第一章 芽生え編

第一歩 アクセル

 1


 すっと目を開くと、そこは暗く冷たい場所だった。

 漂う空気はひんやりとしており、髪を揺らす風は妙に湿っぽく肌を撫でる。

 生物が焼けるにおいが周囲を立ち込め、忽ち嗅覚は使い物にならなくなってしまった。

 そう、ここは塑性と脆性が繰り返される、地下ダンジョンの最深部……。

 なんて怪しい場所では決してない。

 どこの街にでも普通に存在する、由緒正しい唯の裏路地だ。

 建物を渡って干された大量の洗濯物が頭上でたなびいているぐらいには、日常を感じることができる。

 ただここは滅多な事では人が通らないので、地上へ降りる時に重宝しているのだ。

 念の為に辺りを確認するけど……今回も見られずにすんだかな。

 商業区に隣接しているお陰か、近くからは賑やかな声が響いてくる。

 ホッと一息ついたあたしは体に不調がないかざっと確認してから、繁華街へと素知らぬ顔で混ざり込んだ。


 アクセルを訪れるのは、地上の時間にして約二週間ぶりだろうか。

 随分ご無沙汰だった気になっていたが、実際はそれほど経っていない。

 なのに下界に降りて直はいつもそう感じてしまう。

「さあて、これからどこに行こうかな」

 お昼の時間はとっくに過ぎてるけど、夕食を食べるには早すぎる。

 かと言って、今からクエストに行ったら帰りは夜中になりかねないし。

 何とも微妙な時間帯に降りてしまったものだ。

 カエルの燻製肉を齧りながらお気に入りの家屋まで辿り着いたあたしは屋根に飛び乗り腰かける。

 ここから人の流れを見るのが、実は秘かな趣味なのだ。

 荷車を引く若い男性に、買い物に来たご婦人、あれは新人冒険者かな、期待に胸を膨らませた表情が瑞々しいな。

 街行く人を眺めながらこれからどうするかをぼーっと考えていたら。

「ねえ、待ってよー!」

「いそいで! はやく広場であそびたいんだからさ!」

「あんまり遅いとおいてっちゃうぞー」

 無邪気に戯れる子供達が通りの向こうからやって来た。

 広場へ遊びに行くらしいその子達の顔は、とても楽しそうにキラキラ輝いていて。

 最後尾の子が追い付くのを待ってから、皆揃って仲良く走っていった。

「あははっ、元気そうで何より。やっぱり子供はいつも笑顔でないとね」

 人間、何よりも健康が一番。

 ああいう物こそ、あたし達が守って行かねばならない大切な……。

「そう言えば。孤児院の子達はあれからどうなったんだろう?」

 ここ最近は事務仕事が続いて、地上の様子を窺う暇がなかったからな。

 その後どうなったか調べるのをすっかり失念していた。

 レシピはちゃんとあったらしいから、その点は問題ない。

 薬の調合法もめぐみんが調べてるって助手君言ってたっけ。

 あと、完成するまではアクアさんが治療してくれるはずだとも。

 …………どうしよう、すっごい今更だけど心配になってきた。

 街で騒ぎになってないし、大丈夫だったんだろうとは思うけど。

「……ね、念の為、念の為だから。滞りなく終わったんだろうけど、一応あたしも見に行ってみようかな」

 頭をぶんぶんと振って悪い考えを振り飛ばし、残っていたカエル肉を一気に食べきる。

 あらかた飲み下したところですっと立ち上がったあたしは、屋根を伝って孤児院へと駆け出した。


 2


 孤児院に辿り着いたあたしは、ドアに手を掛け一気に押し開けた。

「やあ、みんな! 病気はもう平気かい?」

 中にいた子供達は椅子に座ったまま一斉にこちらへ振り返り。

「わあ、クリスお姉ちゃんだ!」

「本当にまた来てくれたんだね!」

「最近来てくれなかったから寂しかったよー」

 来訪者があたしだと分かると、顔をぱあっと明るくして口々に話しかけて来た。

「ごめんごめん、最近ちょっと忙しくってさ。お詫びにお土産を持ってきたから、これで許してよね」

「わああ、こんなにたくさん⁉」

「どれも美味しそう! 嬉しいな!」

「ありがとう、盗賊のお姉ちゃん!」

 まさかこんなに喜んでもらえるとは。

 お見舞いのつもりだったんだけど、今度からは毎回持ってこようかな。

「こらお前達、そんなに騒いでたらダメじゃないか。もう休憩時間は終わりなのだからちゃんと座って……クリス!」

 子供達が騒ぐのを聞きつけたのだろう、黒のタイトスカートにワイシャツという出立ちのダクネスが、香部屋から顔を覗かせ声を上げた。

「やっほー、ダクネス! こないだの事があったから様子を見に来たんだけど、皆元気そうだね」

「ああ、めぐみん達が上手く調合してくれてな、無事に全員の病を取り払ってあげられた。素材集めに協力してくれたお前にも感謝しているぞ。お前達も礼を言わないとな」

「そうなんだ。ありがとう、お姉ちゃん!」

「ありがとうございました!」

 ダクネスの言葉に触発されて、子供達も心からのお礼を言ってくれる。

「いいって事さ。それよりも今から皆は勉強なの? もしかしてタイミング悪かった?」

 椅子に置かれた教科書からして、そうなのかと思い尋ねてみたら。

「確かに今から授業だがクリスならいつでも歓迎だ。ま、まあ、この姿を見られるのは少し恥ずかしいがな」

「恥ずかしがることないよ、すっごい似合ってるんだからさ」

「いや、服の事ではないのだが……」

 でもそうか、今からダクネスが授業をするのか。

 あのダクネスが……。

「ねえねえ、あたしも一緒に授業受けてもいい?」

「はあ⁉ お前は今更一般教養など必要ないだろ? なぜ急にそんな事を……?」

 ちょっとした思い付きだったのだが、過剰に慌てるダクネス。

 そんな顔されたら益々やりたくなってくる。

「ダクネスがちゃんと物を教えられるか見てあげようと思ってね、いわゆる授業参観ってやつさ。皆はあたしがいてもいいかな?」

「授業参観は生徒の親が来るものではないか! なぜ教師である私がそんな事をされないといけない⁉」

 なんだか楽しくなってきたあたしは、面白がって外堀から埋めていく作戦に移行する。

「うん! 私、お姉ちゃんと一緒にララティーナ様の授業受けたいな」

「僕も!」

「クリスお姉ちゃんと一緒!」

 皆して嬉しい事を言ってくれる子供達を前に、ダクネスは観念したのか。

「わ、分かった。私はあまり教えるのが上手くないから、授業風景を極力知り合いに見られたくなかったのだが……。わ、笑わないでくれよ」

「笑わない笑わない。それじゃあ、ダクネスの授業いってみよう!」

「「「「「いってみよー!」」」」」

「本当か? 本当に余計な事はしないのだろうな⁉」

 素直な子供達の大合唱を前に、ダクネスの悲鳴はかき消されてしまうのだった。


 3


 夕方。

 授業の引継ぎを済ました、ぶつぶつと小言を呟くダクネスの数歩前を、あたしはのんびり歩いていた。

「まったく、クリスはまったく! お前のせいで子供達の前で恥をかいたではないか!」

「ごめんってば、もう十分反省したからそろそろ許してよ」

 未だに不服そうにしてはいるが、あたしは特段大した事はしていない。

 ただ授業中にちょくちょく、『ダクネス先生格好いい‼』とかって合いの手を入れていただけだ。

「ま、まあ授業中至らない私に代わって、子供達のフォローをしてくれていたしな。クリスがいてくれて助かったのも事実だし、あれは水に流すとしよう」

「やったね! ありがとう、ダクネス!」

 フォローといっても、理解が遅れていた子のサポートをしたに過ぎないんだけど。

 でもダクネスがそれで満足してくれているのだ、口を挟む方が野暮って物だろう。

「それにしても、ダクネスが今や人に物を教える立場になるだなんて、世の中何が起こるか分からないね」

「そんなに意外か?」

「性格的には向いてるって前々から思ってたよ。でもダクネスってほら、昔は人と話すのが苦手だったでしょ? 教師をやるって言い出した時は、陰ながら心配してたんだから」

 あたしの言葉に、ダクネスはすっと目を細めた。

「確かに昔の私が今の私を観たらきっと驚くに違いない。以前の私は人との距離感を測りかね中々会話を成立させられなかった。お前に出会うまでは、碌に友人も作れなかったしな」

「あの時のダクネスはいい感じにボッチ拗らせてたよね」

「ボッチ言うな!」

 あたしの軽口に憮然としたダクネスは、気を取り直したように話を続ける。

「だが、お前とパーティーを組んだお陰で私はカズマ達と出会えたし、こうして教師として人前に立てる様にもなった。だからクリスには本当に感謝してるんだぞ」

「それはこっちのセリフ。あたしもダクネスと親友になれてよかったって常々思ってるんだから。まあ、出会い方はあたしの理想とだいぶ違ったけど」

 当時を思い出し遠い目をするあたしに、ダクネスはちょっとだけ怒った顔をして。

「あれはお前が性懲りもなく何度も財布を盗むからじゃないか。もっと普通に話しかけてきたらよかったものを」

 ごもっともな意見だけど、なんか釈然としない。

「でもそれだと話下手なダクネスは対処出来なかったでしょう? だから、わざわざああいう展開にしたのに」

「そんな意図があったのか。だが、どんな理由であれ犯罪は犯罪だ、私は謝らんからな」

「別に今更謝って欲しい訳じゃないけどさ」

 本当はちょっと擦れた盗賊と聖騎士の出会い、みたいな演出がしたかっただけなのに。

 まさかパーティー加入イベントが逮捕イベントになるとか予想外にも程がある。

「でも、やっぱり助手君達のパーティーに入ってからのダクネスはだいぶ変わったよね。社交性もそうだけど、人との距離感が近くなったって言うのかな。前は人に対して怒ったり感情的になったり出来なかったじゃん」

 するとダクネスは顎に手を当て。

「そう……だな。言われてみれば、以前は他の冒険者と話そうとしても会話が続かず、すぐ沈黙が流れていたような気がする」

「気がするって、自覚なかったの?」

「あまり考えたことが無かったからな」

 うーん、自分の変化には気付きにくいというやつだろうか。

 と、ダクネスは何か思い出したらしくふっと口角を上げた。

「変化と言えば、一つハッキリと自覚している物もあるぞ」

「ほほう、それは気になるね。どんな変化なのかな?」

 何時になく饒舌なダクネスが嬉しくて、あたしもノリノリで話を促す。

「最近の私は清濁併せ吞むという言葉を覚えてな、ようやく一端の為政者になれたんじゃないかと思ってるんだ」

「あー、なるほど」

「何故そんな複雑な顔をするんだ?」

 なぜって、そりゃさあ。

「いやね、純粋無垢だったダクネスが遂に権力の使い方を覚えたのかと思うと、何だか哀しくなっちゃって」

 頬をポリポリと掻くあたしに、ダクネスも苦笑を浮かべる。

「まあ、正論だけではどうしようもない場面もあると知ってしまったからな。だが、そんな悪しき部分も使い様によっては、より多くの弱き民達を救う事に繋がる。全てを取り締まるだけでなく、時には甘受する事で拾える命もあるのだと今は理解している。だから、私はこれで良かったと考えているよ」

 そう言うダクネスは少し恥ずかしそうだったが、どこか誇らしそうにも映った。

 一口に悪行を飲み下すとは言えど、それは決して簡単な事ではない。

 だけど、今目の前にいる彼女からはそれを貫き通すだけの強い信念が感じられた。

 その瞳には一片の曇りもなく、誇り高い貴族のあるべき姿を象徴しているかの様だ。

 あたしは思わず目を大きく見開いて。


「……そっか、ダクネスも立派になったね」


「あ、ああ、ありがとう。お前に褒められると何だか擽ったいな」

「褒められるっていうのはそんなものだよ。さっ、暗くなってきたし帰ろうか。屋敷まで送るよ」

 あたしの知らない間に大きく成長を遂げたダクネスに、そう呼び掛けた。

「そうだな、皆も待っている事だろうし少し急ぐか。……ん? なあクリス、もしかして体調でも悪いのか?」

「へ? 別に何ともないけどなんで?」

 いきなりそんな事を聞かれた理由が分からず、あたしは首を傾げた。

「気付いてないのか? お前、足取りがフラフラしてるぞ?」

「そんな事ないでしょ。いくらなんでも足取りがふらついてたら自分でもきづ……あれ?」

 クルッと振り返ろうとしたはずが、何故かバランスを崩しへたり込んでしまった。

「おい、大丈夫か?」

「あ、あはは、大丈夫大丈夫。ちょっと勢いよく振り返り過ぎちゃったかな。もう平気……あれ?」

 おかしいな、立ち上がろうとしてるのに足に力が入らないや。

 身体の異変の原因に見当もつかず戸惑うあたしの前に、ダクネスがしゃがみ込んだ。

「やはり体調が悪いではないか。熱は……なさそうだな。よく見たら、目の下にうっすら隈もあるぞ。ちゃんと寝ているのか?」

 うーん、言われてみれば。

「そう言えばあんまり寝てなかったかも。ここの所、立て込んでた仕事を夢中でこなしてたからさ」

「それで体調を崩していては元も子もないではないか。本当に、日頃から無茶をするなとあれほど言っているのに」

 呆れた目を向けながらも、あたしに手を差し出してくるダクネス。

 その手をあたしは素直に取り。

「いつもすまないねえ」

「何を年寄りみたいな事を言っているんだ、お前の人生はまだまだこれからだろうに。今日は帰ったらすぐに体を休めるんだぞ」

 ダクネスはこのネタ知らないのか。

 まあ知ってたら知ってたでびっくりだけど。

「分かってるって。久しぶりにまとまった休暇がとれたからね、この機会にのんびり過ごすつもりだよ」

 心配性なダクネスを安心させる為に、あたしは朗らかにそう言った。

 だけど、それだけでは足りなかったようで。

「……因みに、今日は何処に泊る予定なんだ?」

「えっ⁉ そ、それはその……ま、まあ、ちゃんと寝る場所なら前もって確保してあるから安心して。あっ、もう体も大丈夫みたい! じゃ、じゃあ、またね!」

 まさか天界で寝泊まりしてるとは言えないし適当に誤魔化さなければ。

 これ以上はマズイと判断したあたしは、挨拶もそこそこに立ち去ろうと……。

「待て!」

「ふぎゃっ⁉」

 突然伸びて来た手に肩をがっちり掴まれ、動きを封じられてしまった。

「なな、ななにかな。そんな怖い顔してたら、折角の美人が台無しだよー」

 無言のままこちらを睨みつけるダクネスが、得も言われぬ迫力があって怖い。

 あたしが内心びくびくしている傍らで、ダクネスはゆっくりと口を開き。

「クリス、今日から暫くは家に泊まっていけ」

「…………はい?」


 4


 どうしてこうなったんだろう。

「――という訳で、クリスを暫く家で軟禁して、一度休むという事を覚えさせようと思う。お前達はそれで構わないだろうか?」

「軟禁って、あたしは一体何をやらされるの⁉」

 あの後、あたしの言葉など聞く耳持たずなダクネスに半ば強引に連行され。

 皆が集まった前で、ダクネスがこれまでの経緯を説明してたんだけど。

「いいですよ。クリスはウチの大事な下っ端ですからね、ゆっくりしていってください」

「もちろん歓迎よ! クリスって結構いける口だったわよね? そうと決まれば、早速シュワシュワで乾杯しましょう!」

「おいアクア、まだ飲み始めるには早いだろ。せめて夕食まで待て」

 先輩は相変わらず自由だな。

 台所へと向かうアクアさんをダクネスが窘める姿に、あたしは苦笑を浮かべた。

「てことは今日は五人前作らないといけない訳か。もうちょっと仕込みの量増やしとくか」

 よっこいしょとソファーから起き上がり、軽く体を伸ばすカズマ君。

 どうやら彼もあたしの同居を許可してくれるらしい。

「いや、いいよ、急に押し掛けたのはこっちなんだからさ。もうご飯の準備だって終わってるんでしょう? あたしは適当に外で食べて来るから」

「遠慮するなって、お頭にはいつも世話になってますからね。それに、一人だけ違う物食べるのってなんか寂しいじゃないですか」

「そ、そう? でも、だったらあたしが作るからキミは座っててよ」

 ただでさえ迷惑を掛けているのだ。

 これ以上手を煩わせるのも忍びないし、それぐらいやらせて欲しかったのだが。

「ほら、お頭はそうやってすぐ働こうとする。ダクネスから自粛命令出されてるんだろ? なら大人しく休んどいてくださいって」

「ああっ、ちょっと! まだ話は終わってな……行っちゃった」

 先輩と言い助手君と言い、どうしてあたしの周りの人はこうも自分勝手に行動する人が多いんだろう。

 あまりの自由奔放さに、思わず溜息を吐きたくなる。

 でも、そんな人達との関りを楽しんでいる自分がいるのもまた事実か。

「さあクリス、とっておきのお酒を用意したわよ! カズマがご飯を作ってくれるまで、これで乾杯しましょう!」

「おおっ、いいですね! クリスの歓迎会という事で皆で飲むとしますか。当然私も!」

「ダメに決まってるだろう。それにアクアも、酒を飲むにはまだ早いだろうのに。クリスからも何とか言ってやってくれ」

 アクアさんが上機嫌でお酒の栓を開けたり、めぐみんが不満そうに頬を膨らませたり、ダクネスが頭を抱えたり。

 こういう何でもない一場面は、とても心を暖かくしてくれる。

「あたし、お酒には結構煩い方ですよ」

「なっ、クリス、お前までそんな事を!」

「言ってくれるじゃない。このアクア様の粋なチョイスを前にひれ伏すがいいわ!」

「いいじゃないですかダクネス、先っちょだけ、ほんの一杯でいいですから!」


 強制自粛期間、存分に楽しんでやろうじゃないか。

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