12 魔法使い第一主義者
カレッジの生徒と教職員、ざっくり二百三十人くらいのすべての食事をまかなう厨房は、びっくりするほど広くて、掃除も大変だった。けれど慣れてしまえば、つるつるの床の上をモップで滑るように走っていったり、くすんだ銀食器をぴかぴかになるまで磨いたりするのは、案外楽しいものでもあった。
「ねぇ、スマイス」
アーチは銀食器を磨くかたわら、じゃがいもの皮を延々とむき続けているラルフ・スマイスに話しかけた。彼は厨房を取り仕切っている青年である。どうやら魔法使いではないらしいのだが、かといって一般人でもないらしい。くわしいことは教えてもらえなかったからわからない。けれど、ミルクチョコレートのような髪と瞳は人なつっこい感じで、実際気さくな青年だったから、アーチはすぐになついていた。
スマイスは手元を見たまま、振り返りもしなかったが、アーチは気にせず続けた。
「この五日間、スマイスにしか会ってないよ。他の人は?」
「それはお前――」
サリサリサリ、とじゃがいもの皮が一続きにむかれていく。その手際だって魔法みたいに素晴らしいもので、アーチはじっと見つめてしまうのだが、金色の光が見えたことは一度もなかった。あれは彼自身の腕前であるらしい。
「ここは魔法学校なんだぜ? 秘密だよ」
「えー」
アーチはちょっとむくれてみせた。
「スマイスは秘密ばっかりだ。なんにも教えてくれないじゃん」
「教えてくれるやつばっかってわけじゃないのさ。それにな」
むき終えたひとつを山に積み、もう一方の山からひとつ取って、彼は言った。
「わくわくすることばかりでもない。一歩影のほうに目をやれば、その先は怪物と呪いだらけだ。飲み込まれるなよ、ウルフ。怪物はお前のすぐ横で、口を開けて待ってるかもしれない」
「僕に脅しは効かないよ」
「知ってるよ。だから脅しじゃない。忠告だ」
そう言ってから、ふとスマイスはナイフを止めた。
「遅いな、クレイのやつ。そろそろ戻ってくると思ってたんだが」
「僕、見てくるよ」
アーチはさっと椅子から飛び降りた。ロジャーは銀食器の磨き方を心得ているようで、彼の手にかかればあっという間に終わるのだ。いくら楽しく思えていても、早く終わるならそれに越したことはない。
スマイスが「ウィル・オ・ザ・ウィスプに気を付けろよ」と言うのを背中越しに聞いて、アーチは裏口を開けた。
夜のとばりがすぐそこまで迫ってきていた。
裏口の目の前には学校を囲む森があって、その森と校舎の間は土の道がずっと続いている。北側に真っ直ぐ行けば菜園に着く。ロジャーはそこへ生ごみを捨てに行ったはずだった。一本道だから、行き違うことはない。
アーチは校舎の壁を触りながら、スキップするような足取りで菜園に向かった。
と、そのとき不意に、どこからともなく誰かの声が聞こえた気がした。立ち止まって耳をすませると、ぼそぼそとした低いささやき声が二つ、確かに聞こえてくる。けれど近くに窓はない。
しばらく考えて、アーチはようやく気が付いた。壁だ。どういうわけか、今手をついているこの壁の向こうから聞こえてくるのだ。
そっと耳をそばだてる。
「――~~はほとんど整った。誰にも気取られていないだろうね」
「当然だ。魔法庁の無能どもはもちろん、この学校の三流たちにも気付かれてはいない」
「あと一人。あと一人ですべてが始まり、すべてが終わる」
「ああ。だがその一人は」
「わかっているよ。魔法使いでなくてはならない」
「十二歳のな」
「わかっているとも。あまり繰り返してくれるな。腹が立つ」
腹を立てているらしいほうが貧乏ゆすりをしているのか、カタカタと何かが鳴っていた。
アーチは固唾を飲んで聞き入っていた。落ち着いているほうの声はさっぱりだが、いら立っているほうの声には、なんだか聞き覚えがあるような気がした。けれど、誰だったか――。内容はほとんどわからない。が、なにかよくないことであるとは察しがついた。心臓がばくばくと脈打つ。
落ち着いているほうがため息をついた。彼の話し方には、アメリカ風の発音や言葉選びが少しだけ混ざっていた。
「私に腹を立てる分には構わないが、失敗だけはしてくれるなよ。さすがに、ガキどもに関してはガードが堅いからな」
「だが、そろそろだろう? ぎりぎり間に合うはずだ」
「なにがだ」
「校歌」
「ああ、そうだ。そうだったな」
「一人歩きが解禁されたら、図に乗りそうな子どもが――」
「アーチ」
急に肩をたたかれたから、アーチは「うわあっ!」と飛び上がった。慌てふためいて振り返ると、暗闇の中でロジャーがとまどった声を上げた。
「そ、そんなに驚いた?」
「ロ……」
彼の名前を呼びそうになって、アーチはとっさに口をつぐんだ。壁の向こうの話し声はぴたりと止んでいる。二人は立ち去ったのかもしれない。けれどもし、アーチがそうしていたように、向こうが聞き耳を立てていたとしたら――
(名前を知られちゃ、いけないような気がする……なんとなく、だけど)
ロジャーが小首をかしげる。アーチがなにもないところでじっと立ち止まっていたのを不審に思ったらしい。
「そんなところで何をしてたんだい?」
「別に、何でもないよ! それより!」
アーチは彼のそでを引っ張った。
「戻ってくるのが遅いから、心配してたんだ。早く戻ろう! まだ銀食器がたくさん残ってるんだ」
「ああ、ごめんね、待たせてしまって。ところでアーチ、僕は君に“一人で行動しちゃいけない”って何度言えばいいんだい?」
「平気だよ、壁伝いに来たから。壁から手が離れたらすぐに戻る、って決めてたんだ」
「なるほど……?」
ロジャーは自信満々なアーチの口調にだまされかけてうなずきかけた。が、すんでのところで気が付いた。
「いや、対策するんじゃなくて、そもそも一人にならないようにしてほしいんだけど」
アーチは笑ってごまかした。
厨房まで戻ると、スマイスは空のボウルを洗っていた。あれだけ山積みにされていたじゃがいもをすべてむき終えたらしい。二人が帰ってきたことに気付いて振り返った彼は、ミルクチョコの瞳を見開いた。
「おいおい、どうしたんだクレイ。けんかか?」
「ああ……はは」
ロジャーは乾いた笑い声を上げた。明かりの下で彼を見て、アーチも驚いた。ロジャーの左のほおは赤くはれ上がっていて、くちびるのはしに血の跡が付いている。
「どうしたのロジャー?!」
「いや、ちょっとね。本当、大したことじゃないんだ」
「銀食器に血を付けるのはご法度だ。こっち来い」
スマイスに呼ばれ、二人は厨房の隅の小さな扉をくぐった。
中は彼の休憩室であるらしい。こぢんまりとした部屋だったけれど、丸いテーブルと背の高い椅子がいくつか、その向こうに簡単なキッチンとティーセットが置かれていた。
「
スマイスがロジャーの前に緑色の液体が入った小びんを置きながら、なにげない感じで聞いた。ロジャーはこくりとうなずいた。
「ウィザーズファーストって?」
アーチの問いに答えたのは、やっぱりロジャーだった。
「魔法使いのことをなによりも優先して考える人たちのことさ。彼らは魔法使いを“選ばれた人間である”っていうふうに考えて、一般人を見下す傾向が強くてね」
「でも、ロジャーも魔法使いでしょ?」
「君は本当に頭の回転が速いね」
彼はほほ笑んで、小びんのふたを開けた。
「それ、何?」
「治癒薬」
ロジャーは小びんを空にして「最高の味だよ」と吐きそうな素振りを見せた。それから、
「生粋の
と続けた。
アーチは列車の中で会った腐れレモン頭の少年のことを思い出した。さすがにもう名前も知っている。ギルバート・ベンフィールド。医務室のベンフィールド先生の孫だということも聞いた。そういうことなら、彼はきっと
「僕の場合は、もうちょっと違って……」
「違うんだ?」
「うん。母さんがイタリアの魔女なんだ。イングランドで一般人の父さんと結婚して、それで僕が生まれたから……純粋な“英国の魔法使い”じゃないんだ。
「そんな!」
アーチはムッとしてくちびるをとがらせた。
「そんなのおかしいよ。ロジャーはちゃんと魔法使いなのに。しかもそれだけのことで、わざわざけんかしに来るなんて! なにも悪いことしてないのにさ、それで殴られるなんて変だよ!」
ロジャーは「ありがとう、そう言ってくれて」と、いかにも大人しく見えるようにほほ笑んだ。そうしておきながら、
「でも大丈夫さ、僕は負けてないから。向こうはこの何倍も怪我をして、無様に逃げていったよ。あのしっぽの巻き方、君にも見せたかったな」
と、急に物騒な感じでにやりと笑った。
アーチはその急激な変化に一瞬だけぽかんとしたが、すぐに笑い返した。
「やるね、ロジャー。最高だ」
「どうも」
この涼しげな顔の裏に荒々しさを隠し持っていた
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