第8話 モーニングルーティン
まともな睡眠をとったのは、実に二日ぶりのことだった。
時刻は、朝の四時三十分。昨夜は九時前にベッドに入ったから、約七時間半眠ったことになる。
「やっぱり、睡眠って重要だな……」
昨日までの不調が嘘のようにすっきりとした頭で、ぼくはしみじみ思った。
ベッドから立ち上がり、分厚い遮光カーテンを開く。未だ闇に包まれた街並みを見下ろして、ぼくは「よしっ」と気合を入れた。
今日から新しい日々が始まる。オレーナさんの人生を守るため、精一杯努力しないと。
そのためにもまずは、とぼくは足元に視線を向けた。
この身体になってから、一番苦労しているのが着替えだ。
女の子の裸を見るわけにはいかないし、かと言って目を瞑ったままでは、あらぬところを触ってしまう。
ベッド下に置かれた籠の中には、下着を含めた衣類が一式、綺麗に折りたたまれている。
「よしっ」ともう一度気合を入れて、ぼくはこの日最初の試練に立ち向かった。
どうにかこうにか着替えを終えて、リビングへと降りる。
「おはようございま……」
「おはようございます、オレーナさん!」
扉を開くと、すでに凜さんが待ち構えていた。
「は、早いですね」
びっくりするぼくに、トレーニングウェアを身に着けた凜さんは、胸の前で握り拳を作る。
「今日から新しい一日の始まりですから。そう思うと、居ても立ってもいられなくて!」
むふぅ、と鼻息を荒くする凜さん。なんだか、ぼく以上に気合が入っている様子。今朝も家から走って、ここまで来たらしい。
「まずは、こちらをどうぞ!」
スポーツメーカーのロゴが描かれたリュックから、バナナとおにぎりを取り出す。
「えっと……朝ごはん、ですか?」
「これからトレーニングですからね。筋肉を動かすにはたくさんのエネルギー、つまり糖質が必要なんです。胃が空っぽのまま身体を動かすと、不足するエネルギーを補おうとして、むしろ筋肉が分解されちゃいますから」
へえ、そうなんだ。記憶喪失になってから、初めて知る知識。
皮をむき、バナナを頬張る。記憶よりねっとりして感じるのは、高級品だからだろうか? おにぎりには、鮭のほぐし身が入っていた。噛むとじゅわぁっと脂が出てきて美味しい。
「よく噛んで食べてくださいね。そのほうが、身体が吸収しやすいですから」
凜さんがテーブルに置かれた花瓶を動かすと、床の一部が競り上がってきた。
どうやら収納が隠されていたらしい。驚くぼくの前で、凜さんは薄いマットみたいなものを収納をから引っ張り出し、リビングの床に広げていく。
「トレーニングの開始は一時間後ですから、まずはメディテーションから始めましょう」
「めでぃ?」
「瞑想のことです。オレーナさんのモーニングルーティーンの一つなんですよ」
なるほど。よくわからないけど、ものすごくモデルさんっぽい。
「その後は、ヨガで身体をほぐしますから。これに着替えてください」
取り出されたトレーニングウェアに、ぼくは米粒を喉に詰まらせかける。
「い、いまからですか?」
「その格好じゃ動きにくいですし、集中もし辛いので。あ、これも付けてくださいね」
手渡された黒い布に、ぼくは首を傾げる。
幅は十センチくらい。マジックテープが付いていて、くっ付けると一本の帯みたいになった。
「なんです、これ?」
「ブーバンドです。胸が揺れないように押さえるんですよ」
胸。ぼくは視線を下げる。視界を遮る二つの盛り上がりに、なるほどと頷いた。たしかに、この質量に動き回られたら、大変かもしれない。
おにぎりを飲み下しながら、ぼくは本日二度目の試練に向き直った。
多大な精神力を消費しながら着替えを終え、春日乃家を出る。
きらびやかなエレベーターの中、ぼくは右腕に感じる質量に戸惑っていた。
「あの……凜さん?」
「はい、なんですか?」
振り返った凜さんが、あどけない表情で見上げてくる。オレーナさんの胸元くらいしかない小柄な身体は、ぼくの右腕を抱え込み、全身を密着させていた。
「その……そんなふうにくっ付かれると、歩きにくくて」
「オレーナさんは病み上がりですから。また倒れたりしたら大変です」
だから自分が支えるのだ、というように凜さんはますます身体を密着させる。
女の子同士って、こんな感じなの?
やたらと近い距離間に、ドギマギする。
緊張で手足をカチコチにさせながら、ビルの三階でエレベーターを降りる。
「おはようございます」
すれ違いざまに挨拶すると、作業着姿のおじさんは、ぎょっとしたように振り向く。
寝ぼけてたんだろうか? エレベーター脇のパネルに突っ込んで悶絶するおじさんを振り返り、ぼくは首を捻った。
ジムには、すでに十人程度の利用者がいた。
カザークは福利厚生の一環として、社員には無料でジムを解放している。だから夜勤明けや出勤前に汗を流しに来る社員も多いと、凜さんが教えてくれた。
ルームランナーで走っている人たちに会釈しながら、廊下の奥へ。パーソナルルームと書かれた扉をくぐると、中には種々様々なトレーニング機器がずらりと並んでいた。
「オレーナさんは、いつもここで?」
「はい。専属のトレーナーさんに付いてもらって毎日、身体を鍛えてました」
そういえば、昨夜そんな話を聞いたような。
使い方の分からないマシンを眺めながら、ぼくはどんな人だろうと想像してみた。やっぱり、すごいマッチョな人なんだろうか。イゴールさんの小型版みたいなのを連想して、ちょっとだけ朝からげんなりする。
「そろそろですね」
時計を確認した凜さんは、手にしたスマホをタップする。
天井に設置されたスピーカーから激しいロック調の音楽が流れ出しただので、ぼくはびっくりした。
「はい、オレーナさん」
「え? え?」
凜さんに手渡されたのは、ナイロン製の紐で作られたひらひらの塊。運動会とか甲子園の応援で使われる、いわゆるポンポンだった。
混乱するぼくに構わず、凜さんはポンポンを頭上に掲げて「イエーイッ!」と叫び始めた。
「ほら、オレーナさんもやってください!」
「い、いぇーい?」
わけもわからないまま、ポンポン飾りを振り上げる。
いまからショーでも始まるんだろうか?
ぼくの疑問は、扉を開けて入ってきたド派手な衣装の人物によって、はるか彼方まで吹き飛ばされた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます