第5話 襲来

 辞世の句をしたためている途中で冷静になった。


 いや、切腹はダメだ。いまの身体はオレーナさんのもの。切腹なんかしたら、オレーナさんの綺麗な身体に傷をつけてしまう。


 その後の夕食は、まったく味がわからなかった。

 終始、和やかに会話を続けるオレクサンドルさんと霧江さんの話に頷くのに必死で、なにを食べたのかさえ覚えていない。

 夜になっても、罪悪感と後ろめたさが込み上げてきて眠れず。


 またしても迎えた徹夜明けの朝。

 地上より幾分早く訪れる高層階の夜明け。寝不足の身体に降り注ぐ朝日の眩しさを恨めしく思いながら、ぼくはもぞもぞとベッドから起き出した。


 16歳の身体でも、さすがに二晩完徹は辛い。ほんとはもう少し横になっていたいが、体調不良を疑われても困る。ただでさえ記憶喪失だと思われているのに、これ以上まわりに心配を掛けるわけにはいかなかった。


 昨夜、中林さんに渡された服を手に取り、ベッドの中で着替える。靄が掛かったような意識のまま、階段で一つ下の階へ。

 リビングへ入ると、すでにオレクサンドルさんと霧江さんが席についていた。


「おはよう、レナ」

「レナちゃん、昨夜はよく眠れた?」


 二人の挨拶にもごもごと答えつつ、ぼくはテーブルの真ん中の席へ。腰を下ろした途端、霧江さんがタブレットを片手に身を寄せてきた。


「ねね、レナちゃんは旅行へ行くならどこへ行きたい?」


 いきなりなんの話ですか?


「お医者さんも言ってたでしょう? しばらく安静にしてなさいって。なら、いっそのこと日本を離れて、どこか外国に行ってみるのもいいんじゃないかなって、お父さんと話してたの」


 見て見て、と差し出されたタブレットには、ヨーロッパらしき美しい景色が表示されていた。


「アルガルヴェなんてどうかしら? あそこは、いまの季節でも温かいし、なにより魚介類がおいしいのよ!」

「魚介類なら、ドゥブロブニクも素晴らしいね。あそこには知り合いの別荘があるから、頼めばきっと貸してもらえるよ」


 ぼくを挟んで、オレクサンドルさんと霧江さんは次々と候補地を上げていく。

 どれも聞いたことのない地名。海外旅行といえば、ハワイとか台湾とか、そういうイメージしかないぼくには、どこもちんぷんかんぷんだった。


「さ、皆さん。朝食ができましたよ」


 なんと答えればいいのか。ぼくが椅子の上で小さくなっていると、キッチンから出てきた中林さんが、てきぱきと料理を並べていく。


 昨夜も思ったけど、今朝もぼくの知らない料理ばかりだった。かろうじて、クレープみたいなものの上にイクラが載ってるとか、あれはサラダとハムだな、くらいがわかる程度。どれも見た目からして馴染みがなく、ぼくには味の想像もつかない。


 これがお金持ちの食卓か。皿に載せられた真っ白くてふわふわしたものをナイフで切り分け、恐る恐る口に運ぶ。甘くてコクがあってふわふわで、これは牛乳の香り?


「いかがですか? 今朝は、お嬢様の好きなものをと思いまして、フレンチトーストにしてみたのですが」

「はい。とっても、おいしくてっ……」


 あ、ダメだ──思った瞬間には涙が溢れていた。次々に玉のような水滴が頬を伝って、ぼくは慌てて目元を押さえた。


 手からフォークが落ちて皿にぶつかる。その音でこちらに気付いた霧江さんたちが、跳び上がるみたいに駆け寄ってきた。


「レナちゃん、大丈夫!?」

「どうしたんだい、レナ!? どこか痛いところでも」


 ぼくは首を振った。違うんです。訴えたいのに上手く言葉が出てこない。喉が万力で絞められたみたいになって、ひたすら不明瞭な音の連なりを吐き出し続ける。


 違うんだ。別に悲しいわけでも、痛いわけでもない。ただ、ぼくは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


 オレクサンドルさんも、霧江さんも、自分の娘だと思ってぼくを気にかけてくれている。でも、違うんだ。ここにいるのは、春日乃オレーナじゃない。自分が何者かもわからない、赤の他人なんだ。


 どれだけ愛情のこもった言葉を掛けられても、本当にそれを聞くべき人はここにいない。なにもしていないのに衣食住を保証され、あまつさえ静養のために旅行だなんて。


「大丈夫だから。いまは混乱してるだけ。記憶だって、いつかきっと元に戻るわ」

「そうだよ、レナ。君はなにも心配しなくていい。レナのことは、僕たちが必ず守るから」


 ご両親の気持ちが胸に刺さる。こんな得体の知れないやつのせいで、お二人に心配をかけているかと思うと、身を引き裂かれるような思いがする。


「レナ、辛かったら正直に言いなさい。我慢しなくていい。君には、その権利がある」


 ごめんなさい。ぼくにその権利はないです。


 だってぼくは、春日乃オレーナじゃないんだから。


「やっぱり、切腹しかっ……」


 すべての事情を打ち明け、しかるべき罰を受けた後に果てるしかない。ぼくはそう思い定めた。


 娘を心配するオレクサンドルさんたちに、真実を話そうとしたときだった。


「お食事中失礼いたします」


 使用人の一人(たしか梅原うめはらさんといったか)が、そろそろとリビングに入ってくる。


「お嬢様。ご友人がお越しになられているのですが?」

「ご友人?」


 機先を制されたぼくは首を傾げる。


 梅原さんは頷きながら、


「はい。七々扇凛ななおうぎりん様でございます」









 リビングへ入ってくるなり、その少女はぼくの胸を目掛けて飛び込んできた。


「オレーナさん!」


 ぱっ、とその場から跳び退く。急に止まれない少女は、ぼくが座っていた椅子を巻き込んで、どんがらがっしゃん──


「はっ」


 いけない、つい反射的に。


 見ると、リビングの端まで転がって行った少女は、倒れた椅子を支えに立ち上がろうとしている。

 小柄な少女だった。女性としてはかなり長身なオレーナさんと比べると、まるで小動物みたいに小さい。


 意外とダメージがあったのか、少女は生まれたての小鹿みたいに足を震わせながら、ぼくを見上げる。小さな顔に不釣り合いな大粒の瞳を見開いて、


「オレーナ、さん?」

「は、はい」

「オレーナさん」

「そうです。私がオレーナさんです」


 昔のコント番組に、こういうシーンがあったような。


 少女──七々扇凜さんは、よろよろとこちらに近づいてくる。震える足は徐々に早まり、やがて速度を増して突っ込んでくる。


 もう一回避けたらどうなるんだろう? ちょっとだけ思ったけど、さすがに今度はやめておいた。両腕で受け止めた七々扇さんは、まるで小型犬みたいに軽かった。


「よかった……オレーナさんが生きてた!」


 オレーナさんの胸に顔を埋めて泣きじゃくる。栗色の髪を振り乱すたび、甘いシャンプーの匂いが漂う。少女特有の柔らかさに意識が集中しそうになって、ぼくは唇を噛……ダメだ、オレーナさんの身体が傷つく。ならば太腿をつねってと思うがこれ全部オレーナさんの身体だああぼくはいったいどうすれば!?


「わたしッ……オレーナさんが倒れたって聞いて……すっごくすっごく心配してッ……!」

「ええっと、その……ご心配をおかけして」

「オレーナさんが死んじゃったらどうしようって……三日間ずっと不安で不安で……」

「ああ、はい。その節はどうも」


 ごめんなさい。中身が違って本当にごめんなさい。

 もう何度目になるかわからない謝罪を胸中で繰り返す。


「オレーナさんが目覚めたって聞いて、すぐに病院へ行こうとしたんですよ? それなのに、あのクソ親父。新製品の紹介動画を撮るからって、結局まる一日付き合わせやがってッ」


 クソ親父?


 ぐりぐりと胸に顔を押し付けていた七々扇さんは、「よかった……ほんとによかった」と繰り返しながら鼻を啜る。さっきから七々扇さんの指が胸に食い込んで、地味に痛い。


「フラグが立ったわけじゃなかったんだ……ほんと、それだけが心配で……」

「ふらぐ?」


 なんの話だろう? 小声だったせいで、よく聞こえなかった。


 服の袖でごしごしと涙を拭った七々扇さんは、急に真面目な顔を作ると、大きな瞳でぼくを睨みつけた。


「いいですか、オレーナさん。これからは、無茶な減量なんてしちゃダメですからね? ちゃんとラブリンの話を聞いて……オレーナさん?」


 おどおどと視線を逸らすぼくを見て、異変に気付いたらしい。


「凜ちゃん、実は──」


 オレーナさんが記憶の一部を失っている(すみません。中身が入れ替わってて、ほんとごめんなさい)ことを説明する霧江さん。


 それを聞いた七々扇さんは、口元を押さえて息を呑んだ。

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