19 男が笑う、魔法で攫う
アーチは、ロジャーたちの目をかいくぐるチャンスを虎視眈々と狙いながら、日々を静かに過ごしていた。けれど、なかなかその機会は来なくて、来たと思ったら先生がいたりして、どうにもままならない。アーチはだんだんやきもきしてきた。
けれどついにそのチャンスが、一月も終わりに近付いた頃にやってきた。
いつもの四人で寮に戻る途中、突然、実験室の扉が開いたのだ。そこから、真っ赤と真っ青の二層に分かれた煙がもうもうと出てくる。そして、せきこみながら現れた五年生が、ロジャーとライナスを見つけて顔を輝かせた。
「あぁー、クレイ、ピアソン、ちょうどいいところに!」
「え、どうしたんですか?」
「ちょおっとミスったんだよねぇ。手伝ってくれると助かるんだけどなぁ」
「報酬は?」
「あー、貸し一つ、ってことで、だめ?」
ロジャーとライナスは苦笑ぎみにうなずきあって、教科書を床に置いた。
「たぶんすぐ済むと思うから、そこで待ってて」
「すぐ済むといいけどなぁ」
「勝手にどっかに行くなよ、アーチ。絶対に、だからね」
そう言い置いて――ロジャーはぎりぎりまで心配そうにアーチを見ていたけれど――二人は実験室の中に入っていった!
アーチは即座に背を向けた。今を逃す手はない! フィルがそでを引いて「アーチ、アーチ! だめだよ!」とやかましく言ってくるが、聞いてなどいられるものか。アーチは問答無用で、厨房の裏手に着くまで一瞬も止まらず走り抜けた。
一息つけるところまで来てからようやく、アーチはとなりを歩くルームメイトをじろりと見た。
「なんでフィルも来たの?」
フィルは少しだけむっとしたような感じで、無愛想に言った。
「単独行動禁止、って言われただろ。それに、放っておけないよ。危険だってわかってるのに」
「ひとりもふたりも一緒だよ」
「そんなことないよ。ひとりじゃできないことだってある」
「片方をおとりにして逃げるとか?」
「……君の発想力って最高に最悪だね」
「ほめてくれてありがとう」
「ほめてない!」
へそを曲げたフィルがぷいとそっぽを向き、アーチは(勝手についてきたくせに)と思って口をへの字に曲げた。
二人の間には静かな夕闇が横たわる。土をける音がいやに大きく響いた。
くだんの場所にたどり着くと、アーチは壁をペタペタ触り、たたき、目を皿のようにして異変を探した。けれど、これといって変わったところはなにもない。ただレンガの壁が続いているだけである。
「本当にここで聞こえたの?」
「間違いないよ。ここで聞いたんだ」
ふぅん、とフィルは気のないあいづちを打った。
アーチはその態度にかっとなった。まさか、信じてないのについてきたのか! フィルは信じてくれている、と思っていたアーチにとって、それは手ひどい裏切りだった。いきどおりをそのままぶつけようと、アーチは振り返った。
「フィル! 君――」
「ねぇ、アーチ、あれ」
フィルはどこか別のほうを指差しながら、厳しい目をそちらに向けていた。出鼻をくじかれたアーチは、大人しく示されたほうを見やった。
そしてフィルと同じように、目をとがらせる。
まだ、この程度の距離が見通せなくなるほど暗くはなっていない。そしてあの人影は、嫌になるほど見てきたものだ。ジャスティン・ホーンズビー。彼がいるということは、その後ろに突っ立っている小さな影は、ギルバート・ベンフィールドで――地面にうずくまっているのは、ウィリアム・チアーズだろう。耳をすませば、泣き声も聞こえてくる。
「先生を呼んでこよう」
と、フィルが言い終わるずっと前に、アーチは走り出していた。
体は考えより先に動く。アーチは飛ぶように駆けていった。近付くほど見えてくる。泣いているチアーズ。真新しい杖を指先でくるくると回しているホーンズビー。どういう状況かは明らかだ。
アーチはするどく息を吐き出して、思い切り地面を蹴った。
「なにしてんだ、この、馬鹿!」
こんしんの飛び蹴りがホーンズビーの脇腹に刺さった。
思いがけない方向から衝撃を受けて、彼は大きくよろめいた。その拍子に手からこぼれ落ちた杖を、アーチは素早く拾い上げる。
「チアーズ、君のだろ」
「え……あ、うん……そう、だけど……」
「なにをするんだ、チビ!」
立ち直ったホーンズビーがアーチの頭をわしづかみにした。大きな手がアーチを押さえ込み、ようしゃなく圧力をかける。アーチはつぶされてしまわないように両足をしっかりを踏ん張った。
「
「ロジャーのことをミックスなんて呼ぶな!」
すかさずかみついたアーチを、ホーンズビーは鼻で笑った。
「うるわしいことだな、チビ。聞いたぞ、とんでもない問題児だ、って。いつだったか、この間もなんだかよくわからない嘘をついて、ミル先生に叱られたそうじゃないか」
「嘘なんかついてない!」
「嘘つきのオオカミ少年にはお仕置きが必要だな?」
「だからっ」
「ちょうどいい。そこのデブのグズとまとめて、菜園の肥料箱に突っ込んでやろう。泣いて謝ったら出してやらないこともないぜ?」
「誰が!」
アーチは唐突に膝から力を抜いて、わざとその場にしりもちをついた。体重をかけていたホーンズビーが、バランスをくずしてつんのめる。そのすきにアーチはくるりと脱出して、ホーンズビーを思いきり突き飛ばすと、チアーズの腕を取った。
「ほら、早く立って!」
「え、あ……」
「急げ!」
「逃がすかよ、馬鹿! ギル! ギル――」
ホーンズビーが命令を下したのを聞いて、アーチは判断をひるがえした。ぐずぐずしているチアーズなんか後回しだ。ベンフィールドの攻撃に備えなくては!
そうしてパッと振り返って――そこに見知らぬ男の背中があることに気が付き、はたと息を止めた。
ベンフィールドの姿はその男の陰に隠れてしまっていて、アーチからは見えなかった。ホーンズビーが泡を食ったように立ち上がった。どうやら、なにかよくないことが起きているらしい。
「おい、誰だよ、あんた。おい……ギルを放せ!」
「
ホーンズビーが飛びかかろうとした瞬間、その鼻先に杖がつきつけられて、強烈な白い光が弾けた。アーチの視界も完全にぬりつぶされて、まぶたの裏にちかちかとグレーの点が明滅する。
そしてその中で、アーチは男の声を聞いた。
「ちょうどいいところに子どもたちが集まってくれて、助かったよ。まったく、ありがたいことだね」
アーチはその声に聞き覚えがあった。あのとき、壁の中から聞こえた声だ――そしてそれだけじゃない――あのときにも感じた
まぶたをこじ開けようと努力しながら、声をしぼり出す。
「おじさん……池で僕を助けてくれた人?」
小さな笑い声が聞こえた。
「やあ、縁があったね、少年。……あの
アーチは言いようのない感情を覚えて歯がみした。
「やっぱり、おじさんは誘拐犯だったんだ……!」
姉さんと母さんは正しかった――あの池で、自分は本当に誘拐されかけていたのだ!
おじさんの勝ち誇ったうすら笑いが鼓膜を引っかく。
「これで完璧に予定通りだ。君たちはここで起きたことなどすべて忘れて、寮に戻るんだよ。いいね?」
はっと気が付くと、アーチは呆然と立ち尽くしていた。あたりはもう真っ暗になっている。そして、二人の姿はどこにもなかった。あのレモン頭も、自分をだまそうとした男の姿も。まるで、この闇に溶けてしまったかのように。
ホーンズビーがうめきながら起き上がった。
「うぅ……あれ、俺……どうしてこんなところで寝てるんだ?」
そのつぶやきを聞きつけて、アーチはがくぜんとしながら理解した。最後に聞こえたおじさんの言葉、「
となると、
(どうして僕は忘れていないんだろう?)
そのことがちょっと気にかかった。けれど今は、それを気にしていられる状況じゃない。ベンフィールドが連れていかれてしまったのだから!
「助けに行かなきゃ!」
ローブのそで口に指を突っ込んで、杖を引きずり出す。それからゆっくりと深呼吸をした。ホリデー中に何度も試してみたから、できるという自信はあったが、失敗できないのは初めてだ。
複雑な呪文を頭の中で一度さらってから、声に出す。
「『行き先教えて、
難しい単語ばかりなうえ、ワンフレーズだけ二拍子になる狂ったリズムの呪文を、無事に唱え切る。と、杖の先から金色の光があふれ出して、ふわりと風に舞った。小麦粉のような細かな粒になった光は、さらさらと流れて地面に落ちて――そこで、足跡の形を作り出す。
大人の大きな足跡だ。
「よっし、できた!」
アーチはこぶしを握って、その足跡を追いかけた。
金色の足跡が夜闇の中に点々と浮き上がる。それは彼が来た道をずっと戻って、さっき調べた壁のところにまで行きついた。
その続きを目で追って――アーチは状況を忘れ、そわそわと足踏みをした。
「すごい、すごい!
足跡は地面と壁の境目を直角に踏んで、そこから重力の向きが変わったかのように、壁の上を真っ直ぐに進んでいっていた。そして、何メートルか、少なくともアーチの身長の三倍以上は上まで行って、そこにあった窓のところで消えていた。
「そっか、そういうこともあるんだ!」
アーチはさっそく、足跡の上に自分の足を置いた。一歩目は地面と壁の境目を踏むように。そして二歩目を壁の上へやろうとして、それが難しいことに気付く。目と鼻の先にある壁、そこに向かって足を出したら、どう考えてもたおれてしまう。
でも、
(ここは魔法の世界、なんだって“アリ”なはず!)
えいっ、と思い切って足を上げた。
すると、当然のように体は後ろへかたむいて――そこでぴたりと止まった。世界が丸ごとななめにかたむいたかのように、平然と立っていられる。
「よし、いける!」
アーチはそのまま駆け上ろうとして、
「ミャウ」
「うわっ!」
突然飛び出てきたハデスにたたき落とされた。
足が壁から離れると、体が本来の重力を思い出した。地面に転がる。
「いたた……なにするんだよ、ハデス!」
「ンナーウ」
しりもちをついたアーチの目の前で、ハデスはきっぱりと首を振った。危険だ、行かせない、と、その目がはっきり告げている。
「あのさ、ハデス。これは緊急事態なんだよ、わかる?」
「ミャウ」
「危ないんだ、ベンフィールドが。そりゃ、嫌いなやつだけどさ、だからって誘拐されたのをそのまま放っておくなんてできないよ。わかるだろ?」
「ミャーウ」
ハデスはうなずいてみせてから、小首をかしげた。だからなに? とでも言いたげな仕草だ。
アーチはいらいらしてきて、
「あのね、ハデス!」
と大声を出そうとした。その瞬間、ハデスはパッと立ち上がって、影にもぐり込んだ。アーチの大声におびえたわけではないだろう。そんなやつではない。
理由はすぐにわかった。
「う、ウルフぅ! 待って……!」
「チアーズ?」
真ん丸の少年が、半分転がるように駆けよってきた。
「あの、あのぉ、ぼく、ぼくも……行く」
消え入りそうな声だったけれど、彼ははっきりとそう言った。
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