15 優秀なお目付け役
クリスマスをアーチは学校で過ごすことに決めた。読みたい本がたくさんあるし、フィルも残るそうだし、誘拐された女の子のこともある。それに、ライナスが言った通り、単独行動が解禁されたら――実を言うとそれが一番の楽しみだった。ロジャーとライナスは家に帰るらしいから、いよいよ止める者はいない。そうしたら、この謎だらけの校内を探検しつくすのだ!
と、ひそかに目論んでいたのを、バロウッズ先生はすっかり見通していたらしい。
ホリデーに入る前、最後の魔法の授業だ。いくつか新しい――『開錠』『施錠』それに『収納』の――魔法を教えた後、全員が杖先に灯りを点け、校歌を完璧に歌えるようになったか確認してから、先生は言った。
「すでに聞いているだろうけれど、この学校は、人間界・魔界・
普段使っている教室は人間界側にあるんだけどね、と先生はほほ笑んだ。
「さて、君たちが今歌った校歌は、迷い避けの呪文も兼ねている。その歌を歌えば、どんなところにいようと必ず、人間界に戻ってこれる。万一、魔界側や狭間に落ちてしまった時は、すぐに校歌を歌うこと。ただし、対応する人間界側に問答無用で放り出されることになるから、気を付けるように」
それがつまりどういうことか、バロウッズ先生はていねいに教えてくれた。たとえば魔界側の廊下にいたとして、そこと重なっている人間界側が空の上だった場合、校歌を歌って戻ってくることは、すなわち、空の上から自由落下することを意味している。
「それでも、魔界側や狭間にとどまるよりは安全、ということだし、そもそも校歌のお世話になるような事態は避けるように、ということでもある。わかったかい、ウルフ?」
「へあっ?」
突然名指しされたアーチがすっとんきょうな声を上げると、周りはくすくすと忍び笑いをもらした。
アーチはほおを軽く染めながらうなずいた。
「あ、うん。はい。大丈夫」
「君の“大丈夫”ほど不確かなものを僕は他に知らないね」
「ロンドンの天気予報より?」
「うーん、いい勝負だ。どっちが勝ったか、今度教えてくれ」
そう言いながら、バロウッズ先生はアーチとロジャーをその場に残して、あとを自室へ帰らせた。
裏庭ががらんとしてから、先生は改まって切り出した。
「さて、ウルフ。君には確かに、単独行動が許可された」
アーチは、嫌な感じだ、と直感した。自然、目がとがる。
「僕だけ禁止、とかやめてよ先生。そんなの不平等だ」
「もちろんだとも。話を最後まで聞きなさい」
いさめられて口を閉じる。
「生徒には平等に権利を与えなくてはならない。それを奪うような真似はしないよ。けれど、ウルフ、君はその権利を最大限に活用して、あちこち見て回るつもりだろう?」
アーチは黙り込んで答えなかった。どんな答えも嘘になってしまうとわかっていたからだ。
「それ自体は別に悪いことではない。けれど、ここで覚えておいてほしいのは、校則の第一条――知っているよね」
「“自他を問わず、生命を危険にさらす行為を固く禁じる”」
「その通り。校内の探索はそれに抵触する可能性がある。よって、君は確かに校内を自由に動き回ることができるけれど、自分の生命を危険にさらしてはいけない、ということになる。裏を返せば、そこが安全ならば自由に行ってよい、ということなんだよね」
と、先生は笑ったまま眉根を寄せる。
「ところが、これが難問だ。どこが危険で、どこが安全か、この学校内においてその判断はたいへん難しい。なにせ、一歩踏み出しただけで安全が危険に早変わりするような世界だからね。そこで、だ」
彼は杖の先で地面をたたいた。正確には、地面に映った自分の影を。
金色の光がふわりと散らばり、次の瞬間、そこから小さな黒いかたまりがぴょんと飛び出てきて、アーチの顔に飛び付いた。
「わっ!」
それはもふもふしていた。「ナーオ」と少し生意気そうな鳴き声が耳たぶをかすめる。それはしばらくアーチの頭と肩の上を行ったり来たりしていたが、やがて右肩に前足を、左肩に後ろ足を置くと、器用にのびをしてから落ち着いた。やけに長いしっぽが目の前に垂れてくる。
つややかな漆黒の猫。
「君の護衛を務めてくれる子だよ。普段は君の影の中にひそんでいるけれど、危険を感じたら出てきて教えてくれる。彼女が警告をしたら、すぐに引き返すように。戻らなかった場合は、強制的に連れ戻す」
「どうやって?」
バロウッズ先生がにっこりすると、アーチの肩が急に重たくなった。ハッとして見ると、肩に乗っていた黒猫が、ずんずんと大きくなっていた。
「う、わ……っ!」
猫は真っ赤な舌を脅すようにちらりとさせた。そのとき、口のはしから青白い炎のような光がまたたいた。金色の瞳はアーチの顔と同じくらいの大きさになっていて、それがぎょろりとアーチをのぞきこむ。その姿は地獄の番犬とも互角に張り合えるだろうと確信させる威厳に満ちていた。
アーチは息をのみ、
「すごい、君って大きくなれるんだ!」
歓声を上げて猫のあごの下に飛び付いた。猫はびっくりしたように一鳴き。
「あ、ごめん、先に聞くべきだった。なでていい?」
と尋ねながら、アーチは返事なんか待っていなかった。もふもふとした毛に顔をうずめて、両手をめいっぱいのばして、首筋をなでる。
黒猫の毛はやわらかくて、今までに出会ったどんな猫とも違うにおいがした。たいていの猫は家のにおいか、お日様のにおいか、草花のにおいをさせているのに。この子からは、もっと冷たい、すきとおった、氷水のようなにおいがした。
(月の光ににおいがあったら、こんな感じなのかな……)
バロウッズ先生が、ふふ、と笑うのが聞こえた。
「仲良く過ごしてくれそうでなによりだ。ハデス、彼をよろしくね」
先生がそういうと、黒猫はぽんっと小さくなって、アーチの肩の上に乗り直した。
アーチは突然腕の中から消えられてちょっと転びそうになった。肩の上の猫に気をつかって、頭を少し前に出しながら、上目づかいに先生を見る。
「この子の名前、ハデスっていうの?」
「そう」
「冥府の王様の名前だ」
「よく知ってるね」
「本で読んだ」
それからアーチはハデスの背をなでた。
「よかったね、綺麗な黒髪のレディ。かっこいい名前でさ。似合ってるよ」
ハデスはアーチの肩の上でつんと鼻先を上げた。そんなことわかってるわ、当然でしょ、と言わんばかりの態度だった。
「さ、君への話はおしまいだ、ウルフ。先に寮へ戻りなさい」
「はい、先生。おやすみなさい」
「おやすみ、良い夢を」
残されたロジャーが先生とどんな話をするのか、アーチは後ろ髪を引かれる思いになったけれど、じっと見送られていたからあきらめた。
裏庭を出て、校舎内に入る。屋根の下でも、凍えるような寒さは変わらなかった。廊下の灯りは全部ろうそくで、どこからともなく入ってきた風にちらちらと揺れていた。息が白くこおってふわりとただよう。アーチはハデスが肩にいることを嬉しく思った。猫は好きだし、寒さも和らぐ。
ふと通りがかった脇道を見ると、オレンジ色の光がゆらゆらしていた。
「ウィル・オ・ザ・ウィスプだ」
ハデスが濡れた鼻をアーチの耳に押し付けて、短く鳴いた。
「わかってるよ、もう知ってる」
図書館でさんざん調べたあとである。アーチは歌うように朗々と、高い天井へ声を響かせた。
「ウィル・オ・ザ・ウィスプとは、さびしい道や荒野、沼地などに現れて、通りかかった人を誘導し、ほとんどの場合道に迷わせる存在である。妖精でもあり、精霊でもあり、悪魔でもあり、幽霊でもある。地獄にも天国にも行けなかった男の魂がさまよっているのだ、とも言われている。地方によっていろんな呼び方がある。見かけてもけっしてついていってはいけない。特に子どもは注意が必要で、ついていったら知らないうちに魂を抜かれて、一緒にさまようことになる――でしょ?」
「ミャーオ」
「正解、って? ふふーん、当然だよ」
アーチは得意げに猫の背をなでた。
「当然さ。だって僕は、一番すごい魔法使いになるんだから。何でも知ってて、何でもできて――当然、演技もできて――で、みんなから頼りにされる、特別すごい魔法使いに」
そこまでいって初めて、父さんに誇れるような気がするのだ。“
ふいに、アーチは顔をくもらせた。
「……何年かかるかな」
その間、ずっと父さんとけんかしたままだったらどうしよう。その間に何回、仕事に行く父さんを無視すればいいんだろう。何日、話すときに警戒し続けなければいけないのだろう。
急に寒さが強くなった気がした。ぞくりと震えた腕をさすって、少しだけ早足になる。意識して明るい声を出した。
「ハデスは寒いの平気?」
「ンナーウ」
「僕は嫌いなんだ。寒いのは大嫌い」
さびしくなっちゃうからね、とアーチは口には出さなかった。けれどハデスはしっかりと聞き取ったかのように、少年のほおに頭をすり寄せた。
アーチはこの賢くて器用な猫の頭をなでてやった。そしてはたと思い至る。
「そうだ、君のことも調べないと」
先生の影から出てきた不思議な猫! 足場の悪さもものともしないし、大きくなることもできる、特別な猫! いったい何を食べるのだろう? どういう生物なんだろう? 普通の猫のようにしか見えないけれど、どこがどう違うのだろう? もしかして“使い魔”って呼ばれるやつだろうか?
次から次にわき出てきた疑問が、アーチの心にわくわくをあふれさせて、もやもやしたものをすみに追いやってしまった。すると彼はがぜん元気になって、ぱっと走り出した。
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