9 これが魔法の世界

 ずっと見続けていた悪夢がようやく終わったような感じだった。途方もなく長い旅から解放された気分で、アーチはゆっくりとまぶたを開けた。

 ごく普通の天井がある。電気の白い光が見えた。

 周囲はカーテンで囲まれている。アーチは小学校の保健室を思い出した。においが似ているのだ。かなりお世話になったから、よく覚えている。消毒液と、けだるい午後のにおい。ベッドはあそこよりもずっと上等で、病院っぽい感じだ。


(僕、蛇に食べられたんじゃないっけ……)


 アーチはぼんやりと天井を眺めながら考えた。最後の記憶は確かに、蛇の口の中を見たところで途切れている。


(食べられた、って感じは覚えてないけど)


 覚えていないのが良かったことなのか、残念なことなのか、アーチはとっさに判別できなかった。

 だんだんと頭がさえてきた。体がやけに重たい。重りでもついているみたいだ。学校のものだろうか、だぼだぼの寝間着を着させられていて、手は完全にそで口の中へ隠れてしまっていた。そでをめくって手を見ると、ついていたはずの傷は綺麗にふさがって、ほとんど見えなくなっていた。

 無理やり起き上がって、ベッドの脇に足を下ろす。下りようとしたけれど靴がなかった。仕方なく、座ったままカーテンだけを開ける。

 と、同じようなベッドがとなりにずらっと並んでいた。ざっと十はあるだろうか。本当に病院みたいだ。


「あら、あらあらあら、お目覚めね」


 壁側の机に向かっていた初老の女性が機敏に立ち上がった。たっぷりとしたふくよかな女性で、レモン色に近い金髪を首の後ろで丸くまとめている。


「はいまず体温を計って――よろしい、正常ね。傷の具合は――よろしい、良好ね。体調はいかが? 頭痛腹痛吐き気、ありまして?」

「ううん、ないよ」

「よろしい、よろしい」


 では先生を呼びましょう、とその人は杖を振った。アーチは目を真ん丸にした。杖がいったいどこから出てきたのか、まったくわからなかったからだ。そのうえ、杖が振られた瞬間、ポンッと金色の小鳥が飛び出てきたから、なおさらびっくりした。小鳥はコマドリのようにせわしなく羽ばたきながら、壁をすり抜けて出ていってしまった。


「なに今の、魔法?!」

「ええ、ええ、そうですとも。ここは魔法学校ですもの」


 その言葉にアーチは確信した。


「僕、戻ってこれたんだ」


 女性はやわらかくほほ笑んだ。レモン色の瞳がぜい肉に埋まって、たくさんのしわの中の二本になる。


「ええ、ええ、そうですとも。あなたは戻ってきました。かろうじて、奇跡的に、運良く、死んでしまう寸前で、蛇の体内から、ね」

「え」

「くわしいことは――ああ、ああ、いらっしゃいましたわ。先生が教えてくださるでしょう」


 と、女性はくるりときびすを返して、大きな両開きのドアの片方を開けた。

 駆け足で入ってきたのはバロウッズ先生だ。


「や、ベンフィールド先生。連絡ありがとう」

「いえいえ、お安い御用ですわ」


 バロウッズ先生の肩から金色の小鳥が飛んで、女性――どうやらベンフィールド先生というらしい――の手のひらに乗ったと思ったら、瞬きの間に消えていた。

 アーチはその魔法に見ほれた。


「こりていないようだね、ウルフ」


 バロウッズ先生がとなりのベッドに座って、アーチをじっと見ていた。表情は寮の談話室で見たのと同じく、優しげなほほ笑みを浮かべていたが、声の響きはまるで違った。

 怒られる、と察したアーチは慌てて背筋を伸ばした。


「どうして決まりを破った?」

「女の子が一人でいたんだ。だから、駄目だと思って、言いに行ったの」

「そのとき、どうして一人で行ったんだい?」


 確かに。言われて初めて、誰かと一緒に行く、という選択肢がすっかり抜け落ちていたことに気が付いたアーチは、答えられなかった。


「君に守れと言った決まりは、“一人で行動してはいけない”だ。周りの誰かに声をかけて、二人で行く、ということができたはずだよね。周りにはたくさん人がいたんだから。そうだろう?」

「……うん」

「そうしなかったのはなぜ?」

「……」

「“僕は特別・・・・だから大丈夫”とでも思ってた?」


 アーチのほおがかぁっと紅潮した。無意識だったけれど、それは間違いなく図星だった。

 バロウッズ先生が笑みを深める。


「子どもはみんな特別さ。君だけが特別なわけじゃない。君が今回、生きて戻ってこられたのは、ただ運が良かっただけだ。飛行機事故に遭う確率よりもさらに低い、本当に奇跡のようなことだったんだよ。その幸運が常に君の手の中にあるとは限らない」

「……」

「ほとんどの場合は死ぬ」


 簡潔な断言が、これ以上ないほど重たく響いた。


「君がどんな子か、普段どう過ごしていたか、行いの善し悪しも成績もなにも関係なく、死ぬときは死ぬ。事故に遭うのと同じだ。そして君は、二度と、友人にも家族にも会えなくなる」

「……」

「今回そうなっていてもまったく不思議はなかったんだよ。わかるね?」


 アーチはゆっくりとうなずいた。心の底がひんやりとしていた。

 バロウッズ先生は真剣な口調で――笑顔はそのままだったけれど――続けた。


「この学校において、“決まりを守る”ということは“命を守る”ということだ。そして、命を大切にしない子に、教えることはなにもない。つまり、君は退学だ。すぐ家に帰ってもらう」

「ええっ?!」

「ということになっても、文句は言えないよ」


 脅しだった、ということをうまく飲み込めなくて、飛び跳ねた心臓がまだばくばく言っていた。「とりあえず、そんなことにはならないけれどね」と先生が言ってくれて、ようやく落ち着きを取り戻す。


「寮の子たちもみんな心配していたよ。ヘンウッドが特に」

「フィルが?」

「そうさ。せっかくのルームメイトを、さっそく失ったらショックだろう?」


 アーチはフィルの顔を思い出して、切ない気持ちになった。はじめて友達ができそうだと思っていたから、なおさら。


「それに、君の家族だってそうだ。新しい学校へ送り出した直後に君がいなくなってしまったら、すごく悲しんで、後悔しただろう。――どうして魔法学校なんかにやってしまったのか、って」


 その言葉がアーチには致命的に痛かった。胸を思いきり殴られたような衝撃があって、目がうるむのを感じた。

 笑って送り出してくれた母さんと姉さん。

 かたくなに反対した父さん。


『魔法なんて、まともじゃないものに関わって……損をする必要は、まったく、ない』


 父さんの言う通りになるところだった。三人に二度と会えなくなるところだったのだ。そうなったらどんなに悲しいだろう。抱きしめて見送ってくれた母さんの温もりとか、嫌いだけど大好きな姉さんの憎まれ口とか、ハグをして見送ってあげなかった父さんのこととか、そういうものが次々と頭に浮かんできた。

 そういう、アーチの大好きで温かいものたちが、すべて蛇に飲み込まれて消えるのが脳裏に見えた。とたんに、胸がぎゅっと苦しくなって、涙が一粒ぽろりとこぼれた。アーチは慌てて手のひらでこすった。


「決まりは守らなきゃいけない。命を守るために。わかったね」

「はい……」


 返事をしたのが合図だったかのように、涙がこぼれ出して止まらなくなった。アーチは次々にあふれようとする涙を全部手のひらで押し戻して、体が震えるのを必死におさえようとした。嗚咽おえつだってもちろん、飲み込んだ。けれど飲み込み切れなかった分が時々しゃっくりのように口から飛び出して、それが情けなくてまた涙があふれた。

 アーチの涙が引っ込むまで、バロウッズ先生はなにも言わずに待っていた。そしてアーチが鼻をすんすん鳴らしながら、泣きはらした目をようやく上げると、まるで何事もなかったかのように言った。


「さて、それじゃあ、寮に戻ろう。立てるかい?」

「立てるけど、靴がない」

「ああ、そうだった。君の服一式、蛇の胃の中で溶かされてしまったようでね」

「じゃ、僕、本当に蛇に食べられてたの?」

「そうだよ。あの蛇が気まぐれを起こして、君をここまで連れてきてから吐き出してくれたから、かろうじて助かったんだ」

「服が全部溶けちゃったのに、僕はどうして溶けてないの?」

「さて」


 バロウッズ先生はにごすようににこりとして、校長先生と同じような大きな杖で(これもまたアーチの目を盗んでいつの間にか彼の手の中にあった!)床をコンッとたたいた。

 瞬間、金色の光の中から靴が出てきた。


「わあっ!」

「仮のものだけれど、しばらくはそれでがまんだね。ローブは溶けていないけれど、少し傷んでしまったから、修復してから返すよ」

「うん」


 アーチはいそいそとその靴を履いた。靴はまるでオーダーメイドのように、足にぴったりとはまった。


「これ、踊り出したら止まらなくなったりしない?」

「ふふふ、そういう呪いでも仕込んでおくべきだったかな」

「できるの?!」

「やろうと思えばね。さ、行くよ」


 バロウッズ先生の後にくっ付いてベッドを下りる。

 机に向かっていた女性がゆったりと振り返り、アーチに向かってうなずいた。


「お大事にね、お大事に、ボーイ」

「うん。ええと……」

「わたしはマリーローズ・ベンフィールド。ここ、医務室をあずかっております」

「ベンフィールド先生」

「お礼は何度言ってくださっても構いませんのよ、ええ、ええ」


 アーチは照れくさくて、「ありがとうございました、先生」とぼそぼそと言った。ベンフィールド先生はにっこりと笑って手を振ってくれた。

 医務室を出ると石造りの廊下がずっと続いていた。ところどころに燭台しょくだいとろうそくが置かれていて、橙色の光が揺らめいている。食堂からの廊下のように、細い脇道はなかったけれど、時々やや広めの道と交差することがあって、アーチはそのたびに向こう側をのぞき込んでは、不思議な形の影が横切ったり、謎の生き物のしっぽが揺れていたりするのを興味深く眺めた。


「怖くないのかい?」


 バロウッズ先生が唐突に聞いてきた。


「うん、怖くないよ」

「全然、これっぽっちも?」

「うん」

「そう」


 アーチはこのすらりとした先生の横顔をじっと見つめたが、浮かべっぱなしにされたうすい笑みからはなにも読み取れなかった。


 壁を通り抜けて(新入生はたいていここで手間取るのだけれど、一通りの冒険・・を終えてきたアーチにとってはたやすいことだった)寮に入ったとたん、談話室にいた全員の目がアーチに集まった。


月下寮シェリの諸君、ご覧の通り、行方不明の新人ルーキーが五体満足で戻ってきたよ」


 バロウッズ先生が言った瞬間、ほうぼうから一斉に「わぁっ!」と歓声と拍手が上がった。アーチがびっくりしているすきに、上級生たちが集まってきて「おかえり!」「よく生きてたな!」「やるじゃないか」なんて言いながらアーチの頭や肩をめちゃくちゃになでまわした。誰かがふいに「これぞ月下寮シェリの子、月下の子なり!」と叫ぶと、同じ言葉を何人もが復唱し始めて、またいっそう騒がしさが増した。先生が「こらこら、諸君、あまり甘やかさないように」なんて言うのもそっちのけだ。

 四方からなでられ八方から褒められ、アーチは嬉しいやらくすぐったいやらで身をくねくねとよじらせた。


「アーチ!」


 先輩たちのすき間をぬって駆け寄ってきたフィルが、アーチの手を取った。


「フィル」

「無事でよかったぁ……三日も帰ってこなかったから、僕、もう駄目だと思ってた」

「ごめん、あの、フィル――」


 アーチは謝ろうとしたのを途中でやめて、逃しそうになった言葉を慌てて捕まえた。


「――三日? 待って、三日ってなに?」

「君は三日間行方不明になってたんだよ」

「そんな、嘘だ! だって僕、ほんの一時間かそれぐらいしか……っ!」


 バロウッズ先生がひょいと顔を出して、「これが魔法の世界だ」と言った。周りの全員が神妙な顔つきで何度もうなずく。

 魔法の世界は思っているよりもずっとずっと恐ろしい。

 ようやくそれを実感して、アーチは少し顔を引きつらせた。でもやっぱり、くちびるは自然と笑みの形を作ってしまうのだ。怖いだけじゃない。恐ろしいだけじゃない。なにか別のものがもう一つ、混ざっている――

 アーチは大きく胸をふくらませて、魔法学校の空気を吸い込んだ。

 金色の光が、パチパチッ、と舌の上で弾けたような気がした。

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