16 いじめられっ子と空飛ぶ本

 図書館はアーチの第二のすみかだった。特にクリスマスホリデーの最中は、寮にいなければここにいる、と言われるぐらいに入りびたっていた。

 というのには二つの理由があって。一つは、校内を冒険しようとすると、すぐハデスに止められてしまってどこへも行けないから。もう一つは、そのハデスについての情報が全然見つからなかったからである(と同時に、面白そうなタイトルを見つけるたびに夢中になって読んでしまうからでもあった。まだ習っていない魔法なんかを見つけてしまうと、その習得にかかりきりになることもあった)。

 それらしい本を読んでも、一般的な使い魔としての猫しか出てこない。そしてそういうやつの中に、影をすみかとしたり、大きくなったりするやつは一匹だっていないのだった。


「うーん……もしかして君、猫じゃなかったりする?」


 問いかけても、ハデスはすました顔をするばかり。相変わらず毛並みはつややかで、金色の瞳は宝石のように鮮やかだ。すでに数日をともにしたが、何かを口にする様子はまったくなかった。なでてやると気持ちよさそうにのどを鳴らすけれど、猫らしいのはそれくらいで、ミルクにも魚にも興味を示さない。アーチが一人になると影から出てきてそばにぴったりとくっつき、誰かと一緒になるとすぅっと影にもぐってしまう。そしてどんなに呼びかけても絶対に出てきてくれないのだ。だから、フィルに自慢しよう、という目論見は見事に失敗してしまった。

 アーチは今まさに読み終えた『猫語辞典・魔法使い編』を持って――天井付近を飛んでいた本が、急に高度を下げてぶつかろうとしてきたのを避けつつ――席を立った。


「猫のことは全部読んだ。使い魔のことも、まぁ、わかった」


 使い魔のことは、まだ習っていない用語や考え方が多すぎて、理解しきれなかったのである。かろうじて、基本的な――魔法使いは魔性ませい生物と契約を結ぶことでそれを使い魔とすることができる。使い魔は契約者の命令を忠実に守らなくてはならない。幽霊ゴースト以外はすべて使い魔にできるが、悪魔との契約は魔法法で禁止されている――ことはわかった。

 だから、ハデスが悪魔でないことだけは確実である。


「じゃあ、次は影の中に住む生き物について読もうかな」


 アーチは『猫語辞典』を元の場所に帰してから、迷わず「生物」の棚に向かった。

 もう館内の地図は完璧に頭へ入っている。図書館はほとんど正方形で、一階は誰が読んでも安全な本が、整然と並んでいる。五階まですべて吹き抜けになっていて、本棚が埋め込まれた壁に沿って廊下がぐるりとめぐっていた。アーチは当然そちらに登ってみようとしたのだが、一年生は立ち入り禁止、と言われてしまったので、今のところはあきらめている。

 吹き抜けには本が数冊飛び交っている。ああやって飛び回るのは、普段あまり読まれていない本らしい。読まれたくてときどきおそいかかってくるのを、アーチは軽々とかわしながら、一階の一番奥に進んだ。「生物」の棚はこの六列だ。最も広い一角で、最も司書さんから見られにくい場所でもある。

 猫に関する本を探していたときに、すでに目星はつけてあった。アーチは真っ直ぐ、一番奥の通路に入って――入る直前、ハデスが肩から飛び降り、影にもぐった。

 誰かいるんだ、と察するのと、すみにうずくまっている丸い影を見つけたのが、ほとんど同時だった。

 通路の一番奥に、小さな丸い背中がうずくまっている。

 アーチはとっさに駆け寄った。


「どうしたの? ぐあい悪い?」


 丸くなっていた背中がびくりと震えて、それからおずおずと顔が出てきた。

 その顔をアーチは知っていた。条件反射的に眉をひそめてしまう。ジャスティン・ホーンズビー&ギルバート・ベンフィールド一行の一番後ろにいる子だ!

 向こうも向こうでアーチのことをよく知っていたらしい。青ざめていた顔をさらに青白くさせて、逃げるように振り返った。が、そこは壁である。逃げたいのに逃げられない、とわかった彼は、石像みたいに固まった。

 その様子を見て、どうやらこの子はギルバートとかとは違うらしい、とアーチは理解した。そういえば、彼はいつもギルバートたちの後ろに隠れていたし、小走りになって必死に追いかけているみたいだった。

 アーチはその子のとなりにしゃがんだ。


「君ってベンフィールドと仲良い?」


 単刀直入にそう聞くと、その子はあからさまに全身を緊張させた。

 それから、じぃっと見つめ続けるアーチの目に負けたように、ゆっくりと首を振る。


「ぼくぅ、あのぉ……ごめん、あんまりぃ……」


 それで確信する。


「いじめられてる?」


 オブラートに包む、ということを知らないアーチの言葉は、彼を再び石像にさせた。


「同じ寮の仲間なのに、どうして?」

「えぇ、っとぉ……ええと、そのぉ……」


 言いよどむ彼のとなりで、アーチはじぃっとその目を見つめながら待った。たぷたぷとしたほおに埋もれそうになっている彼の目は、小さなクルミのような色と形をしている。赤茶けた髪はやわらかそうで、うすっぺらい。体の横幅はアーチの倍ぐらいあって、とても同じローブを着ているようには見えなかったけれど、彼のローブは彼の体格にぴったり寄りそっていた。

 彼は顔中に汗の粒を浮かべながら、ようやく、途切れ途切れに言った。


「そのぉ……ぼ、ぼく……魔法がぁ、その……うまく、できなくてぇ……い、一般人の、生まれ、だからぁ……しかたないんだけどぉ……」


 なるほど、とアーチは膝を打ち、それからぱちんと焼却炉のスイッチが入るのを感じた。ぼんっ、と音を立てて燃え上がった炎に突き動かされるようにして、アーチはその子の腕をつかんだ。


「魔法使いに一般人生まれかどうかなんて関係ないよ! 僕もそうだけど、魔法、できるようになったし!」

「えぇ……」

「それにそんな理由で同じ寮の子をいじめるなんて! 日輪寮ハウィルって“愛のある人間”じゃないとだめなんじゃなかったっけ? 愛なんかこれっぽっちもないじゃないか!」


 アーチの大声にいら立ったのか、空飛ぶ本が勢いよく頭上を横切り、ばーんと壁にぶつかって落ちた。それはセミのように、しばらく床の上をじたばたしていたが、やがてまた飛び上がって中央に戻っていく。

 アーチはちょっと声をひかえた。


「あのね、僕も父さんと母さんは一般人なんだ」

「うん。知ってるよぉ」

「でも、ちゃんと魔法使えるようになったよ。ほら――ええと、あれ……あった!」


 アーチはローブのそでに手をつっこんで、しばらくごそごそとまさぐってから、ようやく杖を――そで口の影の中から――取り出した。

 その子の目が真ん丸になった。


「もう、『収納』を、なにも言わないでできるのぉ?」

「練習したからね」


 アーチは自慢げにあごを反らした。ロジャーや先生たちが、なにもないところから杖やお菓子やジュースを取り出していたのは、この『収納』の魔法だったのである。それを知ってからというもの、アーチは寝ても覚めてもずっと練習し続けていたのだ。

 それからちょいと杖先をかかげる。


「『光明フワフワgleaming』」


 静かに唱えると、小さな灯りが点いた。アーチの作り出す『光明』は、なぜかフィルのより白みが強く、蛍光灯のような明るさをしている。

 その子は目だけでなく口までぽっかりと開けた。


「詠唱、全部しなくてできるのぉ? すごいなぁ……!」

「前置詩文は“認識上の詠唱を助けるため”のものだからね。ちゃんと認識さえしておけば、省いても大丈夫なんだ」


 と、アーチはロジャーに教わったことをそのまま繰り返した。

 灯りを消す。もともとそんなに明るくない図書館が、さらに暗くなったように見えた。


「つまりね、君――ええと――名前は?」

「チアーズ。ウィリアム・チアーズ」

「僕はアーチボルト・ウルフ」

「知ってるよぉ」


 チアーズは初めて笑みのようなものを浮かべた。ゆるんだこぶしから、シャランと音を立ててキーホルダーのようなものが垂れ下がる。金の鎖に青い石がついていた。


「君って有名だもん」

「そうなの?」

「行方不明になって戻ってきた一年生はぁ、君が初めてなんだってぇ」


 なるほど、その件で。どうせならもっと名誉なことで有名になりたかった、とアーチは少しくちびるをとがらせたが、すぐに話を戻した。


「ともかく、チアーズ。魔法が下手なことに、一般人生まれかどうかは関係ないよ。そんなの言い訳だ」

「うぅ……」

「一般人生まれ、って馬鹿にするやつは本当に最低だけどさ。でも、だからこそ、そんなやつらに負けちゃいけないんだ。実力をつけて、堂々としなきゃ」


 アーチははっきりとそう言った。勇気づけて、鼓舞するつもりだったのだ。

 けれど、チアーズは膝にほおをくっつけてうつむく。ぷくぷくした丸い指が、キーホルダーの先の青い石をつつく。


「……ぼくはぁ……君とは、違うからぁ……」

「そりゃそうだろ? 僕と君は別の人間だ。でも、同じ歳の同じ魔法使いだよ。僕にできて君にできないことなんて、そうはないはずだよ」

「でもぉ……」

「でも?」


 すばやく先をうながすと、チアーズはぐっと黙り込んでしまった。

 アーチはやっぱり理解できなくて、首をひねった。うちではこんな話し方は許されないし、言い訳だっていい顔はされない。一番しかられるのは嘘だ。父さんも母さんも姉さんもそう。


「わかんないなぁ。できないんだったらできるまでやればいいだけだろ。なんでそうしないの? それに、悪いことしたわけでもないのに、どうしてそんなにおどおどしてるの?」

「あう……」

「ねぇ、なんで?」


 チアーズの顔は真っ赤だった。ほっぺたがぷるぷると震えて、そこから「き、き、き……」と壊れたおもちゃみたいな声がもれてくる。

 アーチがもう一度聞こうとした瞬間、彼はばっと立ち上がった。


「君には一生わからないよ!」


 たたき付けるようにそう叫ぶが早いか、彼は転がるように駆けていってしまった。

 アーチはぼうぜんとして、彼の丸い背中を見送った。


「なんだよ、アイツ……」


 理解できないのもそうだが、一生わからない、と決めつけられたのが余計にアーチをいら立たせた。わからないのも当然だ。話してくれなきゃわかりようがないのだから。


「ちぇっ、臆病者チキン!」


 二度とあんなやつのこと心配するもんか! と心の中で叫びながら、アーチは勢いよく立ち上がった。ちょうどそこに飛んできた本をさっと避ける。空飛ぶ本は、また壁にぶつかって床に落ちた。

 瞬間。影の中から飛び出てきたハデスが、本物の猫が本物のセミにそうするように、じたばたする本を押さえつけた。前足で器用にページを踏み、ちょっと放す素振りを見せてはまた押さえて、と繰り返す。相手を完全にコントロールしているのを楽しんでいるみたいだ。


「どうしたの、ハデス? それは虫じゃないよ」

「ミャーウ」

「だめだよ、放してあげて。本に乱暴するのはよくないよ」


 アーチはハデスの前足の下から、本を抜き取った。ハデスは不服そうにアーチをにらみ上げて、ひょいと影にもぐってしまった。


「まったく、気分屋さんだな。……そういうところはちゃんと猫っぽいのに」


 彼はぼやくように言いながら、本を見た。すごく重たい本は、手の中でぐったりとしている。ページのすみがちょっと持ち上がってはすぐたおれ、本当に死にかけているみたいだった。


「どっか破けちゃった? 司書さんに言ったほうがいいかな……」


 ハデスが傷をつけたのかもしれない。そう思って、アーチはぱらぱらとページをめくった。さし絵もなにもない。手書きっぽいくせの強い字で書かれた古い英語と、比ゆと思われる言葉が多用されているせいで、内容はよくわからなかった。『――月の数と同じ時を持ち、仔犬の尻尾で出来た者を月の数だけ集め――』『――一人は理の外より理を視る者――』『――長き尾の濁った葡萄酒を含ませ、影無き舞台に座し、星を破砕した影の剣にて――』『――さすれば汝は真円の中央にして深淵の澱みの最中に眠る獅子との邂逅を――』うんぬん。

 アーチは肩をすくめて、ぱたんと本を閉じた。


「読まれないわけだよ」


 これは司書さんに任せたほうがよさそうだ。そう判断して、アーチはきびすを返した。

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