22 キャン・ネバー・ゴー・バック

 アーチがゆっくりとまぶたを開けると、電気の白い光が見えた。周囲はクリーム色のカーテンで囲まれている。知っている場所、医務室だ。

 ローブとセーターはベッドのへりにかけられていた。それ以外は全部記憶の通り。今回は靴もきちんとあった。カーテンを開けて足を下ろす。

 と、


「あら! あらあらあら、お目覚めね、ボーイ!」


 素早く席を立ったベンフィールド先生が、ぱたぱたと駆け寄ってきた。


「はいまず体温を計って――あら、まだ少し高いわね。でも、ええ、よくなったわ。傷の具合は――よろしい、良好ね。体調はいかが? 頭痛腹痛吐き気、ありまして?」

「ないよ」

「よろしい、よろしい」


 ベンフィールド先生はにっこりとうなずいて、それからふいにアーチをぎゅっと抱きしめた。


「アーチボルト・ウルフ。たとえ他のどの先生が、どれだけあなたを叱ろうとも、わたしはあなたをほめたたえ、そして感謝しますわ。ありがとう、ええ、本当にありがとう、わたしの孫息子を助けてくださって。何度言ったって足りませんわ、ありがとう、ありがとう、本当にありがとう!」


 先生の声はわずかににじんでいた。そして、感謝と尊敬に満ちていた。

 アーチは突然のことに少し固まったけれど、やがてじわじわとその温かさを理解していった。ギルバートにだって、彼が戻らなかったら悲しむ人がいるんだ。泣くほど怖くて冷たい暗闇に放り込まれて、泣いても収まらないほど苦しくなる人が。その人たちを助けられたのだ、と思うと、誇らしさで胸がいっぱいになった。

 それにこうやって感謝されることの、なんて気持ちが良いんだろう!

 先生はアーチを放すと、何度かその肩をなでてから、立ち上がった。


「さて、では、バロウッズ先生をお呼びしましょう」


 ベンフィールド先生はそで口から杖を取り出して、ひょいと振った。金色の小鳥がせわしなく羽ばたきながら壁を通り抜けていく。見るのは二度目だけれど、やっぱりアーチはその魔法に見ほれた。

 バロウッズ先生はほどなくしてやってきた。相変わらず浮かべっぱなしにされている笑みに、いつかのような怒りの色はなかった。

 彼はアーチのとなりのベッドに座った。


「や、ウルフ。君は本当に……なんて言ったらいいか。蛇に飲み込まれたときのことを忘れたのかい?」

「忘れてないよ。だから一人で行かなかったんだし」

「それはハデスが止めたからだろう?」

「……そうだけど」


 アーチがちょっとくちびるをとがらせると、バロウッズ先生は苦笑するように肩を揺らした。


「ヘンウッドとクレイとピアソン。彼らにもきっちりお礼と謝罪をするように」


 先生の話によると、フィルはアーチが跳び蹴りをきめたのを見て、ロジャーとライナスを呼んでくることにしたらしかった。そして三人で現場に戻って、呆然と座りこんでいるホーンズビーを見つけた。異変を察したロジャーがアーチの後を追いかけ、ライナスがホーンズビーを説得して医務室に連れていったという。そこでホーンズビーにかかっていた呪いが解かれて、彼はすべてを思い出した。見知らぬ男がいたこと、それをアーチが“誘拐犯”と呼んだこと、そしてギルバートが連れていかれたこと。

 地下でたおれていたアーチたちを発見したのは、ロジャーが最初だった。彼は誘拐犯をしばり上げてから、とりあえずアーチを連れて地上に戻った。そこで先生たちと合流して、全員無事に引き上げられたらしい。


「誘拐犯の男、ロベルト・パーセルというんだけれど、彼は魔法庁に連行された。誘拐されていた十一人の一般の子オーディナリーたちも無事だ。治療を受けて、しばらくしたら家に戻れるよ」

「よかったぁ」


 アーチは胸をなでおろした。みんなおうちに戻れる。テレビの中で泣いていたお母さんのことが思い出された。あのお母さんのところにも、女の子は帰れるんだ。

 先生がふいにローブの中へ手を入れて、一冊の分厚い本を取り出した。


「これを読んだのかい?」

「あっ、その本!」


 ハデスが飛びかかって、ぐったりさせてしまったやつだ。


「ちらっと見たけど、全然わからなかった。難しくって」

「ロベルト・パーセルがやろうとしていたのは、この本に書かれている儀式だよ」

「そうだったの? それって、どんな?」

「恐ろしい儀式だ。簡単に言うと、十二歳の男の子を十二人集めて、殺して、その血をもって高位の悪魔を呼び出すものだよ」

「……そんなことしてどうするの?」


 アーチの疑問に、バロウッズ先生はゆるりと首を振った。


「さて。僕にもわからない」

「先生なのに?」

「うん。先生でも、わからないことはたくさんある」

「ふぅん」

「でも、いくつか確実に言えることがある」


 先生はにっこりと笑みを深め、おどけた調子で続けた。


「ロベルト・パーセルはまともな人間ではない、ということ。そして、その彼の企みを止めた君は、無謀でどうしようもない問題児ではあるけど、とってもまともな良い子だ、ということ。これらは確実だよ」


 アーチはほめられたのか、けなされたのか、判断しかねて首をかしげた。

 もう一度お礼を言ってくれたベンフィールド先生に、アーチもお礼の言葉を返して、医務室を後にする。就寝時間を過ぎた校内は静まり返っていて、ひんやりとした空気に満ちていた。

 アーチはさっきからのどに引っ掛かっていたことを、ついにバロウッズ先生へぶつけた。


「ねぇ、先生」

「なんだい?」

「さっき、十二人の男の子・・・を、って言ったよね?」

「うん。誘拐されていたのは全員男の子だ」

「女の子がいなかった? 僕、入寮式の日に、女の子の幽霊みたいなのに会って、その子に『助けて』って頼まれたんだ。それが行方不明になってる子で、その子のお母さんがテレビに出てて、誘拐されたかもしれないって言ってたから、僕、てっきりあのおじさんが誘拐したんだと思ってたんだけど……」


 先生は黙ってアーチの話を聞いていたけれど、やがて首を振った。


「女の子はいなかった。間違いないよ」

「そんな! それじゃあ、あの子は――」


 詰め寄ろうとしたアーチの鼻先を、ふわりとウィル・オ・ザ・ウィスプがかすめ飛んだ。思わず立ち止まる。それは弱々しいオレンジ色の光を灯して、アーチの頭の周りをふらふらと飛んでいた。きっとあの地下の空間で、自分を助けてくれたのと同じやつだろう。

 それを見て思い出す。


「――あの子、ろうそく持ちのキティーについていっちゃった、って言ってた」


 アーチの中に最悪の想像が出来上がっていた。いや、本当は、今までにも考えては否定してきたことだった。

 つまり、あの子は本当にウィル・オ・ザ・ウィスプに誘拐されたんじゃないか、と。


「先生。ウィル・オ・ザ・ウィスプについていったら、もう戻ってこれないの? 助けられないの?」


 先生はしばらく言葉を探すようにしていた。


「……抜かれてすぐなら、まだ救いようがあったかもしれないね。でも、体と魂のつながりが切れてしまったら、もう無理だ。その子は二度と帰れない」

「そんな。それじゃあ――」


 アーチはがんと胸をなぐられたような気になった。抜かれてすぐなら、つまり自分が最初に出会った時なら、もしかして助けられたかもしれなかったのだ!

 バロウッズ先生が淡々とした調子で続けた。


「でも、どこに体を落としてきたのかもわからないような状況じゃ、なんにしたって不可能だ。体から離れた魂は、一日でつながりが切れてしまう。その子は、ウルフ、誰と出会っていても、助からなかったんだよ。ウィル・オ・ザ・ウィスプについていってしまった、その子自身のミスだ」

「でも、でもっ……そんな……そんなこと……」

「どうしようもないことだったんだよ。誰にとっても」


 先生の優しい言葉がむしろつらくて、アーチはくちびるをかみしめてうつむいた。涙が出てきそうになったのを必死にこらえる。

 だって僕は頼まれたのに、とアーチは内心で血を吐くように叫んでいた。頼まれたんだ、あの子にも、あの子のお母さんにも。助けてくれ、おうちに帰してくれ、って。僕は、任せて、ってうけおったんだ。それなのに、なにもできなかった……あの子はおうちに帰れないで、ずっとどこかをふらふらとさまようんだ。あの子のお母さんは、あの子を待って、ずっと泣くんだ……。なにもできなかった。なにも!

 目いっぱいにたまった涙があふれそうになったとき、ふいに誰かの声がした。


「戻すことはできぬが、冥府への案内ならしてやろう」

「え?」


 男とも女ともつかない、凛々しくて涼しげな声。それが、アーチのすぐ耳元から聞こえてきたのだ。びっくりした拍子に涙が引っ込む。

 そちらに首をめぐらすと、目と鼻の先にハデスの金色の瞳があった。その目は真ん丸に広がってから、すっと笑うように細まった。そして、声の続きが流れ出てくる。


「なに、久方ぶりに生者の温もりを味わわせてくれた礼だ。さまよえる娘子の魂ひとつぐらい、喜んでつれてゆこう」

「は、ハデス……?」

「うん。そうさ、少年。私はハデス。その名の通り、冥府の王だ」

「え……ええっ?!」


 アーチの甲高い声が高い天井に響き渡った。そのリアクションに満足したように、ハデスが「ミャーオ」と鳴いた――鳴く真似をした。


「な、なんで……先生の使い魔じゃなかったの?」


 バロウッズ先生のほうを見やると、先生はちょっと肩をすくめて「僕の使い魔だとは一言も言ってないよ」とうそぶいた。


「世界蛇に飲み込まれて生還した少年がいる、と話題になっていたものでね。気になったから、見に来てみたんだ。ふふ、おかげでなかなか楽しい日々だった」


 なんとも答えられないでいると、ハデスはアーチのほおに額をすり寄せた。


「少年。最後に、少しなでてくれるかな。君の手はとても心地よいんだ。そもそも、私に触れられる生者はまずいないものでね」


 アーチはとまどいながらも、ハデスの首筋をなでてやった。ハデスは目をつぶって「あー、そうそう、いいよ、最高だ」なんてご機嫌そうにつぶやいている。

 しばらくして、


「よし、満足した」


 と、ハデスはアーチの肩から飛び降りた。


「では、ゆくとするかな。たまには使い魔の真似事も、まぁ、悪くはなかったよ。少年、なにが起きようとけっして絶望せぬよう、鍛錬を積み重ねろよ。再会ができるだけ遅くなることを祈っている。じゃあね」


 言うだけ言って、ハデスはあっさりアーチに背を向けた。少し後ろをふらふらただよっていたウィル・オ・ザ・ウィスプに近寄っていく。


「おいで、君の居場所はこちらだ」


 彼女の言葉に導かれるようにして、オレンジの光はふわふわと高度を下げた。ハデスの鼻先の辺りに止まる。ハデスがそれを待ってから、しっぽで床をぱしんっとたたいた。

 瞬間、影のようなものがハデスの足元から立ち上って、二人を飲み込んだ。

 消える直前、アーチはハデスの前にしゃがみこんだ女の子の姿を見た。リンジー・アータートンだ。あのウィル・オ・ザ・ウィスプが、彼女だったのだ。彼女はアーチを見て、優しくほほ笑んでいた。

 アーチはいろんなことをいっぺんに理解した。


「助けてもらったのは、僕のほうだ……」


 ついに目から涙がこぼれ落ちた。涙が止まるまで、アーチは動けなかった。先生は黙ったまま、じっとそれを待っていてくれた。

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