第三章 はじめの一週間

 明日はボイストレーニングの先生も来るらしかった。

 午後の十八時、夕方になってから始めるそうだ。初回はひとまずこれで終了というわけだ。

 ありがたい。引っ越しの準備だってあるんだ。

 薫子とも話はしておきたいし――、と思ったところで、

 ぴんぽんぱんぽーん。

「六階、六階、ダンススタジオまでお越しください」

 と、また声が響く。

 思わず大きな溜息を吐いた。心なし背中も丸まる。周囲を見渡してみれば、栞以外は特に文句を言うでもなく受けて入れている。アリサだけは退屈そうに欠伸を漏らしていたが、これくらいはへっちゃらそうだ……栞の体力が平均以下なのかもしれない。先行きが不安になった。

 六階も構造的には下と変わらなかった。磨き抜かれた床に、壁が全面鏡になって手すりが付いた、よく見かけるレッスンスタジオである。

 違うところいえば、やはりカメラがあるくらいだ。

「塩入明日香でーす。今日からダンス指導を行っていくのでよろしくお願いしまーす」

「塩入さんだー! おひさー!」

「ひさー。よろしくー」

 迎えてくれたのは三十代半ばと見られる女性だった。彫りの深い顔立ちに、薄手のメイク、ウェーブの掛かった長髪に、お腹を出した下着みたいなタンクトップにスパッツ。如何にもダンスレクチャーのお姉さんといった雰囲気だ。

 今度もアリサは知り合いらしい。狭い業界である。

 対する塩入は、名前の通りの塩対応。どうでも良さそう気。というより、そういう風に見られがちな人なのか。気怠げという言葉が思い浮かぶ。

「今日は基本的なダンスレッスンを行っていきますねー。そして今後は、並行してみんなのデビュー曲の振り付け指導もやっていくんで、まあ、そんな感じに考えていてくださーい」

 デビュー曲。先程も芸人の一人が言っていた。気にならないと言えば嘘になる。アップテンポなバンドサウンドだったらいいなと思う。エレクトロな感じも嫌いではないけれど、どうせやるならそっちの方が良い。

「それじゃ、まずは準備運動からー」

 気の抜ける掛け声と共に第一回目のダンスレッスンが始まった。


「かひゅー……ひゅー……」

 死んだようにスタジオの片隅で倒れている。

 誰が? ここまでへばっているのは栞以外にいない。

「しおちゃん。スポドリ。飲む?」

「あ、ありがと……」

 薫子がすっとペットボトルを差し出してきた。そういえば各フロアの廊下に自販機が設置されていた。そこで買ってきたのだろう。果たしてこれは一体誰のお金――。

 どうでもいい。

 とりあえず水分。水分が欲しい。

「しおちゃん、相変わらず運痴だねえ」

「お、女の子が運……ひ……なんて……はあ……言わないの」

「言えてないじゃん」

 薫子は息一つ切らしていない。昔っから運動は得意だった。それは分かる。認める。しかし、自分がここまで動けないとは思っていなかった。神様は不公平だ。歌に運動に容姿にコミュ力。栞が薫子に勝ってるところなんて身長と胸とお尻くらいか。自慢にもならない。

 予想以上に激しいレッスンだった。

 一回目、やる気の無い先生――期待したのは軽く汗をかく準備体操の延長線上にあるようなレッスンだった。それなのに。飛ぶわ跳ねるわ、そこに上下左右の動きが加わり、開始十分程経過したところで、栞は一人遅れ始めた。次第に轍、続いて愛&知菜親子……と、脱落していった。

「流石、現役アイドルは違うねえ」

 薫子の視線の先にいるのは、二人のアイドルだ。アリサと由利穂。対照的な二人だが、二人とも汗はかきつつも息は乱れていない。由利穂にアリサが必死に喰らいついていた。

「千里ちゃんもすごいねえ」

 新垣は、Tシャツハーフパンツ姿で両手を膝につき、お尻を突き出して息を整えていた。下着のラインが透けて見えている。歌はともかく、これだけ動けるということは、何かやっていたんだろう。アナウンサーはそれくらい肉体の維持に余念が無いという現れか。

 隣に目をやった。

 薫子は栞が心配になったのか、単にサボっているのか、それとも飽きたのか、そんなところか。ぽけーっと、ダンスに勤しむ三人を眺めてスポドリをちびちびと飲んでいる。

 塩入が手を叩いた。全員の注目が集まる。

「じゃ! 今日はこれでかいさーん! 明日は十四時からレッスンするからー」

 ああ、明日もあるのか。

 また盛大に溜息を吐いた。


 ――後は帰って、寝るだけ……。寝るだけ……。

「お夕飯どうしましょうか?」

 スタジオを出たところで愛が言った。そうだ。ご飯を忘れていた。黙ってたって出てくるわけじゃない。全部自分たちで用意するのだ。その為の監視であり、この生活。お料理スキルとか、そういう生活面をも視聴者に見せるというコンセプトがあるのだろう。

 しかし、栞は料理なんてできない。一人暮らし。なんとなく料理をしてみたのなんて最初だけ。惣菜をスーパーで買ってきた方が安いと気づいてしまってからはやっていない。自分で作ってもマズいし。薫子も似たようなものだ。

「えっと……」

 誰からともなく顔を見合わせた。

「冷蔵庫は空っぽだったわ」

 知菜が答える。キッチンと連なった大部屋に、確か大きな冷蔵庫があったはずだ。上がって来る前に中を開けたのだろう。子供らしい好奇心。

「四階にお買い物スペースがあるって言ってましたからそこ見てみましょうか。なんなら私がみんなの分まで作りますし」

「私もお手伝いさせて頂きます」

「マジすか! 愛と新垣アナの手料理とかっ」

「あたしパース。テキトーになんか見て買って自分で食べるー」

 アリサは一人さっさと歩いて行ってしまう。エレベーターの方向は一緒なのだが……打ち解けるつもりは無いらしい。

 先に到着したエレベーターに乗っかって一人で四階に降りて行ってしまう。向かう先は一緒なのに、待たされる一向。

 誰からともなく愛想笑いを浮かべて、なんとなく気まずいものを感じながらも次のエレベーターがやって来るのを待った。


 四階はこぢんまりとしたスーパーのようになっていた。倉庫にあった物をそのまま並べました、といったようなかなり無機質な作り。――これは後々判明したことだが、話によると、本当に倉庫にあった物をそのまま流用しているらしい。というのも、POTの出資が大手通販会社のフォレスト。その倉庫が近隣にあるらしく、有る商品をそのまま借りているんだとか。そういえば、最近は通販で、野菜・魚など、一見こんな物まで、という物まで扱っているなあ、と栞は思い出した。

 その為か、普通のスーパーにあるような物は大抵揃っていた。

 まあ、だからと言うべきなのか、惣菜や弁当の類は置いていない。

 愛と新垣が居て良かった。栞と薫子だけだったら、まともに食べられる料理を作るまでに結構な日数が掛かっていたかもしれない。ネットに書いてあるレシピ通りやってもなかなか満足のいくものにならない。それも料理をやめた理由の一つだった。

 優等生然とした由利穂がここまで何も言い出さないところを見るに、お料理スキルは栞たちと大して変わらないのだろう。なんだか表情もぎこちない。手伝いたくても手伝えない、といったところか。

 アリサはどうするんだろうと、気になり探してみる。

 入り口近くの無人レジで、パンや果物、菓子飲み物類を買っているアリサがちらりと見えた。その顔は不満気だ。

 適当に見て回り、愛と新垣は作るのが簡単なカレーにしようということに決まる。

 人数分の材料と言うことで、お金を出し合った。

 栞は明日以降に備えて、清涼飲料水と適当に保存食を幾つか買っておく。

 本当に助かる。

 お金のことだ。

 当然ノーギャラではない。

 二十四時間、私生活まで配信するのだからとそこそこの良いお金が貰えた。しかも住む場所まで提供してくれて、さらに家賃光熱費は無料ときた。言いたいことはたくさんあるけれど、栞の現状を鑑みれば何も言えないくらいだ。

 後はどれだけ続けられるか。


「うっ……」

 全身を襲う筋肉痛で目が覚めた。

 昨夜のことを思い出す。


 愛と新垣の作ったカレーは美味しかった。市販のルーから作ったものなので、当たり前といえば当たり前に美味しい。

 褒めそやす轍と薫子に、

「普通のカレーじゃない?」

 と、どこか恥ずかし気な知菜が印象的だった。

「わたし寝る」

「えー。しおちゃん遊ぼーよー」

 引っ付いて来る薫子を適当に引き剥がして、さっさと部屋に引き篭もった。薫子と話しておきたい気持ちが半分、猛烈な眠気に飛び込んでしまいたい気持ちが半分。栞は迷わず後者を選んだ。

 途中、トイレに立つ為に廊下に出ると、何やら皿を持った新垣と擦れ違った。アリサの部屋にカレーの残りを持って行くらしい。ノックの音に「はあい」と返事をするアリサの声が聞こえた。

 向こうは栞に気づかなかったようだ。

 ――余裕あるなあ。

 と、思って寝た。

 何か色々考えなければならないことがあったような気がするが、考えたくはなかった。

 カメラの中眠れるか不安だったが、泥のように眠った。肉体的にも精神的にも疲れていたというのももちろんあるが、真っ暗にしてしまえば、カメラも意味をなさないということに気づいた。

 流石に赤外線機能まで付けて乙女の寝姿を覗くということはしないだろうから。たぶん。

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