第9話 ラブリン

 その人物は、漆黒のマントに包まれて現れた。


 目元を隠す白い仮面。かつかつと床を鳴らすハイヒール。頭を掻き抱くようにマントで覆ったまま、その人物は堂々とトレーニングルームの中へ入ってくる。


 不審者だろうか?

 とりあえず通報を、とスマホを取り出しかけたぼくの横で、凜さんが「イエーイッ!」と声を上げた。


「ほら、オレーナさんも! テンション上げて!」


 無理だ。


 不穏な出で立ちの人物は、トレーニングルームの中央に立つと、かっ、とハイヒールの踵で床を打った。


「我こそは美の化身。美を追求し、美の女神に愛された存在──」


 低く明朗な声を放った不審者が、漆黒のマントを脱ぎ捨てる。


 現れたのは、煽情的でふりふりのたくさん付いたレオタード。青いスカートは雲のように膨らみ、肘まで覆う白い手袋で、青い長髪をかき上げる。


「なるほど、今日は魔法少女なんですね!」

「今日は?」


 突然入ってきた不審者──体型からして、おそらく男──は、日曜朝の女児向けアニメのキャラクターっぽい衣装を身にまとい、ずばっと右腕を突き上げた。


「ビューティーエバンジェリィィィィィストゥ! ラブリン原口! 今暁こんぎょうもあなたに魔法をかけて、素敵にきらめきシェイプアーップ!!」

「大丈夫です、オレーナさん! 怖い人じゃありません! ラブリンは、立派なトレーナーですからっ!」


 逃げ出そうとするぼくを、凜さんが服の裾を掴んで止める。


 決めポーズらしきものを解いた不審者は、まるで舞台女優のような歩き方で、ぼくたちの周囲を回り始めた。


「人は皆、願いを持って私の前に現れる。美しくなりたい、綺麗になりたい、誰よりも輝きたいと祈りをささげる。このビューティーエバンジェリスト、ラブリン原口の前にひざまずくっ!」

「テンションです! お願いだからテンションを上げてください! 冷静になっちゃいけません。引いたら負けなんです! これはそういう戦いなんです! だから、そのスマホから手を離して!?」


 あと一センチというところで指が届かない。


 不審者は、やたらと脚線美を強調しながら、ことさらにゆっくりとした歩調で歩き続ける。


「天上の神々には、有象無象の声など届かない。けれど、私は違う。私は美の伝道者。美の化身。ビューティーエバンジェリスト、ラブリン原口! すべての美しくありたい者たちに福音をもたらす者っ!!」


 かっ、と十センチはあるハイヒールを踏み鳴らす。


 不審者は、凜さんと押し問答をくり広げるぼくに、びしりと人差し指を突き付けた。


「さあ、準備はいいかしら子猫ちゃん? いまからあなたたちには、このラブリン原口の魔法にかかってもらうわ。誰よりも気高く、誰よりも美しい自分になるという魔法をね」


 魔法──はっ、つまり怪しい薬!? 天井の神々とは、日本政府を示す隠語!?


 こうしてはいられない、いますぐ通報を──不審者は、駆け出しかけたぼくの前に立つと、いきなり平手打ちを食らわせた。


「ラブリン、それはっ」

「いまのは、自分を大切にしなかったおバカさんに対する罰よ。そしてこれは──」


 のばされた手に、反射的に目を瞑る。


 痛みは訪れなかった。代わりに、ふわりとした感触がぼくの頭を包み込んだ。


「本当にバカな子。いつも言ってるじゃない。自分を大切にしない子に、私の魔法が使いこなせると思って? 美を追求するためにはね、何者にも屈しない強い心を身に着けないといけないんだから」


 温かな頬が、ぼくの頬に触れる。駆け出そうとしていた足が動かなくなって、通報寸前だったスマホも、気付いたら凜さんの手の中にあった。


 優しい不審者──ラブリン原口は、立ち尽くすぼくの頭を、そっと撫でさすった。


「良く生きてたわね、オレーナ。もうバカなことするんじゃないわよ?」


 気付いたらぼくは、はい、と答えていた。自分でも、びっくりするくらい幼い声だった。


 細くたくましい両腕から伝わってくる熱に、それまで強張っていた身体が、ゆっくりと溶かされていく気がした。









「さ、湿っぽいのはこれでお終いよ。さっそく美の追求トレーニングを始めましょう!」


 ラブリンは、ばさっ、と青い長髪を振り払った。


 かつ、かつ、と踵を鳴らして歩き、バレリーナのようなターンを決める。


「病み上がりのあなたに、過度な魔法は禁物よ。今日は、いつもより軽めのメニューをこなしてもらうわ」


 そう言ってラブリンは、壁際のラックに並べられていたバーベルを軽々と持ち上げた。

 細い身体のどこにそれだけの力があるのか、まるでバトンのように手の中でくるりとバーベルを回し、金属製のベンチにセット。10キロ、5キロと書かれた円盤型の重りを、まるでお手玉をするみたいにバーベルの両端へはめ込む。


「まずは上半身から。さあオレーナ、レッツ・ビューティータイム!」


 いやいやいやいやいや。


 どう考えても無理だろう。バーベルには、20キロと書かれている。つまり、重りと合わせて50キロもある物体を持ち上げろと言っているのだ。

 いくらオレーナさんが、女性としては長身といっても、こんな細い身体で、こんな重いものを持ち上げられるわけが……


「さあさあ! こうしている間にも、あなたのレイチェル右大胸筋コーデリア左大胸筋は刺激を求めているわ! あんまり待たせ過ぎると、やんちゃな乙女たちがハジけてしまうわよっ!?」

「がんばってください、オレーナさん!」


 ……とても無理だと言い出せる空気じゃない。

 凜さんの期待に満ちた眼差しに負けて、ぼくはベンチに寝転んだ。


 間近で見ると、とんでもない重量感だった。目の前に渡された金属の棒が、まるでギロチンの刃みたいに見える。


「ハリアップ、ハリアップ!」と急かすラブリンに促されて、バーベルを掴む。


 こうなったらやるしかない。相手はプロのトレーナーだ。危なくなったら、助けてくれるだろう。

 半ば破れかぶれで、ぼくはバーベルを握った腕に力を込めた。


「あれっ?」


 意外と軽い?

 持ち上がったバーベルを見て、ぼくは目を瞬かせた。


 50キロのバーベルが上がっている。重いには重いが、耐えられないほどじゃない。


「そのバーベルを一回上げるたび、あなたは理想の自分へと近づいていくのよ。さあ、もう一回。もう一回!」


 十回以上持ち上げても耐えられる。

 その後も、大胸筋、小胸筋、三角筋、僧帽筋と、様々な器具を使って上半身を鍛える。どれも驚くほどの重量なのに、オレーナさんの身体はすべてを軽々と持ち上げてみせた。


「凄い……ほんとにできちゃった……」


 すべてのトレーニングを終えて、ぼくは鎖骨下の筋肉に触れてみる。

 ほど良い疲れと、熱を持ったような筋肉の張りはある。けれど、それだけだった。筋を痛めたような感覚もないし、体力にだって余裕がある。なんだったら、いまからもう一度、同じメニューをこなすことだってできそうだった。


「ちっちっちっ。これで驚いてちゃいけませんよ。オレーナさんは、普段ならこの倍は鍛えてるんですから!」


 これで半分! それはほとんど、トップアスリート並みのトレーニングではないのか。


 オレーナさんは、このトレーニングを週に五日。全身をバランスよく鍛えるため、少しずつ部位を変えながら行っていたと凜さんは言う。


 まだ16歳の女の子が、それほどハードなトレーニングをこなしていた。日々積み上げられていただろうオレーナさんの努力を想い、ぼくは自然と目頭が熱くなった。


「さあ、オレーナ。魔法はまだ終わっていないわよ。これからが一番大事な、ト・コ・ロ♪」


 声に合わせて腰を左右に振ったラブリンは、銀色のトレーを取り出した。

 目尻を拭ったぼくの前で、半球型の蓋を持ち上げる。


 出てきたのは、綺麗に盛り付けられた色とりどりの料理の数々だった。


「何度も言うけれど、私の魔法で一番大切なのは食事よ。傷ついた身体を癒し、より強靭に、しなやかに作り変える。特に成長期のあなたには、筋肉だけじゃなくて、内蔵にも栄養が必要よ。健やかな身体の成長のためには、一日に2700キロカロリーは摂取しなさい」

「2700っ!?」


 そんなに食べたら太るんじゃ、と心配するぼくに、凜さんは胸を張った。


「大丈夫です! 食事を小分けにして、一日に必要なカロリーを八回に分けて摂取します。揚げ物を避けて、血糖値の上昇さえ抑えれば、体型をキープするのはそれほど難しくありません」

「でも、いまから学校ですよ? 八回も食事する暇なんて……」

「授業と授業の合間に、間食の時間を設けます。学校には、ちゃんと許可を取ってありますから、心配しなくていいですよ」


 モデルさんって、食事でも努力してるんだ。

 凜さんに渡されたプロテインを飲みながら、ぼくは感心した。

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