第4話 もはや、これまで……

「それでは、お夕飯の時間になったらお呼びしますので。それまで、ゆっくりとお休みになられてください」


 そう言って、ゆっくりとドアを閉じる中林(なかばやし)さん。家政婦さんがいるなんて、さすがは日本有数のお金持ち。

 そのことに感心しつつ、やっと一人になれたぼくは、大きくため息を吐き出した。


「疲れた……」


 部屋のソファにへたり込む。

 今日一日で、いろいろなことが起こり過ぎた。いや、事前に予兆はあったのだが、まさかここまでとは思わなかった。


 豪華な病室。やたらと設備の整った病院。有能そうな秘書さんに、高級な迎えの車と熊護衛。

 オレーナさんのご両親はきっとすごい資産家なんだろうな、とは感じていた。でもまさか、世界的に有名な芸術家とIT企業の社長だったなんて。


「ビルが自宅って、そんな人ほんとにいるんだ……」


 それも五十階建てビルの最上階から四階分。いわゆるペントハウスと呼ばれる高級住宅が、春日乃家の自宅だった。


『そうか、家のことは覚えてないんだね? だったら案内しよう』


 あまりの豪邸に絶句するぼくを見て、オレクサンドルさんは勘違いしたらしい。両親揃って案内された家の間取りは、それはもう凄かった。


 バスルールが三つに、サウナ完備。暖炉が備え付けられたレストラン顔負けのキッチンに、パントリーが二つと金庫みたいな冷蔵庫。庭師さんが手入れをしているというプライベートテラスには、色とりどりの草花が咲き乱れ、鉄骨とガラスでデザインされたアウトドアリビングは、おしゃれなカフェのよう。屋上には、お金持ち定番のプールとジャグジー。


 下の階には、使用人と護衛が住んでおり(この費用も春日乃家持ち)、ビルにはシアタールームにトレーニングジム、専属のトレーナーまでいるという。


 ちょっと現実離れし過ぎでは? 記憶がないぼくだけど、これが一般的な住宅でないことだけは理解できる。途中から怖くなって、足が震え始めたくらいだし。案内されてる間、ずっと薄っすら引いてたし。


 現実離れと言えば、この部屋もそうだ。ぼくは滑らかな革のソファに身を沈めたまま、ゆっくりと周囲を見回した。


 ビルの最上階の一角。ここだけで一家族が、十分余裕をもって暮らせるだろうほどの広々とした空間が、オレーナさんの自室だった。


 レンガ調の壁紙。使い込まれて飴色に輝く板張りの床。家具の数は最低限だが、どれもセンスが良くてすごく高そう。名前のわからない不思議な観葉植物がいくつも飾られ、至るところに設置された間接照明が、部屋全体をぼうっと照らし出している。


 ディスプレイラックというのだろうか? スチールと黒い木の板で出来た不思議な形の棚には、語学、歴史、数学、経済学と、難しそうなタイトルの本が並ぶ。近づいてよく見ると、そのうちの三分の一くらいは、栄養学やトレーニング、解剖学に関係する本だった。


「お医者さんを目指してるのかな?」


 難解な単語が並ぶ分厚い専門書や、外国語で書かれた論文集らしきもの。ぼくでは内容の半分も理解できそうにない。


 部屋の壁に作り付けられたデスクの上には、パソコンが数台に立派なレンズの付いたカメラ。学校の教科書と並んで、様々な国のファッション雑誌が、ずらりと揃えられている。


 背表紙に「1」とだけ書かれたファイルを手に取って、ぼくはぎょっとした。


「……自撮りって、こんなにいるのかな?」


 ファイルにぎっしりと挟まれた、オレーナさんの写真。服装やポーズを変えて何百枚も撮られたものが、几帳面に収められている。


 似たようなファイルが、デスクには他に十一冊。ディスプレイラックにもかなりの数が並べられていて、ちょっと怖くなったぼくは、急いでファイルを元の場所に戻した。


 デスクの反対側には、観音開きの扉が一つ。開くと、中はウォークインクローゼットになっていた。六畳くらいの室内には、大量の服と靴、アクセサリー、メイク道具などが種類別に収納されている。


 手前の引き出しがなんとなく気になって、ぼくは取っ手に手を掛ける。

 中に入っていたのは、女性ものの下着だった。


「そうそう、お嬢様……なにをなさってるんです?」

「ふぁいっ!?」


 クローゼットに向けて土下座しているぼくを見て、中林さんが怪訝そうな顔をする。


「いや、あの……ちょっと、落し物を……」

「まあっ、でしたら私もお手伝いを」

「い、いいですいいです! もう見つけましたからっ!」


 わざとじゃないんです。ほんと、マジで。


 心の中でなおもオレーナさんに謝りながら、ぼくは中林さんに向き直る。


「それで、あの。なにかご用でも……?」

「ああ、そうそう」


 両手を、ぱん、と打ち鳴らした中林さんは、


「お休みになられるのでしたら、こちらの仕掛けをお使いください。天井からベッドが降りてきますので」

「は?」


 中林さんは、入口脇に置かれたポールハンガーに手を伸ばした。腕の一本を下向きに引っ張ると、頭上からモーターの駆動音が聞こえてくる。


「凄いですよねぇ。奥様も旦那様も、こういう仕掛けが大好きな方たちなんですよ。月に一度は部屋

を改造されるものですから、私たちも覚えるのが大変で」


 天井からロープで吊るされたベッドが降りてくるのを、ぼくは唖然として見つめた。

 中林さんによると、こういった仕掛けは家のいたるところに設置されているらしい。壁から出てくる食器棚や、床から競り上がってくるテーブル。螺旋階段を利用して作った、自動昇降式のワインセラーなどなど。


「そうそう! この間なんか、家の中から飛行機を飛ばせないかと旦那様が言い出して」

「飛行機……」

「業者まで呼んで、ご相談なさったんですけどね? なんでも、雨が家の中へ入ってくるようになるって言われて。それで諦められたそうですよ」


 それではごゆっくり、と今度こそ出て行く中林さん。

 しばらく無言でベッドを眺めていたぼくは、ゆっくりとポールハンガーの前に移動した。先ほど中林さんが操作した腕を掴み、押し上げる。


 天井裏に設置されたモーターが、ロープを介してベッドを引き上げ、そのまま天井に収納。再び腕を押し下げればベッドが降下し、上げれば収納。


 降下、収納。降下、収納。降下、収納。降下、収──


「ダメだ、頭がついて行かない……!」


 ダブルサイズのベッドに突っ伏す。

 ちょっと意味が分からない。これが生活レベルの違いなのか? なにかそういうのとも違う気がする。


 混乱することしばし。硬過ぎず柔らか過ぎず、絶妙な肌触りのベッドに意識を吸い込まれかけていたぼくは、視界をかすめた西日にのろのろと顔を上げた。


 部屋の壁一面を切り取った、大きなガラス窓。地上五十階から見下ろす夕暮れの街並みはミニチュアめいて、どこか現実感がない。


 この身体で目覚めたときから続く、どこかふわふわとした不安定さ。足元が定まらず、常に落ち着かない感覚。


「……やっぱり違うよなぁ」


 この身体春日乃オレーナは、ぼくのものじゃない。混乱したり面食らったり状況に流されたり。いろいろあり過ぎて考える暇がなかったけれど、その事実はそろそろ認めないといけなかった。


「どうなってるんだよ、いったい……そもそも、ぼくは誰なんだ?」


 昨夜から何度も記憶を探るが、自分に関する情報だけが、まったくと言っていいほど思い出せない。


 そもそもこれは、どういう状況なんだろう? 人格の入れ替わりなんて、現実に起こるものなんだろうか。それとも、ぼくが幽霊になってオレーナさんに憑りついてるとか? その場合、ぼくの本体? は死んでいるということに──


「やめよう」


 凄く暗い気分になるだけで、なにも解決しない。


 精神的に疲れたぼくは、のろのろとベッドの上に這い上がる。

 手足を投げ出して天井を見上げた途端、瑠璃色の瞳に魅入られて、ぼくは小さく息を吐いた。


「ほんとに綺麗な人だな……」


 天井に設置された姿見を見上げ、呟く。


 ベッドに広がった髪が、まるで絹糸のようだ。手足はすらりと長く、およそ一般的な日本人とは腰の位置からして違う。

 ガラス細工のような曲線を描く腹部。対照的に無地のTシャツを盛り上げる胸元は刺激が強すぎて、直視するのが躊躇われ──


「うひゃっ!?」


 ショートパンツの裾を直そうとして、指先が太腿に触れる。瑞々しく、吸い付くような肌。同じ人間のものとは思えない滑らかな感触に、ぼくはベッドの上で跳ね上がった。


 この身体が自分のものではないと感じる最大の理由。それは、この身体にぼく自身が、その……ドキドキしているから。


 だって考えて見て欲しい。もし朝目覚めて、自分の身体が見知らぬ女性になっていたら? それも外国の映画で見るような、とびきりの美少女だったとしたら。

 鏡を目にするたび、自分の身体に触れるたび、その感触に心臓の鼓動が跳ね上がる。なんだかとてもイケないことをしているような、ひどく背徳的な気分を味わい続けることになったとしたら?


 ベッドの上で大の字になりながら(オレーナさんの身体に迂闊に触れないため)、ぼくは興奮とも羞恥ともつかない感情に眉根を寄せた。


 こんなふうに感じるのは、きっと本来のぼくが男だからだろう。日常のちょっとした動作でも、この身体で行うと違和感を感じる場面が多い。こう、身体の重量配分が違うというか、あるべきはずのものがなくて、なかったものがあるというのは、いろいろと不都合が──


「──いやこれ、犯罪なのでは?」


 はたと気付いて愕然とする。


 なんでいままで気付かなかったんだろう。他人の身体を乗っ取るだけでも重罪なのに、あまつさえその身体に、その、興奮しているだなんて──


「違うんですっ、これはぼくの意思じゃなくて!」


 でも記憶がないし。入れ替わった前後の状況だってわからないから、ぼくが自分の意思でやった可能性も──


 得体の知れない感情が洪水みたいに押し寄せてきて、ぼくはベッドの上にうずくまった。罪悪感とか後悔なんて生易しいものじゃない。もっと熱くて痛いものが、身体の奥底から湧き上がってくる。

 オレクサンドルさん、霧江さん、ユエさん、イゴールさん、中林さん、それに病院の人たち。これまでに出会った、オレーナさんを気遣う人々の顔が脳裏に浮かぶたび、ぼくの胸は嵐の海の放り出された筏みたいにかき回される。


 どうすればいい? どうすれば償うことができる? あの優しい人たちからオレーナさんを奪ってしまった責任を、ぼくはどうやったら取ることができる?


 額を膝頭に押し付けながら、ぼくは自分にできることを必死で考えた。

 記憶もなにもかも失ってしまったぼくが、唯一自分の意思で成し遂げられることなんて──


「もはや、切腹してお詫びするしかッ……!」

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