講義

 人類は常に異能と共にあった。いや、人類を猿からヒトにしたのが、異能だと言ってもいいのかもしれない。

 今の社会ではレベル1に分類される木っ端異能。手から小さい炎、水、雷を出すだけの簡単なもの。銃にすら劣るしょうもない子供だまし。そんなものでさえ、こん棒や投石で争ったり、狩りをしたりするような原始時代には凄まじいアドバンテージだった。レベル2以上ともなると神のような存在とさえいえる。

 だから、自然と異能者の周りに人が集まる。異能者と共に生きることが最適な生存戦略だからだ。異能やそのおこぼれを得られなかった人間は死んでいった時代とも言えるね。

 こうして「人が集まることが必然となった」結果、古代に村と呼ばれるものが初めて登場した。自然とコミュニケーションが重要になった結果、人間は身振り手振りや単純な声の組み合わせで意志疎通をするようになり、脳の容量が少しずつ増えていった。また村の出現は莫大かつ安定した食料需要を発生させ、それを満たすために農耕が発明された。それまでの食料調達手段である狩猟は、生産量が安定しない上に、一定期間の一定地域における産出量が限られており、つまりは地域の動物を狩り尽くしたら別の地域に移動する必要があるわけで、村と言う仕組みとはとても相性が悪かった。今みたいに野営・飛行両用まほうのじゅうたんのような便利なものがある時代でもないからね。

 そうして農業が発明されると、今度は水利や肥沃な土地をめぐって争いが起きる。村どうしで争いが起きれば、負けた村の異能使いは勝った側の戦力に組み入れられる。こうして村はだんだんと規模が大きくなり、規模が大きくなれば、増えた村人を養うためにさらに広い土地が必要になる。こうして歴史上初めての「クニ」が生まれるわけだ。その国最強の異能者たる人間が王となり、最強の戦士となる。負けた国の異能者たちがその脇を固め、戦士であり貴族である彼らを養うために、ほとんどの無能者たちが農業に勤しむ。

 この時代を描いた初めての書物がみなさんご存じ「百異能百列伝」だ。当時、「文字と言う概念を発明し、他者に理解させる」という異能を持っていた非戦闘員の異能者が、百人の王の百の武勇譚を著したものだ。しかしながらこれは学術的な信憑性は高くない。なぜならこれは、その非戦闘員の異能者がある王に取り入るために書いて献上したものであると推定されており、つまりは他の99人はその王に征服されるためのやられ役、とまではいかなくとも、かなり矮小化されて書かれているというわけさ。実際、この本の中に記載された領土の大きさが現代の調査による推定の半分もない、なんて王もいるほどだ。現代で言えば歴史小説であって、歴史の論文にそのまま使えるものではないということだね。最後に書いてある100人目の王だけ、その偉大さ、強大さを他の王たちの何倍も描写してひたすら褒め上げているし、この書物のほとんどはその100人目の王の治めた国の遺跡から出土してるっていうんだから、ずいぶん露骨な話だ。それでも、なにせ文字すら存在しなかった時代のことだ。取り入られた王様の側でも相当気分が良かっただろう。

 さて、この「少数の異能者集団が貴族/戦士階級として、大勢の無能者を治める」古代の在り方はしばらく変わらなかった。もちろん新しい異能者が国を興したり、それによって滅びる国があったりはしたが、基本的に異能者が国を治めるという構造は変わらない。異能者が死ねば、他の異能者が国を引き継ぐ。それが変わったのは、ある国が出てきた影響だ。

 その名は無能党。文字通り無能者たちの国だ。この名はもともと、異能者たちがあざけって「異能を持たない、すなわち無能」と笑ったのを、かえって自分たちのアイデンティティにしたものだ。最初に触れたのはこのケースのことだね。歴史にはこういう例が、嘲笑や差別から反発力を生み出すことが時折ある。

 異能者たちは戦士にして貴族だ。もちろん人によっては温和に国を治める例もあったが、基本的には自分たちの好き勝手にしていた。綺麗な娘がいれば連れ去って嫁にし、戦があれば無能者たちを戦士、いや弾避けとして使い捨てた。むろん無能者たちだっていい気分はしなかっただろうが、異能者に逆らうことは出来なかった。いや、逆らうという発想がなかった。生まれながらに異能者の奴隷。それが当たり前だったのである。

 だが、その「無能党」は違った。一人たりとも異能者を擁さない、リーダーも異能者ではない、そんな国。を、標榜していた。その上で複数の大きな国を滅ぼし領土とした。その過程で異能者たちを大量に倒した。記録に残っているだけでもレベル4以上と推定される異能者を5人、レベル2以上と推定される異能者を100人以上は倒していると言われている。

 実態がどうだったかということについては、学界でも諸説ある。彼らのリーダーは「異能がない人間に異能を付与する・身体能力を向上させる等の集団強化系異能」「異能者に抗うという概念を創造する概念操作系異能」のどちらかをレベル5で保持していた、もしくは異能者であることを隠していた、というのが通説にはなっている。けれども現代でもリベレーターと呼ばれ絶大な人気を誇る彼女が、本当に異能を持っておらず、知識と勇気だけで並み居る異能者に打ち勝ち続けたと信じている人たちもたくさんいる。

彼女は最終的には敗北し、磔にされて焼かれた。全ての異能者を敵に回すことは、つまり全ての国家を敵に回すことになる。それは例え異能が存在しない世界だとしても無謀なことだから、そうなることは必然だったと言える。けれども彼女が時代を変えるのはここからだ。

「異能者は無能者でも殺せる」と言う概念が世界に広がった。これこそが彼女の残した歴史の中の毒針。古代の貴族政というワインに混ぜられた一滴の汚水。革命が失敗したところで革命の思想は死なない。

 実際、異能者は神のごとき存在ではない。異能を自らの意思で行使するタイプ、ほとんどの異能者はそうだが、彼らは寝ている時に殺されたら抵抗できない。銃が登場するのは少し後の話にはなるけれども、遠くからの狙撃にも対応できない。家に放火されてあたり一面火の海なら、水系やテレポーテーション系の異能でない限り大抵は死ぬ。

 かといって常に寝ないわけにもいかない。同じ異能者とツーマンセルやスリーマンセルを組めば、今度は異能者どうしのもめ事や裏切りがついて回る。実際、リベレーターが死んだ直後の時期には、無能者が異能者を殺すよりも、「第二第三の無能党を生まないように、これからは無能者にも少しは優しくしよう」と主張する派閥と、「そんなことできるか、これまでのような生活を維持する」という派閥とで異能者どうし争った結果の死者のほうが多いという論文まであるぐらいさ。

 そこで出てくるのが王権神授説。義務教育で習っただろう。

 結局のところ、力づくで押さえつけていた古代のやり方は破綻した。いくら強い異能者でも、国の全ての無能者が一気に逆らえば死んでしまう、ということを無能者たちは学習してしまった。そこで異能者たちは、ただ力づくで押さえつけるのではなく、自分たちの統治の正当性を無能者たちに理解させる必要が生じた。そのための理論がこれで、内容は「王権とは神によって与えられたものであり、異能とは第一にその証拠、第二にそのための道具、第三に貸し与えられた神の力の一部である」というものだ。

 これが神の誕生だ。つまりこの世界を創造したという凄まじい異能者の存在を仮定して、その人智には及びもつかないような存在が、異能者に統治を委託した、と主張するわけである。この理論を主張したツゥゴ=ウが本当にそう思っていたかどうかはわからない。現代の学説では、彼の問題意識は秩序の回復にあったと言われている。無能者たちの抑圧された怒りには凄まじいものがあった。万が一革命が成功してしまうと、王が殺されるぐらいではすまず、その家族や部下たち、ひいては王に仕えていた無能者たちすら皆殺しにされる有様で、社会秩序は完全に崩壊してしまった。また異能者たちの間でも疑心暗鬼から争いが増えていった。無能者たちを抑圧することが正しくないとしても、急激な秩序の崩壊は誰にとっても幸せなものではなく、比較的良心的な、この混乱に乗じて勢力を広げようと画策していない異能者たちにとっては、例え理論的に欠陥があろうと、まずは社会を安定させて時間を稼ぐための道具が必要だった。餓死する前の腐った小麦。凍える前の乞食のボロ。それがこの理論というわけだ。

 実際、この理論は反対者からの猛烈な抗議に晒された。当時匿名で出版され流通した「嘘つきツゥゴの破綻百選」にはこうある。教科書の104ページを開いて。そう、太字の部分だね。

「……第一に、神なる存在がいるかどうか、誰にもわからず、また、その有力な根拠も示されていない。誰も神を見たことがなければ、聞いたこともなく、触れたこともなければ、味わったこともない。それこそ異能者どもには普通の人間の五感を凌駕した知覚能力を持つ連中、例えば有名どころだと『夜を昼とするアジャタ』『魂の震えを聞くタンン』『未来を読書するパナン=ア』などがいるが、こいつらが神の存在について語ったことなど一度もない。我らよりよほど優れている異能者サマたちですら見聞きしたことがないものを、いますと言って、はいそうですかと無能者が納得できるわけがない。第二に、仮にそのような存在がいたとして、それはつまるところ莫大な数と威力の異能を持つ異能者であろう。異能者がなぜ無能者を治めるのか、それを正当化するのに『異能者がそれを認めたから』などと言うのが成立するわけもない。自己言及の矛盾である。神たる異能者に我々を統治することを認めたのは誰か、またその神に統治を認めた誰かに統治を認めたのは誰か、という論理の無限回廊に陥ることを回避できない。つまり、誰かが誰かを治めることを、その統治される本人以外が認めることなど理論的にはできないのである。ツゥゴ自身異能者ではあるが、その知性は異能で強化できていないようだ……」

 かなり辛辣な物言いで、この調子で100個続いていくのを読むのは随分気が滅入るものの、この時代の王権神授説批判としてはかなりレベルの高いものだ。

 だが王権神授説の本当の問題はここで指摘されているものではない。実際、王権神授説は時間を稼ぐ道具としてはかなり有用だった。賢明な王は無能者に対する態度を軟化させたこともあり、少しずつ社会は元の形に安定していった。問題はここからだ。

 異能が神との繋がりを示すのであれば、異能が強ければ強いほど神に期待されている/祝福されている/気に入られているということになる、という解釈が蔓延するまで、さほど時間はかからなかった。もちろん、ツゥゴ=ウはそんなことは言っていない。単に異能の有無の話をしただけである。しかし論理的には確かにそう考えられなくもない。そしてそれは、異能を育てる強力なインセンティブを異能者に与えた。異能強化学の萌芽だ。この大学にもありますね、異能強化学部。皆さんの中にもそこに所属している人もいるでしょう。

 君たち一人一人は異なる遺伝子を持ち、早く走るのに向いている人もいれば、向いていない人もいるが、しかし「足が速くなるトレーニング」というのはある程度確立されていて、それに従えば―他人との優劣はともかく―以前より速く走れるようになるのには間違いない。異能も同じことだ。人それぞれに違いがあり、向き不向きや生まれながらのパワーの違いはあれど、ある程度「鍛錬のやり方」を形式知化することはできる。これまで異能者たちは、自己の体験や異能者の友人から聞いた話が根拠の、てんでバラバラで非効率的な、時には有害でさえあるトレーニングしかしていなかった。しかし異能の強さが統治の正当性、あるいはより広い領土を統治することの理由にすらなるとなれば、異能のトレーニングは全ての異能者にとって欠かせないものになるし、そうなればトレーニング法は急速に発達する。巷の民間療法的なトレーニング法がかき集められ、効果のあるものだけが選り分けられる。こうして異能のレベルは王権神授説から百年程度で爆発的に向上した。これは極めて興味深いテーマで、実際私のゼミの学生も一人これをテーマにして論文を書く予定なのだが、一説には百年で異能の威力が50倍になったとも言われる。例えば王権神授説前は射程が2メートル、炎の玉の大きさがせいぜい直径10センチ程度だったレベル1の魔術師が、三世代ぽっち経った後には射程が10メートル、直径1メートルの炎の玉を投げつけてくるようになっていたわけだ、と言えば急激な成長ぶりがイメージできるかな。

 そして、力を持てば人間は使いたくなる、と誰もが思っている。

 自分の異能は地位の防衛のためだが、他人の異能は侵略のために見えてくる。なら、自分が先に侵略するほうが先手を取れていいではないか。これは自衛だからやってしまえ。えいっ。あっ。

 その傾向が爆発したのが第一次異能大戦だ。

 ある強大な異能を持つ王が隣の国に攻め込み、その背後を別の異能者が狙う。弱い異能者は同盟と密約と裏切りで保身を謀る。その結果、主だった35個の国家が4つの陣営に分かれて相争う地獄のような戦争が起きた。

 この戦争の結果については詳しく説明しません。留学生もいますし、未だに遺恨が残っている面もあります。それに歴史上一番重要なのは地図上の国境線が移動したことではありません。

 戦争初期にかなり追い詰められたアラン=ロウェル=インタンサ同盟は、無能者を本格的な戦力として投入する画期的な戦術を採用しました。古代から無能者を戦場に連れていくこと自体はよく行われていましたが、それは弾避けや雑事の要員としてであり、異能者を倒すこと自体は期待されていませんでした。また無能党の恐怖が未だに異能者に浸透しており、異能者を殺すことのできる力を無能者に渡すことに国を問わず抵抗がありました。例え戦争でもそれはやらないだろう、という不文律なわけです。ですが滅びそうなときに不文律を順守する国ばかりではないわけですね。最初は闇夜に紛れた偵察、奇襲。銃が発明されてからは、集団での一斉射撃。「サンダンウチ」という掛け声は有名ですね。もちろん集団でまとまって戦うことは、異能でまとめて薙ぎ払われるリスクもあるわけですが、それでも無能者たちは一生懸命戦いました。高い報酬と「戦後には戦った無能者にも異能者としての自治や権利を認める」という約束を信じていたわけです。

 そして、不文律と言うのは、誰かが破るともう誰も守らなくなります。最終的には全ての国が銃で無能者を武装させ、報酬や口約束で釣って自分たちのために戦わせました。

 最終的には2つの陣営が完全に消滅し、跡地を残りの陣営が占領して終戦、戦った無能者たちには辺境の土地を与えて「共和国」を建設させ、自分たちから遠ざけるという結果に収まりました。さて、ここでクイズです。

「辺境の土地に、異能者たちを倒す力を持った軍人あがりの無能者たちを追いやりました。彼らはどうするでしょう」

 はい、そうですね。第二次異能大戦です。

 まあ、後知恵ではあるわけです。残った陣営はもう疲弊しきっている上に、滅びた陣営の土地を巡って気を張り詰めた交渉をしていたわけですし、その交渉が破綻したらまた戦争に戻りかねないわけですから、戦闘でだいぶん数の減った異能者たちに与える土地の良しあしなんてことを丁寧に考える余力なんてものはないわけです。

 けれども無能者側からすれば命を懸けて戦って、滅びた陣営の跡地のさらに辺境ですからね。そりゃ怒りますよ。

 そこで100年準備してから、異能者の国々に戦争を仕掛けた。

 第一次異能大戦は異能者と異能者の戦いですが、第二次異能大戦は異能者と無能者の戦いだったわけです。共和国は「リベレーターのリベンジマッチだ」と気炎をあげていました。開戦日はリベレーターの誕生日とされる日のちょうど1000年後。リベレーターが掲げた理想が実現可能性を持つまでに、それだけもの時間がかかったということです。彼女が異能者だとしても、無能者だとしても、そのスケールの大きさに脱帽せざるを得ません。

 彼らは100年の間に急激に科学を発展させ、凄まじい兵器を山ほど揃えていた。大砲、戦車、毒ガス、機関銃、戦闘機…………それらをもってしても、やはり異能者とは互角の戦いでした。大勢の人が死んだ後、異能者と無能者たちは対等の立場でお互いに妥協をすることにしました。言うまでもありませんが、歴史的瞬間です。異能者と無能者が対等であることから、条約名は「リブラ」となりました。もちろん細かい条項は沢山ありますが、大まかにいうとこのような内容です。はい、180ページを開いて。

「第一条、異能者と無能者が対等であることを確認する。第二条、異能者の国に居住する無能者が共和国に移住したい場合、それを妨げてはならない。第三条、戦後処理として、共和国の領土を増やすことはせず、異能者の国の領土を減らすことはしない。第四条、ただし、異能者の国と共和国の間に緩衝地帯、およびお互いの融和と理解を深めるための場所として、ローゼンエルタール自治領を置く。第五条、ローゼンエルタール自治領は異能者の国が自発的に提供した土地を領土とし、統治者は共和国の派遣した代表者と、異能者の派遣した代表者が5年ずつ交代で治めるものとする」

 まあほぼ無能者の勝利みたいな内容ですね。寝てる間に毒ガスを撒かれる恐怖には勝てなかったということです。ただ建前としては、互いに対等と言うことになっています。これはお互いのプライドを満たすために重要なわけで、無能者としてはようやく異能者と対等になり悲願達成というわけで、異能者としてはあくまで対等な立場というのがギリギリ譲歩できる立場。決して負けてはいない、というプライドの慰めなわけです。そして、はい、みなさんご存じですね。ローゼンエルタール自治領。ここです。単なる緩衝地帯として設立されましたが、戦後、お互いに交流するのに地理的に便利なので、戦争の傷が癒えるにつれここに色々な文化施設が建設されました。このローゼンエルタール大学はその最たるものであり、大学の規模と存在感が急激に拡大した結果自治領の名前もローゼンエルタール自治大学領に変更され、慣習としてこの大学の学長はローゼンエルタール自治大学領の統治者が着任することになっています。そして異能者の異能と、無能者の科学を合わせて、世界で最先端の画期的な研究をしつつ、お互いの融和や世界平和にも貢献しているわけです。

 さて、ここまでの内容を概略すると、異能者と無能者の関係は古代では一方的な支配/被支配、中世では支配を納得させる必要性が生じ、それが二度の大戦期には利用するものから対等な敵になり、そして今は共生……を目指して交流しているところということになります。未来を創るのはまさにここにいる皆さんと言うわけですね。

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