17 チェスボード、あるいは壁ごしに

 平穏なクリスマスホリデーはあっという間に終わりに近づいていった。結局アーチは日中のほとんどを図書館で過ごしていたけれど、それでも満足のいく休暇だった。図書館の本は読んでも読んでもまだあるし、なにより、ホーンズビーやベンフィールドの顔をちらりとも見なくて済む日々は実に健康的である。

 もちろん、図書館だけがホリデーだったわけではない。みんなで集まってカードゲームをする日もあったし、フィルとは毎晩のようにチェスをした。


「すごく新鮮だな、こういうの」


 サイドテーブルをベッドの中間に置いて、毛布にくるまったままコマを動かす。攻撃的なアーチと守り一辺倒のフィル、という、性格を反映した戦い方は、二人の戦績を五分五分にさせた。出だしのアーチの攻めが功を奏せば、あっという間にアーチの勝利で終わったし、そこを守り切って長期戦にすれば、フィルがねばり勝ちを見せるのである。

 フィルは定石どおり、ビショップを下げて守りを固めた。


「こういうのって?」

「みんなで遊ぶの。僕あんまし友達とかいなかったからさ、すごく楽しい」

「アーチって友達作れなさそうだもんね」

「そうなんだよ。作る気のない敵はたくさんできてるのに」

「……わかる気がする」


 フィルが遠慮がちに笑いながら、小さな声で言った。


「僕も、友達、いなかったんだ」

「そうなの?」

「うん」

「フィルは好いやつなのに」

「口が悪いからね。ときどき、ひどいこと言っちゃって、怒らせちゃうんだ」


 アーチは首をかしげた。フィルはそんなに口が悪かっただろうか?


「アーチぐらいだよ。僕が、あ、ひどいこと言っちゃった、って思っても、全然怒らなかったの」

「そうだった?」

「もしかして本当に気付いてないの?」


 鈍感にもほどがある、と笑いながら言って、フィルははたと口を押さえた。眉尻がくっと下がって、しょんぼりとした顔になる。


「……ほらね。今のとか」


 アーチはまったくピンとこなかった。反対向きに首をかたむけながら、ナイトが動いてできたすき間にポーンをねじ込む。


「僕が鈍感なのは事実じゃん。事実を言われて怒るのは……うーん、嫌いなやつのときだけかな。別にフィルに言われても……馬鹿にされてないってわかるし、別に」

「……へへっ」


 フィルが嬉しそうに笑ったのを、こちらのナイトを首尾よくたおせたからだと思ったアーチは、仕返しに攻めの計画を一手早めた。


「チェック」

「えっ、早い!」


 驚いた声を上げながらも、フィルの対応は適切だった。簡単にチェックを外されて、優劣は均等に逆戻り。

 アーチは盤面をにらみつけて長考に入った。一手早めたせいで、計画がくるってしまった。それを直しつつ、さらに攻め込むには――

 気をつかったような小さな声が、アーチの思考をちょっとだけ呼び止めた。


「……ね、聞いてもいい?」

「何を?」

「家族のこと」


 アーチはちらりとフィルのほうを見て、それからうなずいた。


「アーチは、お父さんと仲良くないの?」

「……今ちょっとけんか中」


 答えたひょうしに、ふとすべてを話してしまいたくなって、アーチは思いつくままにぶちまけた。魔法学校へ行くことを反対されたり、魔法を非難されたりしたこと。自分がへそを曲げて、見送らなかったこと。それきり気まずくて仕方ないこと。

 こんなこと他人に話したってどうしようもないのに! とアーチのどこかが思っていたが、一度話し始めた口は止まらなかった。この部屋の闇と、魔法の灯りのせいだったかもしれない。闇の深さは、他に聞く人が誰もいないことを教えてくれていたし、フィルが灯した小さな灯りは、アーチのものよりずっとやわらかな色を持っていたから。

 話し終えたとたんに、アーチは強く後悔した。話さなければよかった、こんなこと。いくらフィルが相手でも、「君が悪い。きちんと謝らなきゃだめだよ」とか「それはお父さんが悪いね。謝る必要ないよ」とかしたり顔で言われたら、腹が立つに違いないのだ。そうなったら、せっかくの友人を失ってしまうかもしれなかった。

 おそるおそるフィルをうかがう。

 彼は真剣な顔つきでルークを動かしていた。そうしながら、なにげない口調で言った。


「うまく仲直りできるといいね」

「え?」

「すごく難しそうだけど……でも、君なら、きっとやる・・だろう?」


 アーチは目をぱちくりさせて、それから「へへっ」と笑った。


「うん。ちゃんとやるよ。きっと――ううん、絶対、できる」


 はっきりと口に出したら、ふわりと肩が軽くなった。ぼんやりとしていた“モヤモヤ”が、明確な“課題”に変わって、“やるべきこと”を収めた棚にきちんと並ぶ。こうなってしまえばあとはやるだけだ、終盤のチェスみたいに。

 アーチはクイーンをキングののど元に突きつけた。


「チェックメイト!」

「えっ? あっ!」


 負けたぁ、とフィルが両手を投げ出した。


 翌日になってロジャーが帰ってくると、アーチはさっそく彼を質問攻めにした。自分だけではわからないことがたくさんありすぎたのだ。自習時間はもちろん、移動でちょっと一緒になったときだって、アーチはずっとしゃべり続けた。


「『追跡魔法』と『追跡妨害魔法』を見つけてさ、『追跡魔法』はできるようになったんだけど、『妨害魔法』のほうが上手く使えないんだ。教えてくれない?」

「そんなの見つけたんだ。もちろん、いいよ。あとでやってみよう」

「ありがとう! それからね、ハデスのことも調べたんだけど、どこにものってなかったんだ」

「……そっか」

「でもね、バロウッズ先生の使い魔なのは確実だと思うんだ。で、与えられている命令は簡単なものだと思う。たぶん、“僕が危険な場所に近付いたら警告するか連れ戻す”“僕の周りに誰かがいる間は、影にもぐる”の二つだけ」


 そのことを証明するために、わざと立ち入り禁止の場所に近寄ってみたこともある。一人で行ったときはすぐに飛び出てきて「シャーッ!」といかくしてきたのに、フィルを連れて(正確に言うと“無理やり引きずって”)行ったら、しっぽの先すら出さなかったのだ。


「どんなやつなのかわかったら面白いのになぁ」


 ロジャーは「そうだね」とうなずいた。なんとなく歯切れの悪いうなずき方だった。

 二人が廊下の角に差しかかったときだった。


「どういうことですの、バロウッズ先生?」


 嫌味ったらしい甲高い声がその先から聞こえてきて、ぴたりと足を止める。ロジャーがあからさまに嫌そうな顔になった。


「ミルだ。最悪」


 魔性ませい占星学のルシア・ミル先生を、月下寮シェリの生徒はみんな嫌っているのだった。というのも、彼女は明星寮ヴェヌスの寮監で、学校一規則に厳しく口やかましいからだ。なにかと校則を破りがちな月下寮の生徒にとって、彼女は天敵なのである。また反対に、ミル先生のほうも、月下寮やバロウッズ先生を目の敵にしているふしがあって、良好な関係を築くのが不可能に近いらしいことは明白だった。

 今だって、彼女のとげとげしい声はバロウッズ先生に向けられていた。


「わたくしの占いはこの学校を示しましたわ。強い妨害があったのをどうにか、どうにか・・・・くぐり抜けましてね。かなりの手練れ・・・ですわ。いったいどこからどうやって入り込んだのでしょうねぇ? 守りは、確か、あなたの専門でしたわよねぇえ?」

「そうそう、そうなんだよ。困ったね」

「なにを他人事のように!」

「おそらく世界蛇が現れたときだ。あの一瞬、蛇の魔力にゆさぶられて、結界がちょっとゆるんだんだ。何者かが入り込んだとしたら、そのときのほかに考えられない。で、僕はそれに気が付かず、結界を元通り張り直した。完璧にね」

「だからなんですの?」

「つまり……侵入者は、逃げ出せない……」


 耳にべったりとはりつくような声がはさまった。クィルター先生もいるらしい。ロジャーが「寮監全員での話し合いなんて、めずらしいな。重大なことみたいだ」とつぶやいた。

 アーチは心臓がバクバク言っているのが響いてしまわないか、気が気でなかった。何者かが入り込んだ――その言葉に心当たりがあったのである。きっと誘拐犯だ。罰掃除のときに聞こえた声のことだ!


「だが、内部にひそんでいることが、確実ならば……我々が、見つけ出さねばならない……」

「うん、そういうことだ」

「この広大な学校のどこをどう探せとおっしゃいますの?」

「そこは君の専門だろう、ミル先生?」


 一瞬の空白は、ミル先生がバロウッズ先生をにらんだためにできたのだろう。

 嫌味な高音はすぐに復活した。


「そもそも世界蛇が現れたのは、あなたの寮の生徒が原因でしたわねぇ? 入寮したその日に行方不明になって、奥におわすお方を引きずり出してくるなんて、とても信じられませんわ! 監督不行き届きの責任を取るおつもりはないので?」

「そういえばそのときも、君の占いは彼の居場所を割り出せなかったね。だから今回も無理だ、って言いたいのかな?」

「なんですって?!」

「いたずらにいがみ合うのは、よせ……時間がないのだ……」


 クィルター先生の重苦しさは、火花を収めさせるのに充分なしめりけを持っていた。


「すでに集めた十一人の、誕生日が迫れば……向こうは手を選ばぬだろう……最後の一人は、我らの生徒だ……それだけは、防がねばならぬ……」

「当然ですわ!」

「魔法庁はどうしているんだい?」

では……これは、単なる、誘拐事件……勘付いたものもおるが、まだ、動くには足りておらぬ……」


 バロウッズ先生がいやに冷たい声音で「相変わらず腰の重たい」とつぶやいた。


「ともあれ……十二人目がそろわぬ内は、儀式も成り立たぬ……我々のなすべきは、変わらず、生徒を守ることだ……」

「言われずとも、そのつもりですわ」


 ミル先生が吐き捨てるようにそう言ったのを最後に、先生たちのお話しはお開きになったようだった。声は聞こえなくなって、ヒールがかつかつと高らかな音を立てながら離れていった。

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