恋文の狂想

@syusyu101

恋文の狂想

 私は自由と博愛の共和国で生まれ、そして育った。

 絵画になるようないい感じの土地で生まれ、しきたりなど気にせず、身分の差にも固執しない素晴らしい両親のもとで育ち、そして自由と博愛を守るために、その戦争に参加したに違いない。


 共和国と帝国はドルレアの地にて衝突した。

 共和国ははじめ帝国に領土侵犯を訴え、退去を命じた。

 しかし帝国側の軍はその事実を認めず、むしろ共和国こそが領土を侵犯しているのだと訴え、そして万全に準備していた軍隊で戦闘を開始した。

 今でも思い出せる。帝国軍人たちの狂った掛け声を。

 『皇帝陛下万歳!皇帝陛下万歳!』

 自由と博愛を信条とする共和国軍人として、独裁によって統治され、そして盲目的に暴走し、弱者を虐げる帝国軍人を許す事はできなかった。

 我々共和国軍人は一切合切の慈悲を捨て(それこそが慈悲だったのかもしれないが)、帝国軍に反抗。みるみる内に戦力を整え、差を覆し、最後には帝国軍を塹壕に押し込め、天を埋め尽くすほどの砲火でそれを滅した。

 三年間に及ぶ戦争は終わった。

 大量の着弾によるクレーターと、地下墳墓と化した塹壕を残して。


 私は戦場の後処理をする事になった。

 地中に埋まった不発弾や、まだ塹壕に隠れ潜んでいる帝国軍人、後々悪用されそうな銃器などを捜索し、処理する仕事。

 だが確認するまでもなく、生存者は居ない。

 あの砲火はすさまじかった。

 直接塹壕ごと押しつぶされる者も多かったし、その爆発音に精神を病み、自ら命を絶つ者も多かった。

 その塹壕の跡も、そういったものだろうと思えた。


 その塹壕はまだ少し形を残していた。

 砲弾をまともに受けなかったのだろう。半地下の部屋は少しだけ綺麗で、雨水が漏れてきてさえ居なければ生活できそうな空間だった。

 しかしマトモな生存者は居ない。

 死体が二つある。

 一つは汚泥に塗れ、軍服と銀の髪が覗くだけで、腐敗しきって悪臭を放っている。

 一つはまだ身ぎれいな軍服で、腐敗はしているがまだ人間の形をしていて、眉間を銃弾で撃ち抜かれた跡がある。

 そして一人だけ生存者が居た。


「隊長!戻ってきてくれたんですね!?良かった。貴族のあんたさえ居れば、捕虜になっても金で開放してもらえる。一緒に戦った仲でしょう!?助けてくださいよ!」


 まくし立てる大柄な男は、悲しいかな。錯乱してしまっている。

 軍服は泥に汚れ、その顔は時間が経って固まった血液でどす黒く染められていて、右肩から先が無い。

 そして、私の事を帝国軍人だと錯覚している。

 先は長くない……私は哀れに思い、ピストルでその眉間を撃ち抜いた。

 大柄な男は驚愕の表情で崩れ落ちる。これで、死体は三つ。


 私は急ぎその塹壕を捜索した。

 武器の類は回収する決まりだったから、私はライフルや手榴弾の類を集めた。

 インスタント珈琲などの糧食も少し残っていたから、貪って小腹を満たす。

 もう少しだけ捜索すると、私はひとつ、封筒を見つけた。


 前線ではあまり見ない、上等な白い紙製の封筒。

 血と泥で汚れてはいるが、それに押された封蝋の赤の鮮やかさと言えば、もう疑いの余地もなく、貴族だとかの上流階級が使うものだと分かった。

 私は封を破り、中身を検める。

 帝国軍の機密が無いか、というのが表向きの言い訳で……本当の事を言えば、自由と博愛の共和国軍人として、帝国の悪しきカースト制度の上流階級たる貴族など、唾棄すべきものだったからだ。

 私は貴族の醜聞を漁るつもりだった。

 しかし、その封筒の中。

 何十枚もの紙に、短く、そして膨大に書かれたそれは、ひどく純情な恋文だった。


 私は今、ドルレア前線でこの手紙を書いています。

 前線での軍の食事と言ったら、ひどいものです。

 携帯食は味ばかり濃くて、口の中も渇いて、しかも一日一食だけで戦えというのです。

 あなたは今日も、あのドヴァ―レンの港でパンを焼いているのでしょうか。

 また生きて帰れたら、あなたの店を訪れてもよいでしょうか。

 ドルレアの朝は鉄の臭いがします。

 男ばかりで、銃ばかりで、たまにはあなたには読ませてはいけないような酷い状態のものまで転がっています。

 あの港の潮風の香りが懐かしいです。

 そこにあなたが焼いたパンの香りと、あなたが選んだ香水の香りがあれば、もうそれ以上は望みません。

 生きて帰れたら、またお会いしましょう。

 私はあなたに会いたくてたまらないのです。

 ドルレアでは、昨日言葉を交わした友人が翌朝には姿を消し、ギャンブルで貸しを作っても作られても、それは有耶無耶の内に消えてしまうのです。

 あぁ、ドヴァ―レンの港に佇んでいたあなたと、もっとお話ししていればよかったのだと、今更ながらに後悔しています。

 平和になったら。

 平和になったら、きっと会いに行かせてください。


 そういった、ただ“会いたい”という心を記した言葉が延々と連ねてある。

 私はその無数にある紙をめくらずとも、この恋文を記した帝国軍人の心の痛みがまるで手に取るように分かった。自分の事のように思えた。

 このドルレア戦線では、故郷に恋人を残してきた者も多い。

 彼もまた、そうだったのだろう。

 そして、その恋は決して叶う事は無いと分かっていたのだ。

 そもそも帝国軍が勝てる戦争ではなかったし……なにより、この恋文を書いたのは貴族だった。

 帝国は閉鎖的で、古いカースト制度に支配されている。

 貴族は貴族としか愛を成せず、平民は平民としか家庭を持てない。

 使われている紙や文章の教養の高さは筆者が貴族の出であることを示していて、それに対し、港でパン屋なぞやっている娘が貴族な訳がない。

 帝国という国では、その願いはどのみち叶わなかったのだ。

 たとえ、この戦線で死なずとも。


 私は酷く悲しみに暮れて、まるで自身の恋人を亡くしたかのように泣いた。

 ひとしきり泣いて、それから決意した。

 私はこの帝国軍人の無念を晴らしてやる必要がある、と。

 私は帝国へ旅立つ事にした。

 愛を尊び、自由を信じる共和国軍人として、それは当然の行為に思えた。


 ドヴァ―レンへの旅路が始まる。

 自由と博愛の国である共和国は帝国と違い、学問も旅行もなにもかも自由だから、私は帝国の地理や言語について少し理解があった。

 その理解の中で言えば、ドヴァ―レンは帝国にとって重要な軍港だ。

 一大輸送拠点でもあるドヴァ―レンはこの戦線における全ての戦場に物資を届けられるよう、見事に道路網をひいている。

 距離さえ考えなければ、そこへ辿り着くのは難しくない。

 私はドルレアから退却する帝国軍の轍を踏み、その地を目指した。

 距離はたしかに想像以上に長く、時間もまた馬すら無き身には苦痛だったが、あの哀れな帝国貴族軍人の愛を成就させるためならばと、それにも耐えきった。

 しかし耐え難い苦痛もあった。

 国境沿いで私は遭遇する。石を投げうつ子供たちに。


「パパを返せ!お兄ちゃんを返せ!」


 そういった子供は一人や二人ではなく、通りすがる町や村々には必ず居た。

 その多くが、先の戦争で帝国軍による略奪を受けた人々だ。

 燃え跡が残る家並みに隠れ、瓦礫に潜み、そして一心に私を狙い石を投げる彼らは、ひどく痛ましく見えた。

 可哀想に。彼らは悲しみのあまり、全ての軍人を憎んでしまっている。

 それはそうだ。軍人が、戦争が彼らの家族を奪ったのだから。

 彼らは知らない。私が自由と博愛を尊ぶ共和国軍人で、彼らを虐げた帝国軍人を討伐してきたことを。

 だから叫ぶのだろう。「死んでしまえ!帝国人!」。

 彼らの悲しみがいつか癒える事を願いつつ、私は恋文のつまった封筒を胸に抱え、石も避けずに道を急いだ。

 頬が裂け血が出たこともあったが、私を打ち据えることで心が晴れるなら、それでもいいかと思えた。

 そういった自己犠牲こそが、自由と博愛の共和国軍人には必要だと思えたから。


 そして、私はひとつの関所で止められた。

 失念していたのだ。

 私が自由と博愛を尊ぶ共和国軍人である事に対し、この関所で、つまり帝国の支配下で動く軍人は、閉鎖と暴力の帝国軍人ばかりであるという事を。

 私は抵抗した。

 しかし武器は取り上げられ、服を脱がされ、熱い湯でごしごし洗われ、傷口にやたら染みる消毒液を浴びせられ、そして毛布ばかりで蒸し暑いベッドに縛り付けられた。これはいけない。こいつらは私を捕まえ、捕虜にするつもりだ。

 それを証明するかのように、私が隔離された部屋に、けばけばしい化粧の貴族が入って来た。捕虜解放をめぐる取引の交渉のため、私の身元を調べようというのだ。

 部屋を見張っていた帝国軍人が問う。「こちらの方は、まさか」

 けばけばしい貴族が答える。「えぇ、間違いありません」。

 そして、私の内臓を踏みつぶさんかと言う勢いで、貴族が私に抱き着いてきた!


「バーゼル様!バーゼルお坊ちゃま!よくぞご無事で、あの戦線は全滅したと聞いておりましたが……ご無事でよかった……!」


 化粧の悪臭が鼻をつく。

 それだけで私は逃げ出したい衝動に襲われたが、そんな事とは比べる事もできないほどに不快な事態が発生していた。

 このけばけばしい貴族は、私の事を、なんと帝国の貴族だと錯覚しているのだ!


「待て、離れろ悪しき帝国貴族め。私は帝国貴族などではない!」

「その声!あぁ、たしかにバーゼルお坊ちゃまです。

 きっと錯乱しておいでなのですね。大丈夫です。あの戦いはもう終わったのです。ここにあなたを害そうとする共和国軍人はおりません。

 どうか、どうかお心安らかに……」


 けばけばしい貴族は咽び泣き、私の服を濡らす。

 不快だった。

 どうしようもなく不快だった。

 私は今すぐにでもピストルでそいつの頭をぶち抜いてやりたかったが、武器は取り上げられていて、反抗しように身体に巻かれた包帯や消毒液でまともに動けない。

 私はそのまま連行された。

 帝国貴族、バーゼル・フォン・グランボトムなどというものに間違えられて。


 馬車の中で私は毛布に包まれ、両脇を帝国軍人に固められていた。

 ひどい馬車だ。

 未だに戦争で苦しむ民が居るというのに、この馬車はちっとも揺れず、椅子の仕立ても外装の装飾も全て職人のもので、貴族のでっぷり膨れた腹が目に浮かぶような馬車だった。

 私はどこへ連れられて行くのだろう。

 それは恋文の行き先とはきっと違う場所だろう。

 悲嘆にくれ、くじけそうな心根を奮い起こすため、私はあの恋文を再び読み直す事にした。まだ読んでいない場所はいくらでもあった。


 ドルレアでひどく哀しく思うのは、祖国の幸福のためと近隣の村々から連れてきた若者たちの一切合切が、共和国の無慈悲な砲撃で消えていくことでしょう。

 彼らの多くには愛する妻や、息子や、友が居ました。

 私は彼らがそういった大切な人々と引き離されていくのを見ていました。

 私は、あぁはならないと誓います。

 ドヴァ―レンの港、パン屋の姫君。

 私は必ず生きて、あなたの元へ帰ります。

 私はグランボトム家の貴族ですが、そこへ帰ろうとは欠片も思いません。

 あそこにはけばけばしい化粧だらけのメイドだとか、しきたりだらけの母親だとか、オペラを書く私を理解せずに軍に押し込めた父などが居るからです。

 あなたは、私が貴族である事を疎ましく思うかもしれません。

 ですが、どうか分かってほしいのです。

 私が貴族という存在を憎んでいるという事を。

 私が、貴族の贅という贅全てを引き換えにしても、あなたの愛が欲しいという事を。

 また全てが終わったら、あなたに告白したいと思うのです。


 あぁ、この恋文を書いた軍人よ。

 グランボトム家の息子とやらよ。

 あなたは私と同じだ。あなたは私と同じく、貴族を嫌い、自由と博愛を尊び、そして愛のために生きようとしたのだな。

 そう思えば、心は奮い立たされずにはいられない。

 私は必ずしやこの恋文を届けるのだ。

 あなたが届けたかった恋文を。

 戦場で死に潰えてしまった、その熱い純なる思いを。

 私はじんと感じ入り、帝国人の前で泣いてはならぬと思って、涙が出るより前に恋文を閉じる。最後まで読まなくとも分かるのだ。この恋文を書いた軍人の思いが。

 この思いを届けねばならぬ。私は機会が訪れるのを、じっと待った。


 馬車は帝国領内深くまで進み、そしてそのグランボトム家の領に入った。

 城のような屋敷の周囲には複雑に入り組んだ、見た目だけは荘厳でその実態は悪夢のような庭園が造ってある。

 ここで子供がかくれんぼをしたなら、庭園から抜け出せなくって泣きじゃくるに違いない。今では庭師も戦場に行っているのか、どうしようもなく荒れているから、もうここでかくれんぼなどしたくないと思った。

 そこでは、私の両親を名乗る人物が現れた。

 二人とも、人違いである事には気付かない。


「よく生きて帰った。バーゼル」

「戦友をおいて逃げ帰るなど、それでも帝国貴族ですか!」

「まぁ待てアイネ。愛する息子が帰って来たのだぞ」

「恥知らずな息子を育てた覚えはありません!」

「しかし戦場では、何もなせずに死ぬのが一番の恥だ。その点バーゼルは上手く生きて帰って来た。それでいいじゃないか」

「そういうものですか?」

「そういうものだ。バーゼルも良い男になった。戦場を知る男になった。これなら、あのリュミール家の令嬢にも見合うだろう」


 その二人の言葉は耳を通り抜けていくようだった。文章なら目が滑っていただろう。とてもではないが、頭に留めておけるものではない。

 両親を名乗る割に、人違いとはいえども、息子を労わる口調でもなかった。

 ただ淡々と、事態を確認し、感情で殴りつけてきて、そしてこの後の段取りを組み立てる。

 頭痛がした。

 私は自由と博愛を尊ぶ共和国軍人だと叫びそうになった。

 しかし、そう叫べば私は発狂したとされ、脱出の見込みもない部屋に隔離されるだろう。そういうお説教と反省のための部屋が、この屋敷の地下にはあるのだ。

 ……それは私が知らない筈の事だ。

 自由と博愛を尊ぶ共和国で生まれ育った私は、そんな事は知る由もない。

 ただ、そういった事はありそうなものだった。


「まぁ良い。今夜は休め。明後日は見合いだ」


 父を名乗る男は私の肩をぽんと叩いて(これまた脂ぎった手で、私は吐き気がした)、そして自室へと消える。

 私は戦争へ行くまで使っていた部屋に通された。

 いや、この人違いされているバーゼルという男が使っていただろう部屋に通された。趣味まで私そっくりだから、一瞬自分の部屋じゃないかと勘違いしたのだ。

 部屋にはオペラの本が積まれている。

 役立たずと言われた、前時代的な甲冑の飾りや、古い海賊が使っていたといういわく付きの為に買ったピストルもあった。

 私はピストルを少年めいた宝箱から取り出し、懐に隠した。

 少し落ち着いた所で、あのけばけばしい化粧の貴族が声をかけてくる。


「バーゼル坊ちゃま。夕食の時間でございます」


 降りていけば、食堂には豪勢な食事が並んでいた。

 息子の帰還のお祝いかと思えば、両親は肥え太った大きな唇になんの気もなしに詰め込んでいく。

 彼らにとっては日常の事なのだろうと思えた。

 あんな狭い塹壕で、貧相な食事で戦っていた帝国軍人たちの苦労はなんだったのか、そう考えると、またひどい頭痛がした。

 やはり、帝国は腐っている。

 身分での食事の差が、政略に縛られた自由などない愛の形が、肥え太った両親の姿が、それを私に再確認させた。

 私の前にスープが出る。

 真っ赤に茹でられた海老が、溺れた死体のように顔をのぞかせている。

 思い出した。グランボトム家は、海にも近いのだ。

 私は脱出する事にした。


 ピストルを取り出す。

「おぉ、それは懐かしいな。昔私が買ってやった奴だ」

「こら、バーゼル!食事中にお行儀が悪い!」

「まぁいいさアイネ。バーゼルも、久々に故郷に帰って来たものだから、思い出話がしたいのさ」

 引き金を引いた。


 外はすっかり暗くなっていた。

 けれど、塹壕の泥と鉄の臭いとは明らかに違う、恋焦がれた香りの風が吹いている気がした。海が近い。港が近い。ドヴァ―レンが、あのひとが近い。

 だからこそ、星明りを頼りに進んだ。

 あの屋敷にあった豪華なシャンデリアも、金細工の楼台も無かったが、大きく欠けた月は明るかった。

 いつか、いつだったか。私はオペラで少しだけ聞いた事がある。海賊は星を頼りに海を旅するのだと。私はそれにならう事にした。

 だから歩けたのだ。

 夜通し、夜通し歩いた。

 火を噴いて両親を殺したピストルの銃身は、もう既に冷えていた。

 私の身体も少しだけ冷えてきたように思う。

 心地よい冷えだった。肺が夜空に染まるような気がした。

 私の頭も落ち着いて、けれど少し高揚して、いつか記した恋文の中身を考えていた。


 我々帝国軍は敗北しつつあります。

 先日、ついに前線基地が破壊され、私たちは塹壕に詰め込まれました。

 このむさ苦しい穴倉から顔を出して、戻って来た者はおりません。

 私はこんな場所でも、あなたのために手紙を書きます。

 いえ、こんな場所だからこそ、書くのです。

 いつかあなたの元へ帰る事があれば、この時感じた艱難辛苦を吟遊詩人のように語って見せましょう。あなたは怯えてしまうかもしれませんね。

 ですが最後に私はこう言いたいのです。

 「それでも、あなたのために帰ってきました」と。


 私は筆を止める。部下から報告があったのだ。


「隊長!共和国の連中、引き上げていきます!」


 塹壕の中、軍用の堅苦しいデザインのランタンの灯りに、部隊の者ども全員の笑顔が照らされていた。


「やった!勝ったんだ!」

「塹壕に押し込められた時はどうなるかと思いましたぜ」

「隊長!よかったですね!きっと仲間が大打撃を加えたんですよ!」


 部下はみな無邪気に喜ぶ。

 帝国軍人の勲章の金属が、ランタンの光を反射して、真っ暗な塹壕の中で踊っているようだった。部下は酒を開ける。私はそれも止めない。

 こいつらは馬鹿だ。

 この部下たちは。

 帝国の、貴族ばかり優先する軍人教育が彼らを作ったのだ。この愚かで頭の中が幸せな連中を。私は吐き気がした。塹壕に入ってから吐き気が止まった事はないが、恋文を汚してはいけないと思って必死でこらえた。


 勝った?そんな訳が無い!

 我々帝国軍は一度たりとも塹壕を出なかった!

 敵の砲火を怯え、一度たりとも打って出る事をしなかった!

 かくいう私も怯え切っていた。共和国の訓練された軍隊を倒せると思えず、ただ恋に生きるため、生きて帰ってドヴァ―レンの彼女に会うために、打って出る事をしなかった!

 これで勝てる訳がないだろう!


 そう叫びたくなったが、これもこらえた。

 これを話してしまえば、食料や嗜好品など様々な面で優遇されている帝国貴族なんてすぐにリンチに遭うだろう。臆病者の隊長と罵られ、そして勝利の快感を奪った愚物として嫌悪のまなざしで見られるだろう。

 そう考えれば、私は騙しているのだ。部下を。

 「今は耐え忍ぶのも作戦の内」と称して、一切の戦闘行為から逃げていた。

 私が「これで勝てる訳が無い」などと言えば、騙していた事が露見し、私は殺されてしまうかもしれない。

 だから曖昧に笑った。

 そして、「良かったね」と言葉少なに答えた。

 それに部下は気を良くした。三人の部下の内の一人は良い気分になって、塹壕から顔を出した。そして訪れた。終わりが。


 轟音。

 土砂降り。

 それは遠雷のように轟いて、そして終末の空のように世界を明るく染めた。


 それが爆弾だと。

 それが敵の大砲だと。

 それが、帝国軍の塹壕全ての上に一斉に降り注いだのだと気付くのに、そう時間はかからなかった。

 顔を出した部下に砲弾が直撃し、その身体を死肉の汚泥に変えたからだ。


 地響き。塹壕の中は爆破の衝撃で揺れに揺れて、ランタンは落ちて割れ、部下の一人が発狂した。逃れられない終末が来たようだった。

 そして発狂した部下が言う。「隊長!私たちは勝ったんですよね!勝ったんですよね!!」。肩を掴まれる。「だましていたのか!」私はピストルで答えるしかなかった。

 まだ遠雷は止まない。

 砲撃の雨はやまない。

 揺れる塹壕、一つは人の形を無くした死体。一つは私のピストルで死んだ死体。

 私は発狂せずにはいられなかった。


「隊長!どこに行くんですか!?隊長!」


 生き残った最後の部下は片腕を失っていた。

 けれど、そいつは私の数倍体格が良かったから、私は逃げなければ殺されると思った。

 だから塹壕を飛び出し、私は駆けた。

 炎が降りしきる、かつて草原であった戦場を。


 なぜこのような事になったのか?

 私は恋文まで捨ててしまった。あの塹壕の中に忘れてしまった。

 なぜ私の愛を、皆は邪魔するのか?

 私は吐いた。

 国と時代が悪かったのだ。


 帝国貴族には取り決めがある。

 貴族は貴族としてあらゆるものを優遇される代わりに、決められた相手としか結婚できず、そして、必ず戦場で働くことになるというもの。

 私はオペラ作家になりたかった。

 私は、ドヴァ―レンのパン屋の娘と結婚したかった。

 なのになぜ、私は戦場に居るのか?

 なのになぜ、私はパン屋の娘の名前も知らず、届けるアテもない恋文を書いているのか?

 答えは簡単だ。

 私が帝国貴族だったからだ。


 轟雷。遠雷。空より来るは無数の砲弾。

 いっそ私を焼き殺してくれと思った。

 しかし、全ては私を外れ、周囲の帝国軍の塹壕を踏みつぶしていった。

 私だけが残り続ける。

 断末魔が爆破音と振動の狭間に響いている。

 おおよそ奇跡と呼ぶしかないものが私を守り、私を真っ赤な空の、一斉砲撃の、戦争の目撃者に変えていった。

 帝国は敗北した。

 私にレッテルを貼り、貴族という生を与えた帝国は敗北した!


 私は空想せずにはいられなかった。

 もしも私が帝国貴族でなかったなら。

 もしも私が、帝国の一国民として生きていられたら。

 もしも私が、私が共和国の人間だったら!


 私は自由と博愛の共和国で生まれ、そして育つだろう。

 絵画になるようないい感じの土地で生まれ、しきたりなど気にせず、身分の差にも固執しない素晴らしい両親のもとで育ち、そして自由と博愛を守るために、自らの意志でその戦争に参加し、勝利し、いずれは帝国の全領土を統治して、その上で、なんの気兼ねもなくドヴァ―レンのパン屋の娘に恋したに違いない!


 あぁ、いや。もしもなどではない。

 

 私は自由と博愛を尊ぶ共和国軍人だった。

 私はこの戦争に参加し、そして勝利し、戦場の後処理の中で恋文を見つけ、そして恋文を届けるために旅立ち、そして、そして、その行きつく先でパン屋の娘と結ばれる!


 いつしか砲撃は止んでいた。

 空を戦火の残滓が赤々と染めていた。

 夜明けが来る。

 私は最初から、共和国軍人だったという事になった。

 だからこそ、仕事をせねばならぬ。

 荒廃したドルレア戦線の後処理のため、塹壕を一つずつ暴き、そして、恋文を見つけるのだ……。



 夜明けが近かった。

 私はまだ歩いていた。

 旅人のための標識が、遠く耳に鳴る波の音が、空を飛ぶカモメが、ドヴァ―レンへの到着を告げる。

 私はたどりついた。

 沈みつつある月光をてらてらと反射する水面。

 朝焼けが石造りの港街をシルエットに落とす。

 私は時を待った。

 ずっと待っていた。

 貴族として生まれ、願いを踏みにじられ、いつか見たパン屋の娘に恋をし、そして三年もあの地獄のような戦場に押し込められて、その間ずっと、ずっと待ち続けていた。

 空が紫に染まりだす。

 夜明けが来る。

 私が待ち続けた朝が来る。

 ドヴァ―レンに生活の音が響き、カーテンが開き、人々が歩き出す。

 そして店が開く。

 パン屋が開いた!


 私は自由と博愛を尊ぶ共和国軍人となった。

 もはや私を止める者はない。

 貴族だからと、愛を邪魔する者はいない!


 私は意気揚々とパン屋の前に立った。ショーウィンドウが朝の海を反射し、焼き立てのパンの香りが立ち込める。居ても立っても居られない。いざ扉を開けようとしたその時だった、ショーウィンドウの向こうに、彼女が見えた!

 かまどに向かっている。

 パンを焼いている!

 いつかの日と同じ美しい銀の髪で、その後ろ姿だけでも彼女だと分かる。

 彼女の瞳は、記憶の中にも鮮やかな青!肌は白く、まさしく夜の月のようだった。

 あぁ、振り向いてくれ。

 記憶の中の、その愛しい顔を見せてくれ。

 彼女が振り向く。

 振り向いた!


 彼女の腹は、大きく膨れていた。


 肥満ではない。

 肥満であれと願っても、そうでない事は明らかだった。

 それは妊婦の腹だ。

 誰かの男に捕まった、女の腹だ!


 私がピストルを抜く。引き金を引こうとしたその瞬間、私を後ろから捕まえる者がいた。衛兵だ。帝国の、ドヴァ―レンの衛兵だ!


「バーゼル・フォン・グランボトム!親殺しの件で話がある」

「それは私の名前ではない!私は共和国軍人だ」

「そのピストルはバーゼルのものだ。貴様の軍服は帝国のものだ。貴様の髪は銀色だ。何も隠せてはいない。何も誤魔化せはしない。貴様は帝国軍人、帝国貴族のバーゼルだ!」


 衛兵は私を押さえつけ、手元のピストルを強奪した!

 私は潰されるように石畳に倒れ、周囲には、朝の港街には野次馬が集っている!

 ショーウィンドウの向こうの愛しい彼女は、正気を疑う目で私を見ている!


「正気に戻れ!バーゼル!」


 衛兵の声が遠く聞こえる。

 私は私を見る彼女に感激して、そしてその膨れた腹への憤怒を込めて、高らかに語り上げる。あの艱難辛苦を、塹壕の中の地獄を、死体ばかり増えていく戦場を、遠雷のように響く爆撃を。

 そして最後に、思いの限り叫んだ。


「それでも、あなたのために帰ってきました」


 私が戦場の全てを、敗戦の事実を、それを超えてなお残る恋情を高らかに歌い上げたのち、ピストルが火を噴く。


「狂人の戯言さ。

 心配するな諸君。帝国は今回のドルレア戦線も大勝利」


 衛兵の声が遠く聞こえる。

 血だまりが目に染みる。

 私の血だ。


「こいつは……共和国に洗脳でもされたんだろう」


 その言葉が本当なら。

 帝国という閉鎖的な国家の銃弾が、私を裏切り者として貫いたのなら。

 私は、自由と博愛に生きられたのかもしれなかった。

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