21 光明

 アーチは今までで一番、“死”を近しいものに感じた。過去に、木の上から落ちて前後不覚になったことも、高熱を出して三日三晩苦しんだこともあるけれど、それらとはまったく違う経験だった。蛇に飲み込まれたときとも違う。一瞬で意識が飛ぶのでなく、ぼやけた世界が見えているわけでもなく、じわじわと確実に自分が削られていく感じ。

 冷たいほら穴が口を開けてアーチを待っている。夜の闇よりもさらに濃い、重たい暗闇に満ちた穴が。その中に引きずり込まれていく。問答無用で。無慈悲に――


「熱っっ!」


 急に解放されて、アーチはせき込みながら台座を転げ落ちた。

 なにが起きたのか、彼にはまったくわからなかった。わからなかったけれど、とりあえず解放されたことだけは確かだ。求めてやまなかった空気が一気になだれこんできて、かえってせきこむ。

 徐々に視界がクリアになってきた。体の感覚も戻ってくる。クリアになったはずの視界がじわりとにじんだ。怖かった。怖かった! 本当に死んでしまうと思った。暗闇に飲み込まれて二度と戻ってこられないと――だが今だって、本当に危機を脱したわけじゃないのだ。アーチは、恐怖に震えながらゆっくり再起動しようとしていた体を、強制的に立ち上がらせた。


「くそっ、なんだったんだ、今のは――あっ、待て!」


 おじさんがはたと気が付いて、アーチを捕まえようと手を伸ばした。が、アーチはその手をするりとかわした。ここで逃げ切れなかったら、今度こそおしまいだ!

 追いかけてくる足音は聞こえなかった。あきらめたのだろうか? と思ったアーチを崖から突き落とすように、言葉が投げかけられる。


吹き飛ばせblast!」

「っ、わああああっ!」


 突然、背後から突風にあおられて、アーチは派手に転んだ。地面を数メートル転がって、ようやく止まる。


「いったたた……あぐっ!」


 起き上がろうとしたアーチの腹を、おじさんが踏んだ。一瞬吐き気がせり上がってきて、さっき飲まされた謎の液体の奇妙な苦味がのどの奥によみがえる。

 おじさんは少しいら立っているような顔つきで、アーチを見下ろした。


「あまり手間をかけさせないでくれるかな? ただでさえ予定が押しているのだから」

「な……なんの予定? なにをする気なの?」

「君が知る必要はない。時間稼ぎのつもりならあきらめたまえ」


 言いながら、おじさんは横をにらんだ。右手を神経質な感じで、汚れを払うように振っている。それから大きなため息。


「どうしてこんなところにウィル・オ・ザ・ウィスプが入りこんでいるんだ? まったく、いまいましい」


 その瞬間、アーチはいろいろなことにいっぺんに気が付いて、頭がパンクしそうになった。

 おじさんがにらみつけているのは、ウィル・オ・ザ・ウィスプだ。オレンジ色の弱々しい光を灯している。ウィル・オ・ザ・ウィスプは「石炭の燃えさしを持っているのだ」というから、押し付ければ火傷くらいするだろう。おじさんの右手は赤くはれ上がっていた。アーチはあの魔性ませい生物に助けられたのだ。

 そして――もう一つの事実が、なによりも重要だった。それに思い至るやいなや、アーチは即座に自分の杖へ手を伸ばした。さっき転んだ時に手放してしまっていたのだ。指先からあと数センチ、というところに転がっている。


「んっ……んんんっ!」

「無駄なあがきはやめなさい。無駄じゃないなら余計に駄目だ」

「あうっ!」


 腹に体重をかけられて、アーチはうめいた。本能的に戻してしまった手を、無理やり伸ばす。杖まであと、ほんのちょっと、そのちょっとが、足りない……!

 その時だ。


「ウルフー!」


 チアーズの声。それから、カシャンッ、となにかが割れるような音。くだけ散った青い石のかけらが、キラキラと輝きながら宙を舞った。あのお守りだ。あの大切そうにしていた。

 それに一瞬気を取られたらしく、おじさんの足がわずかに持ち上がった。

 そのすきにアーチは杖を引っつかんだ。


「しまっ――」


 気付いたおじさんが杖を振り上げる。だが、さすがにそれよりはアーチのほうが早い。

 アーチはサッと杖を向けて、魔法を放った。


「『光明フワフワgleaming』!」


 ポッ、と白い灯りが杖先に灯った。

 だが、ただそれだけ。攻撃でもなければ防御でもなく、ただ灯りを灯すだけの魔法。


「……はっ、はははははっ!」


 おじさんが高らかに嘲笑する。


「なにをするのかと思ったら……そうか、そうだったな、一年生じゃあまだ、攻撃のための魔法は習っていないものな。最期に習いたての魔法を披露できて、満足したかい?」


 その見下したような言い方に、しかしアーチはにやりと笑い返した。


「うん、したよ。これで、影ができた・・・・・

「影……?」


 おじさんが眉をひそめる。

 この場所には光源がなかった。それでどうして明るいのかはわからないけれど、とにかく、光源がないのだ。光源がなければ、影もできない。影がなければ、ハデスは出てこられない。そのことにアーチは気が付いていなかったのだ――ウィル・オ・ザ・ウィスプの光が、おじさんの影を作り出すまで!

 アーチは祈るように言った。


「お願い、ハデス。出てきて!」

「ミャーオ」


 涼しげな鳴き声が聞こえてきたとたん、アーチは胸をなでおろした。まだ片付いてはいないけれど、ハデスが来てくれたなら、互角に戦えるか、少なくとも逃げきれるはず!

 頭の後ろにできた影から、するりと出てきた黒猫が、アーチの前に立った。

 瞬間、


「ひぃっ!」


 おじさんが息をのんで後ずさった。顔面がさぁっと色を失くす。ひざががたがたと震え出し、額に汗の粒がいくつも浮かび上がったのが、遠目にもわかった。


「な、な、なんだ、その猫……いや、猫じゃない。なんだ、それ・・は……!」


 おびえをあらわにするおじさんに向かって、ハデスはゆっくりと歩を進めた。


「ミャーウ」

「く、来るな、来るなっ! うわああああっ!」

「ンナォッ!」


 一声。

 叫ぶが早いか、一瞬で巨大化したハデスは地面を蹴り、脱兎のごとく背を向けたおじさんをあっさり踏んづけて捕まえた。おじさんの悲鳴が響き渡って、やがてぷつりと途切れた。

 アーチは目を真ん丸にして事態を見ていた。ハデスはこんなに強かったのか? おじさんはただ見ただけなのに、あんな……しかもちょっと踏んだだけで、あれほどに!

 呆然とするアーチのもとに、小さくなったハデスが悠々とした足取りで戻ってきた。


「ハデス、君……」

「ンミャーウ」

「すごいよ、こんなに強かったなんて! 助けてくれてありがとう!」


 アーチは彼女を抱き上げて、なでてやった。ハデスはアーチにすり寄って、ごろごろと気持ちよさそうにのどを鳴らす。

 それを聞いていたら、ふと肩から力が抜けた。緊張で固まっていた体がほぐれていく。すると、全身あちこちが痛むことに気が付いた。鼻血はいつの間にか止まっていたけれど、頭も背中も腹も痛いし、のどだって熱をもっている。夕飯前のお腹に変なものを流し込まれたせいか、なんとなく気持ちも悪い。頭がくらくらして、まぶたが重たくなってきた。

 おじさんがどんな儀式をしようとしていたのか、ここはどんな場所なのか、すごく気になったけれど、体の疲れには逆らえない。

 アーチはその場に両腕を投げ出して寝転がった。


「あー、だめだ……ねぇ、ハデス。もう一個、お願いしていい?」

「ミャウ?」

「バロウッズ先生を、呼んできてほしいんだ。誘拐犯と、誘拐された子たちが、ここにいる、って……お願い……」


 ハデスの鳴き声を最後に聞いて、アーチはこてんと眠りに落ちた。

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