第三章 はじめの一週間
☆
由利穂が泣き出すと、横に座っていた新垣がすかさずハンカチを取り出し涙を拭った。背中を擦られ、由利穂は新垣にされるがままになっている。気丈に見えた由利穂も、保っていた緊張の糸が切れたようで、縋り付くように新垣の胸の中で泣いた。
こうして見ると、泣いていたって日本のトップアイドルグループにいた子は絵になるものだと思う。新人だろうが関係ない。真っ直ぐで勝ち気。アイドルになるのをずっと夢見ていた高校一年生。
それが、いざ入ってみれば、壮絶なアイドル同士の蹴落とし合いの餌食になってしまった哀れな新人アイドルだったしても――奈落の底に落ちても、光の原石は輝くものなんだと、栞は自身と比較して暗い気持ちになった。最も、彼女がこれまでに受けてきた屈辱を思うと、比べるべくもないんだろうが。それでも。
――わたしなんか……。
「……えっと、次は私の番ですね」
「はいはーい! 鼎ハウスのみなさ~ん!」
テーブルの上に設置されていたモニターにいきなり像が浮かんだ。画面上には三人の人間が映っている。真ん中はよく知っていた。ちょっと前ならよく見かけたアナウンサーだ。
「あ。マナちゃん」
「せんぱ~い! もー! なんで一言言ってくれないんですかー?」
なんて、新垣とやり取りしている。新垣の自己紹介は中断されてしまった形だ。
横の二人は見たことがない。顔立ち的にも二十代から三十代といったところか。大方売れてない芸人だろう。こんな企画に時間を割いていたら、他にスケジュールなど立てられそうもないし。
「はいはい。宇津美ちゃんその辺で。さて、皆さんはじめましてこんにちは! この番組にこうして時々現れ、こうして企画の説明などをさせて頂く司会進行の南野幸治と」
「関田勉でございます!」
「知ってる?」
「南野幸治はいつだか差別発言で。隣は援交でしたっけ? たしか宇津美アナも――」
「あー、あったねー。ていうかあたしこの番組のコンセプトだんだん分かってきたかも」
「自覚も芽生えてきたっすか?」
「アハー。なーい」
アリサと轍がやり取りしている横で由利穂が「あの、もう大丈夫です」と、新垣に告げていた。袖で涙を拭い、毅然とした態度でモニターを見つめる。多少気になったが、どうやら杞憂らしい。
「……?」
ふと、気になった。
視界の端に一瞬とらえただけ。ただの見間違いかもしれない。
由利穂の姿を見て、愛が嗤っていたような気がしたのだ。
もう一度視線をやった時にはモニターの方を向いていた。
モニターでは説明が繰り広げられている。
「……っはい! という感じで! これから皆さんには今日から約一ヶ月の間、この鼎ハウスで過ごして頂き、アイドルデビューの夢を叶えてもらいますっ! 一週間後にまた通知致しますが、無事にデビュー出来るかどうかは皆さん次第! 二ヶ月後にはなんとお披露目ライブも予定しております!」
「鼎ハウスの中には必要な物は全て揃っております。勿論、歌、ダンスの厳しーい先生もいてらっしゃいます。外出に関して、神瀬由利穂さん、染夜知菜さんのお二方は、学校への登校も必要な為、認めさせて頂きます。通学については万全のサポートをするのでご安心下さい。その他の方も必要な際には一階で待機しているスタッフに伝えて下さい。あ、敷地内は外出自由ですよ?」
「出るのは自由! 入れるのは一度限り! それではみなさーん。これから一ヶ月の間、頑張って下さいねー!」
ぷつん、とモニターがブラックアウトした。
「一ヶ月から二ヶ月……凄いスピード」
由利穂がぽつりと呟いた。
バンドとして活動していた栞にも理解できる。もう曲はある程度出来上がっているからこその動きだ。残すは歌入れのみと言ったところか。
当たり前だが、全てが企画前提で動いている。
ぴんぽんぱんぽーん。
間の抜けた音が響き渡った。
どこから聞こえてきたのかと見てみれば、部屋の天井隅にスピーカーが設置されていた。こういう仕様はいかにもバラエティらしいと思う。
「大変長らくお待たせ致しました。一回目のレッスンを行います。動きやすい服装に着替え、五階スタジオまで集合して下さい」
「行きましょうか」
新垣の声を合図に全員が立ち上がった。
「あ~、しおちゃんの向かいだー。やっぴぃ」
「いいから。さっさと着替えてきなさい」
「はあい」
ここに来るまでに一度通った廊下だが、改めて見ると、隅々にカメラが設置されているようだ。恐らく音声もあれで全て拾っているんだろう。
部屋に入って来ようとする薫子を適当に追い出し、自室へと入る。まず真っ先に目が行くのはカメラだ。部屋全体を映せるように天井隅に一台。それから真ん中のローテーブルに一台、デスクに一台の計三台。これを全員分、計八部屋と考えれば二十四台。それだけじゃないだろう。各階にある筈だ。建物といい、企画といい、とんでもない額のお金が動いている。
運び込んだ荷物は全て解かれていた。元々所有していた私物などを内包出来るようにする為か、かなりの大きさの部屋だ。二十畳はあるだろうか。正直、こんなに広くなくていい。
「これだけやるんだったら――」
企画事態が潰れるなんてことは無いかな。全く……告白するにしても限度って物がある――と、言おうとしたところで思い留まった。そうだ。この発言でさえ、拾われているのだ。下手な独り言は控えるべきだ。大部屋に入った際のバンド解散発言を思い出せ。視聴者に由利穂の悪口だと捉えられるのは、それはそれでマズい気がする。何が、って今後に。どこで由利穂の耳に入るか分からない。デスクの横には、無線ルーターも用意されている。いたれり尽くせりだ。
部屋にいながら配信を眺めるなんて入れ子構造のようなことまで出来てしまうわけだ。たまたまリアルタイムで視聴される可能性は低いだろうが、もし何らかのマズい発言をして、そこが抜粋されてネットにでもアップされたら普通に見られる危険性がある。
……カメラが複数台ある場合、どうするんだろう?
パソコンだと、画面分割をしている様子は無かった。これも恐らくだが、スタッフが手動でメインカメラを切り替えているんだろうか? 面白そうな場面をその場その場で抜き出すといった形で。リアルタイム編集――ご苦労なことだ。これも相当な人数が必要だ。
ぼうっとしてしまった。
早く着替えなければ――と、思ったが、どこで着替えればいいのか――と、見渡して気づいた。風呂場の手前に脱衣所がある。カメラも無い。ここにしよう。というかここしか無い。
カメラが仕掛けられていないと分かっていながらも、さっと服を脱いでさっと着替えた。落ち着かないことこの上ない。
こんな日々を毎日。
神経がやられそうだ。
しかし、すぐに思い知ることになる。
まだまだこんなもんじゃない。これから栞の精神はごりごり削られることになる。時が進むに連れて。
鼎ハウスは大きく分けて、入り口が一階、先程の大部屋が二階、個々の部屋が三階、購買が四階、音楽スタジオが五階、ダンススタジオが六階、ジムが七階、八階が大風呂で遊戯フロアが九階となっている。
指示通り全員が五階に来ていた。
ほとんどの者はジャージだ。新垣はTシャツにハーフパンツ。薫子は何故か中学の着古した運動着を着用している。膝には穴が開いていた。見ていて恥ずかしい。
「こんにちは。今日から長い付き合いになるかと思います。音楽制作スタッフの広田です」
白髪混じりの髭面の中年男性が、入ってきたメンバーを見て言った。
一般的な音楽スタジオである。
PA機器、ピアノ、ギター等の生楽器。ガラスに隔てられた向こう側にはマイクが幾つか並んでいる。当然のようにカメラはそこかしこにあった。
「よろしくお願いします」
愛と知菜、新垣が挨拶を返し、各自なんとはなしにそれに続く。
「広田さんじゃーん」
「アリサちゃ~ん、今度は駄目だったねー」
「ねー? いいじゃんねー? 恋の一つや二つ」
アリサは広田と知り合いのようだ。アリサの問題児ぶりも把握しているらしい。
――凄いな……恋の一つや二つって。今この瞬間も撮られているのに。
「ほんと自覚ないんだね。あんた」
「はあ? なんのこと?」
「アイドルとしての自覚」
アリサと由利穂が口論し出す。やはり二人は相性が悪いようだ。
アイドルとしての姿勢の問題だろう。
「まあまあ」
二人を諭した後、広田は続けた。
「まずは皆さんどのくらいのレベルなのかを知りたいんで、今からそっちのブースに入って一人一人歌ってみて下さい。三曲ジャンルの違う曲を用意してみたんで。そうだな……初めて聴く曲もあると思うから三十分後くらいから始めようか。ま、あんまり緊張しないでやってよ」
それから各自プレーヤーとヘッドホンを渡された。
ロック調の曲、バラード調の曲、普通のポップス――どれも比較的有名な曲ではあるが、栞は初めてちゃんと聴く曲もあった。曲を掴む為、何度か聴く。
思ったよりも普通なんだ、というのがレッスンの感想だ。
番組側が用意したやらせみたいな熱血指導官みたいなのが出てくるのかと想像していた。
あのおじさんがレッスンの全てを担当するわけではないだろうし、穏やかそうに見えて実は怖いのかもしれないが。
しかし、でも、面白いかもしれない。
ただ練習している風景を流して、お客さんは楽しめるのかな、と一瞬考えたが、普通のアイドルグループと違って、年齢も経歴もバラバラだ。それぞれの歌唱力がどんなものなのかは、栞だって気になる。染夜愛の生歌なんて、バンドにしか興味の無い栞でも聴きたいくらいだ。
「じゃ、まず栞ちゃんから」
「わたしですか!?」
油断していた。真っ先に指名されたのは栞である。
できれば真ん中か最後が良かったのに。
「うん。この部屋に入ってきた順でやろうかなって。あ、自己紹介はいらないよ? 僕もここでモニター見てたから」
「はあ」
仕方がない。やるしかないのか。
重たいガラス扉を開き、指示された通りに一本のマイクの前へと向かう。バンドの音源録音、ベースの収録でも使用したことのあるペラッペラのソニーのヘッドホンを耳に掛け、流れてきた曲に合わせて口を開く。
緊張が増し、最初の方は声が裏返ってしまう。けれど、何とか持ち直す。
肩の力を抜いて腹から声を出す。そうだ。基本が大事だ。下手に上手く歌おうとしなくていい。わたしは薫子でもなければ、染夜愛でもない。本庄栞という人間はそこまで歌は上手くないけれど、アイドルだって上位層以外はどれも似たり寄ったりじゃないか。きっとそうだ。そうに違いない。だから思い切り歌おう。さあ、前を見て、音に身を委ねて声を上げろ。さあ、栞の評価は――。
「アハハー。超音痴ー」
扉を開くとすぐアリサに笑われた。
うん。まあ。分かっていたことだが。結構頑張ったのに。
広田は――……案の定微妙な顔だ。なにも、そんな顔しなくてもいいじゃないか。
「うん。そうだね。君はまず基礎練習からしっかりやった方がいいね。じゃ、次。新垣アナ。よろしく」
「……はあ」
「だいじょぶだって、しおちゃん。いつものカラオケよか多少マシだたーヨ?」
薫子の隣に腰を下ろした。ぽんぽんと肩を叩かれる。
これで煽っているつもりはないのだ。
独り言なども注意するように言い含めておくべきだろうか。
「わたしの歌って、そんな下手?」
「うん! マイナスだね!」
良い笑顔で頷かれた。
マイナスってなんだよ。
薫子の邪気の無い笑みを眺めていると、新垣の歌声が聞こえてきた。
「……ふーん」
「やるわね」
「上手いねえ」
アリサが不満気に吐息を漏らし、染夜親子が揃って感心していた。あの愛も目を見張るくらいだ。広田などは口元を抑えて、笑顔が隠しきれない様子。
三曲を歌い終えた新垣がブースから戻ってくる。
「いやあ、上手いねえ、新垣アナ。びっくりしちゃったよ。なんかやってたの? ええ?」
「少しだけです」
新垣は広田を軽くかわし、部屋に用意されていたパイプ椅子に座った。背筋をピンと伸ばし正面を見つめている。特に自慢気でもなく、求められたことを当たり前に熟したといったところか。その様子からは冷静沈着というより、マイペースという印象を受ける。
その後の結果から言えば。
アリサは如何にもアイドルといった感じで、声は可愛らしいのだが、テクニック部分に関しては凡庸の一言。新垣の後、というのが悪目立ちしてしまっていた。
それでも、彼女だってアイドルであり有名人。轍はアリサの生歌に興奮していたし、薫子も似たようなものだった。バンドボーカルの薫子だが、音楽の趣味は栞のように偏っていない。ロックだけじゃなく何でも聴く。アイドルも同様に。
由利穂の歌声はアリサとは正反対のタイプだった。透明感があると言えばいいのか、タイプとしては新垣が近かった。つまり綺麗な声で普通に上手い。周囲の反応も上々だ。アリサだけは口を尖らせていたが。
轍は元気良く張りのある声で、自信に満ちた歌声が聞いていて気持ち良かった。
知菜はもう完全に『ザ・子供の歌』としか言いようがない。室内は、かわいい、の連呼である。愛以外は、みんなが彼女にデレデレしていた。恐らく、視聴者コメントも似たようなものであろう。
「さて! お次はお待ち兼ねの愛ちゃん!」
「ふふっ。広田さん、お久しぶりです。お手柔らかにお願いします」
どうやら愛も広田と知り合いであるらしい。
手を振ってブースに入る。慣れた手付きでヘッドホンをし、マイクに向かう様は、他のどの人物とも違う本物のオーラがある。
横を見てみれば、知菜も拳をぎゅっと構え、鼻息荒く愛しの母を見守っている。
栞も多少は気になった。物心付いた頃の過去の人――とはいえ、染夜愛クラスともなれば話は別だ。ミリオン。なんたってミリオン歌手である。彼女の歌声はテレビで何度も聞いた。
曲が始まり、すっと歌い出す。
――へえ。
テクニック云々では無い。本物とはこういうものかと納得させてしまう歌声というのはあるものなんだと思った。テレビで聴いた歌声がそのまま聴こえてくるという事実に、ただただ感動してしまう。何故引退なんてしていたのか、本人に直接問い詰めたい。こんなに近くで染夜愛の歌声が聞けた、それだけでこの企画に参加した価値はあったというもの。
……なんて、周りの人の心の声が聞こえてくるようだ。
栞自身はやはりそうでもない。過去の人だし、とか、普通のポップスにそこまで感心がないというのももちろんあるが、普段通りならもうちょっと素直に感動していただろう。
他のことが気になっていた。
先程のあの怪しい笑みはなんだったんだろう。
あの時は、見間違いかと思ったがやはり違う。
染夜愛には決して似合わないあの笑みは。
「じゃ、次。最後。薫子ちゃん」
「待たせたな。薫子ちゃんだ」
誰に対しても相変わらずの態度。だがこと歌に関して、薫子のことを栞は心配していない。なんたって同じバンドでずっとやってきた仲間だ。過去形だけど。
――ほら。
歌声が聴こえてくる。
「ううむ」
広田が唸る。愛もアリサも、知菜も、みんなが目を見張る。
そう正しく。薫子の歌は、いい意味でも悪い意味でもまず驚く。薫子の持つおちゃらけた雰囲気と、そんな彼女から発せられる歌声に、脳がびっくりする。
椎名林檎、川本真琴、その系譜にいる、往年の天才ボーカリストを思わせる才能とでも言えばいいのか。
決して万人受けのする歌声でも歌い方でもない。高音、掠れ声、吐息の多さ。抑揚の付け方は、人によってはうるさいと一言で切って捨てられるか、もっと単純に拒否反応を起こすだろう。ボディランゲージまで本人の性格を表したようにうるさい。
はっきり言ってしまえば、アイドル向きでない。アイドルグループ選抜会場にいたら、ソロでやりなよと言われてしまうレベルである。少なくとも栞はそう思っている。
他には無い唯一無二の個性だ。
――本当にもったいない。
そしてあんな風に終わってしまったことが心の底から悔しかった。
この歌声の下でやっていきたかったのに。
改めて歌声を聴いてそう思う。
――そうだよ。
絶対に。絶対に。
アイドルなんかに。
アイドルなんかで。
――かおちゃんは。
かおちゃんは、アイドルなんかで終わらせて良い存在じゃないんだ。
視線を感じた。
周囲を見渡し、カメラかと思い直して、薫子の歌に聴き入った。
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