第6話 春日乃オレーナという少女

「じ、じゃあ、わたしのことはっ!? オレーナさん、わたしのことはわかりますか!?」


 小さな指が二の腕に食い込む。ぼくは唇を引き結んだまま、ゆっくりと首を振った。


 まただ。また、ぼくのせいで傷つけてしまった。


 へなへなとソファに座り込んだ七々扇さんは、ぼくと霧江さんの顔を交互に見つめる。黙り込むぼくの姿に、なにかを察したらしく「記憶が……」と囁くような声を漏らした。


「大丈夫! 心配しなくても、そのうち思い出すから」

「そうだとも。別に、なにもかも忘れてしまったわけじゃないんだ。レナとは、これからまた一緒に思い出を積み重ねて……」

「待ってて!」


 七々扇さんは、俯いていた顔を持ち上げると、決然とした眼差しでぼくを見つめた。


「すぐ戻るから!」

「え、あの……」


 呼び止める間もなく走り出し「十分……いや、二十分で戻るから!」とリビングを飛び出して行く。









 二十分後。


 ほんとに戻ってきた七々扇さんは、


「これっ!」


 肩で息をしながら、荷物でパンパンになった鞄を突き出してくる。困惑するぼくたちの前で鞄の口を開くと、中身をテーブルの上にぶちまけた。


 出てきたのは、紙の雑誌だった。見た限り、どれも女性向けのファッション誌。七々扇さんは、その中の一冊を手に取ると、ぼくの鼻先に突き付けた。


「これが三年前のray=out。オレーナさんの写真が初めて載った雑誌です」


 開かれたページを見てぼくは、はっとした。


 ぴたっとした服の上にジャケットを羽織り、どこか気怠けな表情で髪をかき上げているモデル。化粧をしているせいか、それとも年齢のせいか、かなり印象が違うけど間違いない。


 そこに写っていたのは、まだ中学生のオレーナさんだった。


「こっちは、去年のティーン・テンダンス。夏号のヴェラ・クバ。年明けに出たJ2J。オレーナさんが表紙になった号は、どれもWEBで普段の三倍近いPVがあったんですよ?」


 ルックス、プルウィ、ハーパー、ラッシュ、ブッティ&ブリッグス──様々な雑誌に、様々な格好のオレーナさんが載っている。

 WEBを、紙面を、彩る美しい少女の姿に、ぼくの視線は釘付けになった。


「オレーナさんは、小さい頃からすっごく綺麗な人でした! 街を歩けば、いろんな人が振り向いて。渋谷なんか、二、三メートル歩くごとにスカウトから声を掛けられるんですよ?」


 おかげで買い物どころではなかったと、七々扇さんは膨れっ面をする。


「LMLで5位になってからは、それはもう凄い騒ぎで。

 あ、リゲーレってわかります? アメリカに拠点がある世界最大級のモデルエージェンシーで。LML(リゲーレモデルルック)は、次世代のモデルを発掘するイベントなんです。審査の様子は、世界中に配信されてて」


 タブレットを取り出した七々扇さんは、そのときの映像を画面に流し始めた。

 外国で作られたドキュメンタリー番組。世界中から集まったモデル候補生たちが、審査員の前で厳しいチェックを受ける様子が映されていく。


「あ、いま映りました! ほら、ここにも! ここにもオレーナさんが!」

「やっぱり、レナちゃん美人だわぁ。他のモデルさんたちにも全然負けてない」


 画面を覗き込んだ霧江さんが、嬉しそうに手を叩く。


 写真を撮られ、ランウェイを歩き、次々と審査を受けていくモデル候補生たち。様々な国の、様々な人種の美しい少女たちの中に、オレーナさんは立っていた。


 いまよりも少し幼い。髪が短く身体もまだ未成熟で、中性的な顔立ちから、まるで少年のようにも見える。


 ショート丈のタンクトップにレギンスという格好で、オレーナさんは堂々と審査員の前を歩いた。ライトに照らされた金髪が輝き、長い手足が躍動する様は、それだけで多くの人々の目を惹きつけていた。


「ウォークは完璧です! ポーズだって、他の子たちよりずっと上手かったんですよ? なのに、5位だなんて」

「ああ、きっと審査員の目が節穴だったんだよ。こんなに綺麗なレナを1位に選ばないなんて」


 うんうんと頷き合う、七々扇さんとオレクサンドルさん。


「いろいろあって、リゲーレとの契約はなくなったんですけど。でも、日本に帰ってからは、いろんな雑誌が専属契約の話を持ち掛けてきました。オレーナさんが身に着けた商品は、あっという間に品切れ。企業の株価にだって影響を与えちゃうんですから」


 映像を止めた七々扇さんは、タブレットにニュースサイトの記事を表示した。

 一年ほど前の記事には、ぼくでも知ってる有名な化粧品メーカーのCMに、オレーナさんが起用されると書かれていた。


 香水、アクセサリー、リップ、トレーナー、ジーンズ、キャップ。七々扇さんの指先が画面をスライドするたび、オレーナさんとタイアップした商品が、次々と映し出されていく。


「すごい……」

「SNSのフォロワーだって凄いんですよ。ほら、日本以外からもコメントが」


 七々扇さんから手渡されたスマホを覗く。


 写真撮影中のワンシーン。私服のコーディネート。これはダンスの練習だろうか? トレーニングで汗を流し、演技のレッスンを受け、眠る前にはピアノとバイオリンを習う。


 アカウントに投稿されたオレーナさんの画像には、主にアジア圏の国々から、無数のコメントが寄せられていた。


「オレーナさんは、すっごくすっごくプロ意識が高い人だったんです。どんなときだって、自分に妥協を許さなくて。毎日食事もトレーニングも、勉強だって頑張って、全部全部一位になっちゃう。そんなオレーナさんに、何百万って人たちが憧れてるんです。

 次は、どんなファッションを見せてくれるんだろう? どんな凄いことをしてくれるんだろうって。みんなわくわくしながら待ってるんです」


 ショーの舞台裏。スタッフと綿密な打ち合わせを終えたワンボックスの車内。座席に深く腰掛けて目を閉じるオレーナさんの写真に、ぼくは昨日見た光景を思い出した。


 ディスプレイラックに並べられた、たくさんの難しい本。クローゼットの中には、大量の服と化粧品、アクセサリー。机の上には、複数のパソコンとカメラ。


 そうか。だから、あんなに写真があったんだ。


 何気なく手にしたファイルに挟まれた、数えきれないほどの写真。あれは、このためだったんだ。自分を被写体にポーズの練習をくり返して。そんな写真を何千枚、何万枚も綴って研究して。その成果は、たしかに雑誌の中で結実していた。


 様々な服を着こなし、大きく紙面を割いて特集が組まれたページの見出しには、こんなうたい文句が躍っている。



『オレーナ──誰もが憧れる完璧な女の子』



 七々扇さんは、ぼくの手からスマホを取り上げると「失礼します」と言って写真を一枚撮影した。画面に素早く指を走らせてから、もう一度スマホを渡してくる。


「見てください」


 画面には、ソファに腰かけるオレーナさんの姿が映っている。先ほど七々扇さんが撮影した写真が、SNSのアカウントに投稿されていた。と、ぼくが見ている前で通知を示すアイコンが、画面の右上にポップアップする。


 七々扇さんの指が通知欄をタップする。ハートマークの群れが画面上を流れていって、ぼくは驚いた。


「心配してました」「体調は大丈夫ですか?」「我爱你ウォーアイニー奥莱娜オレーナ」「so cute!」「어서 오세요《おかえりなさい》!」


 いろんな国の、男性も女性も、子供も大人も、オレーナさんを気遣い、励ます言葉が並ぶ。


「これ、みんな……?」

「全部オレーナさんに向けられた言葉です。倒れたのが撮影中だったので、入院の件が漏れてしまって」


 入院しただけで、これほどの人たちに心配されるのか。オレーナさんの状態を憂いて応援してくれる人たちが、こんなにも──


 そのとき、手足に電流みたいな感覚が走ったのを、ぼくは覚えている。

 もし、ぼくの人生を決める瞬間があったとすれば、きっといまこの瞬間だったと思う。


 そのことに気付いたのは、ずいぶん後になってからのことだった。

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