第7話 懇願

「凜ちゃん、大丈夫?」

「すみません。ちょっと、オレーナさん成分を一気に吸収し過ぎた反動が……」


 心配する霧江さんに、七々扇さんは鼻を押さえたまま答える。


 上を向いて首筋をとんとん。何度か深呼吸を繰り返して、先ほどから難しい顔をしているオレクサンドルさんに向き直る。


「それで、サーシャさん。オレーナさんの今後についてなんですけど」

「悪いけどね、リン君。レナには、しばらく休養させようと思う」


 七々扇さんの言葉を片手で制しながら、オレクサンドルさんは言った。


「ただでさえ体調を崩したばかりなのに、記憶にまで障害が出ているんだ。このまま続けさせるわけには」

「です、よね……事務所の社長からも、そうするようにって」


 ソファで呆然としていたぼくは、七々扇さんの横顔を振り返った。肩を落として俯く様子が、なんだか泣きそうに見えて、心臓が軋むみたいに脈打った。


 オレクサンドルさんが、秘書のユエさんに指示する声。

 オレーナさんの仕事はすべてキャンセル。学校もしばらく休ませよう。どこか気候のいいところで療養させて、ゆっくり体調を整えればいい。療養先はどこがいいかと、努めて明るく話す霧江さんたちに、ぼくは視線を伏せた。


 細く白い指先を見つめる。この手が掴むはずだった未来を、ぼくは想像してみた。

 多くの人が期待したもの。オレーナさん完璧な女の子が得るはずだった可能性が、ぼくのせいで潰えてしまう。そう考えた瞬間、ぼくの中に激しい感情が巻き起こった。


 ダメだ。それだけは、絶対にダメだ。


 一人の女の子の、春日乃オレーナの未来が台無しになる。


 それは、それだけは、絶対に許してはいけなかった。


「……あのっ!」


 療養先を決めようと、タブレットを覗き込んでいたオレクサンドルさんたちが振り返る。

 萎えそうになる心を必死に鼓舞して、ぼくは凍りかけた舌を動かした。


「ぼ……私、仕事を続けたいです」

「ダメだ。許可できない」


 オレクサンドルさんは、断固とした口調で言い切った。


「レナ、君が誰よりも責任感が強いことは知っているよ。自分がいなくなれば、まわりに迷惑をかけると思っているんだね? でも、それはいけない。自分を犠牲にして誰かの役に立とうとすれば、必ず自分を壊してしまう」


 眼鏡の奥の瞳がぼくを、オレーナさんを見つめる。厳しい顔つき。だが、オレクサンドルさんの声には、親としての慈愛がこもっているように感じた。


「モデルをやめろとは言わないよ。それはレナが努力の末に選び取った道だ。そのことは、僕もキリエも尊重したいと思っている。けれど、いまはダメだ。そんな身体で無理をすることだけは、絶対に許可できない」

「でも、やりたいんです」


 ぼくは、オレクサンドルさんと霧江さんを見つめる。

 ぼくが人生を奪ってしまった人の両親。娘に負担を掛けないよう、記憶がなくなったと知ってからも、懸命に明るく振舞ってくれた優しい人たち。

 そんな人たちに、ぼくはとてもひどいことを言っている。


「レナちゃん、あなた……」

「ごめんなさい。無茶を言っているのはわかってます。ぼ……私の身体が、とても危険な状態にあったことも。お父さんとお母さんが、私をとても心配してくれているのだって知ってます。でも……やりたいんです、私」


 瞼の裏に、オレーナさんの姿がちらつく。さっき初めて知った、モデルとしての姿。何万枚と撮られた写真。身体を作るための栄養とトレーニングの本。


 綺麗な人は、なにもしなくても綺麗なんだと思ってた。でも違った。

 身体を鍛え、レッスンをし、多くの人々の期待に応えようと、オレーナさんは懸命に努力を重ねていた。


「うまく言えないけど、でも、このままじゃダメなんです。ここで諦めてしまうのは、絶対に……」


 自分は誰なのか。なぜ春日乃オレーナになってしまったのか。


 この不思議な事態を引き起こした原因に、ぼくは心当たりがない。なにが起こっているのか、誰が引き起こしたのかもわからない。

 それでも、いまオレーナさんの身体を預かっているのはぼくだ。だからぼくには、オレーナさんの人生を守る義務があった。


「お願いします。私に仕事を続けさせて……七々扇さん?」


 隣で七々扇さんが号泣していた。マジ泣きだった。それも、ちょっと見たことがないレベルの。スカートにぼたぼたと落ちる水滴の量が多すぎて、ぼくはなにを言おうとしていたのか忘れた。それよりも、七々扇さんの涙腺が心配だった。


「ごべんなざい、わだじがんどうじぢゃっで……」


 鼻を啜り過ぎているせいか、七々扇さんの声はどうにも不鮮明だった。


「ずっど……ずどずごいひどだでおぼでで……でぼ、でぼっ」

「え、なんですか? デボン紀がどうしたんです?」

「あだぢのぞうぞういぼうでじだ……ぼべーばばんば、ばっばいあだぢのべばびばばでず」

「せめて濁点を抜いてくれません? さっきから、ばびぶべぼしか聞き取れなくて」

「ぼべーばばんばあだずのべばびでぶ! ぶげんびぼべまず!」


 これ会話成り立ってます?


「ずびばぜん、ぢょっど……」


 立ち上がった七々扇さんは、ふらふらとリビングを出て行った。洗面所のほうから水音。


 戻ってきた七々扇さんは、どこかすっきりした顔をしていた。


「ごめんなさい、取り乱しました。もう大丈夫ですので」


 ぺこりと頭を下げる。


「あの、体調が悪いようでしたら、また後日でも」

「いけます。推せます。むしろ激推しです!」


 ちょっと意味が、よく……


 なぜか決意を固めた様子の七々扇さんは、ぼくの疑問に答えることなく「私からもお願いします」と、オレクサンドルさんに頭を下げた。


「オレーナさんのことは、わたしが見張ります。絶対に無茶はさせません。撮影もショーも、わたしがサポートします。だからお願いします。オレーナさんに、仕事を続けさせてあげてください!」


 置いて行かれる形になったぼくも、慌てて頭を下げる。


「リン君。いくらレナの親友でも、その頼みを聞くわけには……」

「社長。ご意見を述べさせていただいても?」


 それまで、ずっと壁際に控えていた秘書のユエさんが不意に口を開いた。

 切れ長の瞳でぼくたちを見つめたユエさんは、小さく瞬きすると、


「仕事を続けたいというお嬢様の申し出。私は賛成です」


 簡潔に告げられた言葉に、オレクサンドルさんは眉根を寄せた。


「ユエ君。君までなにを言い出すんだ?」

「お医者様によれば、お嬢様の記憶障害は強いストレスが原因とのこと。普段通りに過ごしていれば、いずれ元に戻るという話です。でしたら、このまま静養させるよりも、いっそお仕事をしたほうが良い影響を与えられるのでは?」

「仕事をしていれば、それをきっかけにして記憶が戻る可能性があると?」

「はい。もちろん、お嬢様の体調に配慮しながらですが」


 オレクサンドルさんは、拳を額に当てて考え込む。


 固唾を飲むぼくたちの前で、青灰色の瞳がうっすらと開かれた。


「キリエ。君はどう思う?」

「そうねえ……私も、レナちゃんのことは心配だけど」


 ちらりと、こちらを振り返る霧江さん。


 お願いします、と視線に意思を込めたぼくに、霧江さんは深々と息を吐き出した。


「……私も、お仕事では手を抜けたないタイプだから。レナちゃんの気持ちもわかるのよねぇ」


 肩を落とした霧江さんは、ふっと微笑むと、どこか諦めた様子で言った。


「やらせてあげましょうよ、あなた」

「キリエ、しかし……」

「あなただって、仕事に夢中でよく倒れるじゃない。何日も部屋にこもって、食事も睡眠も忘れて。それでも、やめようなんて思わないでしょう?」

「まあ、たしかに。だが、それとこれとは……」

「サーシャ」


 霧江さんの眼差しに、オレクサンドルさんは口を閉ざした。


「レナちゃんは、私たちの子なのよ? いま無理に止めたらどうなるか。想像がつくでしょう?」


 オレクサンドルさんの口元が、苦々し気に歪む。


 キッチンからお茶を持ってきた中林さんが「そういえば」と、頬に手を当てながら言った。


「旦那様は、昔から無茶ばかりされる方でしたねぇ。新しい仕組みを思いついたと言っては、何日も飲まず食わずでパソコンの前に齧りついて」

「そうそう。私が無理やりお風呂に入れたら、湯舟の中までパソコンを持ち込もうとしたり」

「おいおい、それを言ったらキリエだってそうじゃないか。廊下で倒れている君を、僕が何回助けたと」

「本当に。お二人とも、もう少し大人になっていただかないと」


 じとりとした中林さんの視線に、二人はきまり悪げな顔をする。


 一口お茶を啜り、オレクサンドルさんは黙り込んだ。両手の指を組み合わせ、目まぐるしく回転する思考を表すように、眉間が小刻みに震えている。


「レナ」

「はい」


 小さく息を吐いたオレクサンドルさんに、ぼくは居住まいを正した。


「絶対に無理はしないと約束できるかい? もし、また体調が崩れるようなことがあれば、今度こそすべての仕事をキャンセルして療養する。そう誓えるかい?」

「はい! 絶対に、この身体を傷つけるような真似はしません!」


 ぼくの答えに「その身体は君のものなんだよ?」と、オレクサンドルさんは嘆息した。


「ユエ君、リン君。レナのことを頼めるかい? この子が無茶をしないよう、しっかり監視してくれ」

「任せてください! レナさんの体調は、わたしが責任をもって管理します!」

「お嬢様に負担を掛けないよう、万全のスケジュールを組ませていただきます」


 歓声を上げる七々扇さんを横目に、ぼくはずるずるとソファに沈み込んだ。


 時計を見ると、朝食が始まってから、まだ一時間と経っていない。すでに十年分くらい疲れたような心地で、ぼくは手のひらを見つめた。


 なんだか大変なことをしてしまった気がする。つい勢いで言ってしまったけれど、そもそもぼくに、オレーナさんの代わりなんて務まるんだろうか?

 世界的なモデルコンテストで入賞し、何十万、何百万という人々から注目され、賞賛される。そういう「完璧な女の子」の人生を、ぼくはこれから守るのだ。


 圧し掛かる重圧に、今更ながら心臓が縮み上がった。


「よかったですね、オレーナさん!」


 七々扇さんが、ぼくの手を握る。視界の端では、いまだ迷っている様子のオレクサンドルさんに、霧江さんが寄り添っていた。


 小さく会釈してきた霧江さんに頷いてから、ぼくは嬉しそうに笑う七々扇さんと見つめ合った。


「今日からよろしくお願いします、七々扇さん」

「凜でいいです。昔から、そう呼ばれてましたから」


 凜さんは、にこりと花が開くように微笑んだ。


「はい、凜さ」

「さっそくですけど、明日のトレーニングは朝五時開始ですから。遅れないようにしてくださいね」


 え?


 固まるぼくの前で、凜さんはスマホのスケジュールアプリを開く。

 パソコンを開いたユエさんと、なにやら真剣な顔で打ち合わせを始めた。


「ラブリンには、わたしから伝えておきます。ユエさんは、エラの編集部に連絡を」

「承知しました。撮影は短時間で済ませるよう、言い含めておきますので」

「お願いします。それから中林さん。オレーナさんのお食事について、ご相談したいんですけど」

「どうぞどうぞ、なんでも仰ってくださいな! この私で力になれることがあるなら、なんでも協力いたします」


 ぼくを置いてけぼりにして、話がどんどん進んでいく。


 凜さんの洪水じみたバイタリティに、ぼくはちょっとだけ不安になった。

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