝絶の文字がかかり、そこにいるのかいないのかすらわからぬ状況。あの男のセリフを信じたわけではない。彼女はとても強く、立派な格闘家だった。こんな体格の自分相手にも物怖じせずに接してくれて、対等に拳を交わせる数少ない、親友だった。

「……よくわかんねえけどよ。落とし前は、つけてやるさ」

 扉の前で猪熊は誓う。

 ただじゃ済ませない、と。


     ○


「これで幸せになれますよ」

「あんがとさん」

 球体を受け取り、猪熊玲央、アバター名レオは躊躇なくそれを使った。今までいた場所は『アガルタ』の中、地下都市アスガルタである。

 彼女はあの時、周防がリンク先を映し出した際、それをあの短時間で丸暗記していたのだ。三桁近い文字列を即座に暗記する集中力は超人的である。

 彼女は勉強が不得手である。それは興味がないから。彼女は『アガルタ』についてさしたる知識もない。それもまた興味がないから。

 如何なる理由であれ、興味を持ち集中すればこの程度造作もない。彼女もまた国内で頂点を取った存在、如何なる分野であれ一等賞を取る人物とは常人の秤の外にいる。そんな彼女は本気で切れているのだ。

「ようこそ、『エデン』へ。ひと時の夢、存分に満喫してください」

「どうも」

 内心腸が煮えくり返っている。だが、まだ爆発させる時ではない。まずは会わねばならないだろう。この『エデン』とやらの中で、彼女の親友と。

「……っ」

 『エデン』の中は彼女の想像をはるかに上回る光景が広がっていた。そこかしこで彼らが幸せの粉と呼ぶ電子ドラッグを用い、ハイになった者たちが狂喜乱舞の渦を形成していた。合唱、ダンス、セックスは言うに及ばず常軌を逸した人数で行われる乱交やプレイの数々。直視出来ない『楽園』が其処に形成されていた。

 剥き出しの人とは、ここまで醜悪なものなのか、とレオは思う。

「どこだ、イブキ」

 地獄のような楽園、楽園のような地獄。

 こんなところ一分一秒たりともいたくない。

 何故こんなところに、レオは歯噛みする。彼女は強かった。乱暴者の自分とは違って思慮深く、色んな事を考えて戦っている子だった。

 ここにいる自分に負けた連中とは違う。

 彼女は勝ってきた。これからも勝ち続ける存在である。

「どこにいる?」

 だから、信じられなかった。

「どこに、いるんだよ。そうじゃねえだろ、風間伊吹はッ!」

 この楽園に染まり、ぐちゃぐちゃになって放心する親友の姿を見るまでは、幸せそうな顔で天を見上げている彼女に、レオの知る面影はない。

「おい、帰るぞ。なあ、日本の代表として世界に空手を広めるんだろ? また正式種目として、五輪で競技を採用してもらうために、草の根活動が大事なんだって。強くて格好良い姿を見せなきゃいけないんだって、いつも、言ってたじゃねえか」

「…………」

「何でだよ、なあ!」

 風間伊吹は応えない。ただ、笑みを浮かべたまま、ゆさゆさと揺れるだけ。

 どれだけ揺すっても、彼女の眼に光は戻らない。

「お嬢さん。どうされましたか?」

 黒服の男がレオの肩を叩く。

「あまり騒がれると、周りのご迷惑ですので――」

 明らかにカタギではない雰囲気。この楽園を、『エデン』を管理する側の男なのだろう。ここを運営する者、親友を地獄に沈めた者。

「死ね」

 猪熊玲央は初めて殺意を乗せて、全力で人を殴った。今までの人生で、本気で殴ったことは数えるほど。それら全て12オンスのグローブを着けて、である。

「なっ、ぐ、おいおい」

「…………」

 殺す気だった。いや、間違いなく殺したと思った。自分が裸拳で全力を出したのだ。しかも習ったボクシングの技術を用いて、グローブを着けていても、ヘッドギア越しでも必殺と謳われた右ストレートを顔面に叩き込んだのだ。

 それなのに男は鼻血を出す程度。鼻っ柱が折れてすらいない。

「くぅ、こいつ、どうなってんだ?」

 それはこっちのセリフだ、とレオは顔を歪める。だが、後ろで横たわる親友を守らねばならない。疑問は横に置き、やるべきことをやる。

「シィ!」

 左と右のコンビネーション。全て顔面に叩き込む。相手の反応を見るに技術がある相手ではない。ただ、顔面が異様に硬い。まるで鉄でも殴っているかのような感覚が、拳から伝わってくる。理解不能である。

「このデカ女、シックスセンス無しで――」

 だが、

「フシュッ!」

 レオは躊躇わずに殴り続ける。相手が鉄ならばそれでいい。鉄を打ち砕くほど思いっ切りぶん殴れば良いだけである。

 規格外のモンスター。国内では相手がおらず、ヘッドギアを用いるアマチュアですら戦ってくれる相手がおらず、同世代では男子とのスパーすら敬遠される存在。猪熊玲央は怪物である。その拳は、シンプルに鉄をもへし曲げる。

 獣が人の中では秘していたその牙を剥く。


     ○


「おいおい、ルーキーどころかガチの素人相手にどうなってんのよ」

 血だまりに沈む黒服の男を足蹴に、レオは笑みを浮かべて敵を待っていた。自分が全力で殴っても壊れない人間。待ち望んでいた、焦がれていた全力が其処に在った。同じような黒服を数人、血に沈めた獅子は昂っていた。

「参ったね。下手に刺激したせいで開きつつあるじゃないの、魔力炉が」

 褐色の肌に逆立った金髪がまるで獅子のように見える。女なのにタテガミとはこれ如何に、などと軽口を叩ける雰囲気はここにはないが。

「次はテメエか?」

「……まあ、そうなるかね」

「テメエらのボスを連れてこいよ。『ビブラシオン』のヴァンガード、だったか?」

「嬢ちゃんみたいなのが何処でその名を知るかねえ」

「あたしの親友地獄に沈めてくれた落とし前、つけてもらうぜ」

「そりゃあ、まあ、無理だ」

 他の黒服と同じ格好、まるで特徴のない顔つきの男が首を鳴らす。

 臨戦態勢とするにはあまりに隙だらけ。

「素人かよ、テメエも」

「そりゃあこっちのセリフだねえ、嬢ちゃん」

 ふん、と鼻を鳴らし、レオは勢いよく飛び掛かる。こいつも全力でぶん殴る。鉄みたいに硬く感じようが知ったことではない。

 殴って殴って――

「……なん、だと」

 殴り続けるも、何の感覚もない。ほんの少しすらへこむ感覚すらないのだ。分厚くて硬い壁。打っても響かぬ、圧倒的な厚み。

「貫目が違うのさ、お嬢ちゃん」

 男はゆらりと力感なく揺らぎ、

「崩ッとな」

 だん、その場で強く地面を蹴って、レオの腹、その手前を打ち込む。

「テメエ、素人じゃ――」

「そう。こっちじゃ人は見かけで判断しちゃ――」

 触れられてもいないのに、レオは吐血しながら吹き飛び、倒れ伏す。

「――いかんのよ。勉強になったねえ、嬢ちゃん」

 一撃、すら受けずにレオは気絶し、沈められた。

「とりあえず確保しといて。たぶん、この嬢ちゃん送り込んできた奴がいるでしょ。こういう子はここにゃ辿り着かんからさぁ」

「了解しました、支配人」

「いいよ畏まらなくて。まあ、嬢ちゃんも良かったねえ。俺程度が相手で。あの人相手じゃ手加減したって骨すら残らないからねえ」

 男は微笑み、踵を返す。

「社長に会わせるから、丁重に頼むよぉ」

「了解!」

 『ビブラシオン』の幹部が一人、支配人と呼ばれる男は生まれたての子獅子を見て微笑んでいた。たぶん、あの男は彼女を殺さない。

 あの子はここにいる連中とは違って、可能性があるから。

 ただ、それが幸か不幸かは、男にもわからないが。

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