第3話 やっぱりご両親にはついて行けません

 オレーナさんのご両親は、手を取り合って喜んだ。


「すごいわ、あなた! 私たち、もう一度子育てができるのよ!」

「ああ、君の言うとおりだよキリエ! 僕たちの天使をもう一度育てられるなんて、こんな素晴らしい話はない!」


 予想外の反応。というか予想の斜め上過ぎて、上手くリアクションが取れない。


 普通こういうときって、もっと悲壮な感じになるのでは?

 疑問符を浮かべるぼくを無視して、ご両親は話を進めていく。


「先生、レナちゃんの退院はいつ頃に?」

「もう一日様子を見て、問題なければ明日にでも」

「ユエ君、すぐに準備を。今後のレナの生活に必要なものを、リストアップしておいてくれ」

「かしこまりました」


 呆気にとられるぼくを見て、オレーナさんの母親が微笑みを浮かべる。


 ぼくの、正確にはオレーナさんの両手を握り、


「大丈夫よ、レナちゃん。私たちは、あなたの味方だから。なにがあったって、必ずレナちゃんのことを守るわ」


 慈愛のこもったその言葉に、ぼくはただ頷くことしかできなかった。









 結局、不安と混乱で一睡もできないまま迎えた翌朝。


 退院の手続きを終え、あくびを噛み殺しながら病院のエントランスに立ったぼくは、熊と対峙していた。


「心配しましたぜ、お嬢様。何日も目を覚まさねぇと聞かされて、あっしらもずっと気を揉んでたんでさぁ」


 熊が人の言葉を喋ってる。

 違った。正確には熊みたいな大男が、だ。


 見上げるような大男だった。軽く二メートルは超えている。大きく盛り上がった肩や背中の筋肉のせいで、三メートルくらいあるようにも感じる。


 偏光グラスを掛けた外国人男性は、よろよろと後退るぼくを見て、悲しげに眉尻を下げた。


「まさかとは思いやしたが、お嬢様は本当に記憶をなくされてるんですな……」


 お労しい、と偏光グラスを外して目元を押さえる熊外国人。よく見ると、顎から左の目尻に掛けて古傷が走っており、それが余計に男の人相を凶悪に見せていた。


「レナ、彼はイゴール。長年、我が家を守ってくれている頼もしい男だよ」


 オレーナさんの父親──春日乃(かすがの)オレクサンドルさんというらしい。ちなみに母親は、春日乃霧江(かすがのきりえ)さんだ──が、熊外国人=イゴールさんの肩を叩く。

 SPというやつだろうか。イゴールさんは、巨大な砲丸じみた拳で胸を叩くと、


「安心してくだせぇ。お嬢様のことは、あっしが必ず守りやすから」


 そう言って白い歯を見せる。本人は笑っているつもりだろうが、サメが獲物に食いつく寸前にしか見えない。


 退院の手続きを終えた秘書のユエさんと合流する。病院前のロータリーへ向かうと、そこには黒塗りの大型バンが停まっていた。

 有名な高級自動車メーカーのエンブレム。ドキドキしながら車内に乗り込んで、ぼくは言葉を失った。


 まず目につくのは、キャメル色の座席。一目で高価とわかる皮張りの内装に、ガラス張りになった天井からは、さんさんと陽の光が注いでいる。広々とした車内は、大人四人が向かい合わせに座っても、十分に手足を伸ばせるほど。運転席の背後には大型の有機ELディスプレイまで備え付けられ、さながら高級ホテルの一室のような作りだった。


 すごいお金持ちなんだな。ぼくは座席の包み込まれるような柔らかさに驚いた。そう言えば、オレクサンドルさんは会社を経営してるとか言ってたような。


「心配しなくていいよ、レナ」


 汚したらいくら請求されるんだろうと、びくびくするぼくを見て、オレクサンドルさんが片目を瞑る。車内の冷蔵庫から飲み物を取り出して、グラスに注ぎながら、


「この車には、考えうる限り最高の安全対策が施してある。たとえ戦場のど真ん中だって、快適に走り抜けられるさ。いざとなれば、イゴールだっているしね」

「そうですぜ。このイゴール、身命に変えましても必ずやお嬢様の身を守りぬく所存ッ!」


 運転席から、イゴールさんの重々しい返事。まるで時代劇に出てくる強面の剣客みたいな口調だった。


 ガソリン車とは思えない静かさで、エンジンが始動する。滑るように車が走り出した瞬間、ぼくは慌てて右手のグラスを押さえた。

 このまま持ってたら、いつこぼすか気が気じゃない。急いで中身のオレンジジュースを飲み干して、安全を確保する。


 グラスを返そうとして、ふと手にしたグラスのデザインに目を落とす。透明なグラスの表面に、漢字と水墨画を組み合わせたようなデザインが白く浮かび上がっている。


 たぶん梅の木、だと思う。節くれた枝と幹に、小さな花が一輪。力強く、それでいて繊細な筆遣いを感じさせるデザインからは、吸い込まれるような魔力を感じた。


「素晴らしい作品ですよね」


 斜め向かいの席からユエさん。目鼻立ちのくっきりした美人で、黒髪を後ろにひっつめ、ぴしりとパンツスーツを着こなした姿は、いかにも仕事のできる女性といった感じ。


 年齢不詳の顔に柔らかな笑みを浮かべたユエさんは、戸惑うぼくの手元を覗き込む。


「奥様の初期の代表作なんです。もとになった作品は、いまニューヨークの美術館で展示中なんですよ」

「え?」


 奥様の作品って、まさか。


 振り向くと、隣でローストビーフサンドを頬張っていた霧江さんは、ごくんと喉を上下して、


「そうなの。お母さん、凄い人なのよ? 国の大臣から賞を貰ったことだってあるんだから」


 えっへん、と胸を張る。


 聞けば、“KiRiE”の名前で多数の作品を発表している、有名なアーティストだという。作品は海外の美術館にも多数所蔵され、ドバイの王室コレクションにも加えられているとか。


「す、凄いですね……」


 凄過ぎて、ちょっと引いてる。

 そんな有名人が母親だなんて。


「それぐらいで驚いてちゃあいけませんぜ」


 イゴールさんは、バックミラー越しにこちらを見ながら言う。


「なにせ旦那様は、あのカザークを一人で立ち上げられたお人だ! まさに天才経営者ってやつで」

「よしてくれ、イゴール。僕は運が良かっただけさ」

「またまた、ご謙遜をっ」


 ぼくはしばらく、その単語の意味が理解できなかった。カザーク、カザーク、と何度も頭の中で繰り返して、やっと一つの意味が浮かび上がる。


「カザークって……あのカザーク?」


 そんなまさか。だってカザークと言えば、世界的大企業──









 ──まさかだった。


 無数の車が行き交う大通り。地下鉄の路線が交差する駅前にそびえ立つ、ガラスと木材のビルを見上げて、ぼくは呆気にとられた。


 いったい、何階建てなんだろうか? 一階部分には、有名コーヒーのチェーン店とコンビニ。二階部分には、レストランとジム。その上には企業のオフィスが入っており、緑溢れるエントランスには、作業着を着ている男性や、ラフな格好をした学生風の団体。かと思えば高級なブランド物を身に着けた女性まで、種々雑多な人々が出入りしている。


「あの……ここが?」


 なにかの間違いでは? と言外に問いかけるぼくに、オレクサンドルさんは微笑みかける。


「そうだよ、レナ。ここの最上階が、僕たちの家だ」

「最上階……」


 ぼくは再びビルを見上げた。ビルの外観へ溶け込むように配置された“Qazaq(カザーク)”のロゴを見つけて、眩暈にも似た感覚に襲われる。


 カザーク──自分に関わる記憶はない癖に、その名前は覚えてる。


 自動宅配システムを開発し、一代で世界有数の企業を育て上げた天才社長が、オレーナさんの父親?


「レナ、どうしたんだい?」

「まだ体調が悪いのね。すぐにお家へ入りましょう」


 情報の洪水に圧倒されて、上手く思考を整理できない。

 心配げに覗き込んでくるオレーナさんの両親に促されて、ぼくはよろよろと歩き出した。

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