10 授業開始!

 三日間行方不明になり、一日寝て過ごした分を、アーチは二日で取り返した。むしろすさまじい勢いでみんなを追い越していったくらいである。すでに配布されていた教科書はどれを読んでも最高に面白かったし、見るものすべてが“はじめまして”で毎日がきらきら輝いていた。

 数学では魔法陣の面積や効果範囲を求めたし、詩文は聞いたこともない不思議な響きのものばかりだった。星を学ぶのは占いのためだったし、植物を学ぶのは魔法薬のため。魔法使いの視点で書かれた歴史は、アーチに無数の新発見を与えてくれた。

 魔法使いのあり方と魔法の使い方について定めた法律(いわゆる“魔法法”)だって面白くてたまらなかった。第一条・魔法使いたるもの神秘を尊び秘密を遵守し不可思議を普通とせよ――というお堅い条文から始まったくせに、その途中途中には――第二百四十九条・魔法使いはナナカマドの下でジンジャードリズルケーキとカモミールティーを同時に味わってはいけない――なんていう意味のわからない決まりがはさまっているのである。そういう“変なの”を見つけては上級生や先生に質問して、彼らを困らせるのがアーチの日課だった。

 けれど、二ヶ月もしたところでアーチはついにがまんならなくなった。


「なんで魔法の授業がないんだろう」


 アーチはふてくされて、談話室のテーブルにほっぺたをつけた。

 上級生がテレビのチャンネルをひっきりなしに替えて、おかしな文章を作り上げている。『今夜のクイズショー』『で誘拐事件が発生して』『無人島で一ヶ月過ごせる』『犯人はあなただ、マダム』『は今年に入って十一人目の』『結婚しましょう!』……。


「あせることはないよ、アーチ」


 補助生サポーターのロジャー・クレイが本を閉じて、どこからともなくスコーンを取り出した。ものすごく粉っぽくて、飲み物なしには食べられないやつだ。


「食べる?」

「いい」

「そう」


 すげなく断ったアーチにも気を悪くした様子は見せず、ロジャーはスコーンをほおばった。その手がひらりとひるがえると、食べかけのスコーンが消えて、代わりにジンジャーエールのびんが握られているのである。

 それらは間違いなく魔法だった。金色の光がきらりと舞うのをアーチは見逃さなかったし、その光が魔法の使われた証であることにはとっくに気付いている。


「飲む?」

「いらない!」


 アーチはぷいと反対を向いた。自分と三つしか違わない人が自在に魔法を使っているのが、うらやましくて悔しくてたまらなかった。

 アンブローズ・カレッジでは、一年生の間は四年生に学校生活や勉強の手伝いをしてもらう決まりになっている。この学校では教室の移動すら一年生には難しい。扉や階段や廊下が減ったり増えたりするのは平常運転だし、通れると入り口のはほとんど見分けがつかない。それに加えて、勉強だって大変だ。普通の教養科目がしっかりと用意されたうえに、魔法に関連する勉強があるのだから。夜にある一時間の自習時間だけでなく、時間があるたび教えてもらわなければついていけない新入生がほとんどである。夕飯前のほんの数十分空いている今だって、フィルは補助生のライナスと勉強中だ。

 その点、アーチはもはやなんの補助も必要としていなかった。勉強はどれもよくわかるし、教室の移動にもすっかり慣れた。どこへ行くにもロジャーに「一緒に来て」とお願いしなくてはならないのが、面倒で窮屈きゅうくつなくらいだ。

 一人で行動してはいけない、という言いつけさえなければ! 入学したその日に危うく死にかけたことなど、のど元を過ぎた熱さである。消える廊下がどこに行くのか見てみたかったし、使ってはいけない階段がどこにつながっているのか知りたかった。それらの衝動をがまんするので精一杯なのに、そのうえこれ見よがしに魔法を使われては、もう腹が立つ以外のなんでもない。

 ロジャーが軽く笑うのが聞こえた。


「ハロウィンも過ぎたんだから、もうそろそろ始まるさ。だいたい、他にやることがなくってヒマしてるのは君くらいのものだし」


 ハロウィンパーティが思っていたよりずっと地味だったことも、アーチをより不機嫌にさせていた。夜明けまで眠らずにおしゃべりしていただけ。なんなら普通オーディナリーのハロウィンパーティのほうが派手で面白かったくらいだ。

 この二ヶ月で一番面白かったのは、ついこの間の誕生日くらいだろう。部屋にある小さなポストから、誕生日プレゼントが次々に飛び出てきたのには驚いた。寮のみんなも祝ってくれて、厨房からくすねてきたケーキとクリームを好き勝手に盛り付けて、談話室で食べたのも最高に美味しかった。でもそれだけ。


「ま、なんにせよそうあせることじゃない。そのうち嫌でも魔法でいっぱいいっぱいになるさ」

「そのうちっていつ?」

「僕の予想では、二、三日中に。あ、来た。行くぞ」


 フィルとライナスが駆け降りてきたところだった。アーチはふてくされた顔をそのままに、背の高い椅子から飛び降りた。


 ロジャーには予言の才能があるのかもしれない、なんてアーチは思った。ちょうど三日後に、バロウッズ先生から突然「魔法の授業を始めるよ」と連絡があったからだ。それで、アーチたち一年生とその補助生たちは、自習時間に裏庭へ集まった。

 月の光に満たされた裏庭は、外灯なんて一本もないのに充分歩けるほど明るかった。


「お、ランタン持ちのジェニーだ」


 ふいにライナスがつぶやく。そちらを見ると、オレンジ色の光がふらふらと校内へ入っていくところだった。


「裏庭をふらつくなんてめずらしいな」

「ランタン持ちのジェニーって?」

「ウィル・オ・ザ・ウィスプの別名。俺の地元じゃそう呼ぶんだ」

「場所で名前が違うの?」

「そうそう、やつらにはいろんな呼び方があるのさ」

「他にはなんて呼ぶの?」

「そこは調べてのお楽しみだな」


 確かに、とアーチはうなずいた。図書館に行く楽しみがまたひとつ増えた。

 庭は黒っぽい葉っぱの生け垣に囲われていて、地面の半分ほどはレンガで舗装されている。レンガがなくなった奥のほうに、枯れた噴水があった。もとは真っ白だったのだろうと推測できる石造りの噴水は、見たことのない形のツタに絡め取られてむっつりと黙り込んでいる。

 それに近寄ろうとしたアーチは、ロジャーにぐいと腕を引かれた。


「その噴水に近寄っちゃ駄目だ。危険な生物が住みついてる。引きずり込まれるぞ」

「危険な生物って?」

「引きずり込まれたことないから知らない」

「なぁんだ」

「セイレーンに近しい、けれどまた別の生き物だよ」


 いつの間に現れたのか、バロウッズ先生がアーチのすぐ後ろに立っていた。相変わらずほほ笑みをはり付けたようにしている。


「枯れているように見えるのは見えるだけ・・・・・だ。あの近くでうっかり鼻歌なんか歌わないようにね。あっという間に彼ら・・がやってきて、沈められるよ」

「歌わなきゃ平気ってこと?」


 アーチはそっくり返るように先生を見上げた。先生はすらりと背が高いから、チビのアーチが顔を見るにはそうするしかないのである。先生が小首をかしげると、銀の髪がしゃらりとかすかな音を立てた。月光に照らされたその髪は、夜を奏でるハープの弦のようだった。


「歌ったほうがより危険、というだけで、近付くべきでないことに変わりはない」

「ふぅん」


 不満げなあいづちを打ったアーチに、バロウッズ先生は笑いかけた。


「気になるのなら、見てきてごらん」

「いいの?!」

「危険を承知したなら」


 許可が下りた! アーチは、自分を案じるロジャーの言葉で先生の心が変わってしまう前に、と急いで噴水に駆け寄った。

 手を置いた瞬間、その噴水がほとんどちかけていることに気が付いた。手のひらに砂のざらりとした感触があったからである。風化が進んでいるのだ。

 ツタは枯れて茶色くなったものも、まだ青々としているものもあった。それらが複雑に絡み合いながら、噴水の内側まで、酔っ払いの蜘蛛の巣のようにでたらめに張り巡らされている。


(なんだ、なんにもないじゃん)


 ちょっとがっかりしたアーチの目の前で、ふいに、ぼこぼこぼこっ、と泡が立った。


「わあ」


 ひとつ瞬きをしただけの間に、枯れていたはずの噴水に水が満ちていた。透き通ったアイスブルー。月の光を反射してきらめく水面。風化していた石はあでやかに濡れ、ツタの紋様が水の影と重なり、豪華なペルシャじゅうたんのようになった。


「すごい」


 見ほれたアーチがふと前かがみになった。

 瞬間。

 映りこんでいた月がゆらりと揺れてかき消えた。それを見た時に、ふとアーチは目を瞬かせた。水面に自分の顔が反射していない!

 だが、その不思議に首をひねっているひまはなかった。


「っ?!」


 水面を突き破って一斉に出てきた黒い手が、一本、五本、十本、たくさん! それらが、反射的にのけぞったアーチのほおを包み、腕をつかみ、髪を引っ張り、ツタのように全身へと絡みついた。そしてそのまま水の中へ。それはあまりに一瞬の出来事だったから、アーチは叫び声をあげることすらできなかった。ただどぼんと水に落ちた音だけを聞いて、全身が一気に冷たくなって――


「ぷはっ!」


 急に逆向きの力がかかって、アーチは水の外へ引きずり出された。せき込みながら目を開けると、バロウッズ先生に首根っこをつかまれていた。アーチは猫の子になったような気分で、先生のほほ笑みを見返した。


「近付いてはいけない場所には、そう言われるだけの理由がある。わかったかい?」

「けほっ……身に染みて」

「うん。ならばよろしい」


 バロウッズ先生はみんなのところに戻ってからアーチを下ろすと、「乾くdry」と一言つぶやいて杖を揺らした。金色の光がふわりと散らばって、アーチの周りにまとわりついた。夜の暗がりの中で、その光はいっそうきらめいて見えた。それが消えると、服も髪もすっかり乾いていた。


「すっごい、便利だ!」


 一瞬で乾いたことに驚きながら、そでをめくる。さっき謎の手につかまれたところが痛いような気がしたのだ。


「うっわ、あざになってる。最悪」


 それはまるで縄文土器のようだった。暗い紫色の筋が何本もくっきりと、アーチの細腕に残されている。アーチは痛みが増したような気がして、目を背けた。


「それが嫌なら見に行かなければいいのに」

「痛そう……」


 ロジャーは呆れたように、フィルは心配そうに眉をひそめた。ライナスは面白がるように目を細めて、アーチの背中をたたいた。

 カンカンッ、と硬い音が響いた。バロウッズ先生が杖でレンガ道を打ったのだ。


「さて、それじゃあ、始めようか」


 月光を背負い、魔法使いはほほ笑む。


「魔法の授業だ」

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