幕間 猟師は狼の腹を裂き少女を救ったが、魔法使いは蛇の腹を裂き狼を助ける。
新学年の始まりはいつだってそわそわ、ふわふわしているものだが、今年は少し話が違った。
入ってきたばかりの一年生、アーチボルト・ウルフが、入寮したその日に姿を消したのだ。校内の話題はそれで持ちきり。戻ってくるかどうかで賭けをしていた十人全員に、罰則を与えたほどに。
バロウッズ先生はこめかみを押さえながら、“狭間”を抜けて校内へ戻ってきた。今日も見つからなかった。これで三日目だ。頭も胃もきりきりと痛みを訴えてくる。
(新入生で行方不明、三日目……これは、最悪の事態を覚悟するべきか)
占いでは彼はまだ生きていることになっているが、一口に“生きている”と言っても果たしてどんな状態か。この次元にいるか、正しい時間軸に存在しているか、肉体と魂とがきちんとそろっているか――細かな条件をくっつけていったとき、それらをどれだけクリアできるだろう?
(生きたまま精神だけをむしばむ呪いだってある。仮に帰ってこれたとしても……)
同室の子の泣き顔が思い出された。思わず、ため息がこぼれ落ちる。
今日を過ぎたら、明日はウルフの家へ連絡しなければならない。基本的に、どんな怪我をしようと、呪いにかかろうと、魔法学校は親への連絡をしないものだ。こういう、最悪の事態以外は。
(なにかやらかしそうな子だとは思っていたけれどね)
だからわざわざ念を押したのに。もっときつく言うべきだったか。それとも、自分がぴったりとはりついておくべきだったか。先に
バロウッズ先生は頭を振って、無益な考えを追い出した。
(夕飯を食べたら、もう一度捜索に行こう。次はもう少し足をのばして――)
と、その時、玄関ホールから生徒たちの悲鳴が聞こえてきた。ばたばたと慌てふためいた様子で通路に駆けこんでくる。
「どうしたんだい? 何があった?」
「へ、へ、ヘビ、蛇が……っ!」
「蛇?」
バロウッズ先生は眉をひそめた。蛇など今さらめずらしくもなんともないのに。実習でも何度も扱っているし、ペットにしている生徒もたくさんいる。不思議に思いながら、バロウッズ先生は玄関ホールに出た。
そして、おびえの理由を目の当たりにした。
その蛇は実に巨大だった。大人を三人いっぺんに飲み込んでみせるだろう大きな頭。それに見合った胴体。長さは捉えきれない。玄関ホールの塔の、いったいどこから出てきたのか、かなり上層の壁からはい出ているらしかった。
それになにより、その圧力が。
蛇自体が持っている魔力の大きさと、その存在の異質さが、空気をねじ曲げてしまうほどの重圧を作り出していた。バロウッズ先生ですら、膝をついてかしずきたくなる衝動を感じたくらいだ。逃げられる位置にいなかった生徒が何人か、らせん階段の上でへたり込んでいる。
バロウッズ先生は素早く、蛇の頭の真下に進み出た。この蛇のことは知っている。こんな表層に来るべき存在でないことも。
蛇の黄金の目が、バロウッズ先生をじっと見つめた。それに向かって語りかける。
「世界蛇の君、どうしてこのような場所にいらしたのです?」
世界蛇。それは、この世のほとんどの神話に登場する類似存在たちの、すべての根源であるとされる蛇である。実体はない。あるように見えているが、その蛇の体は魔力と神威のかたまりだ。触れることなど、できはするだろうが、おそらく命と引き換えになる。
圧倒的な力の凝縮体。だからこそ、普通の人は恐れ、おののくほかにない。
『うむ、銀の砦か』
蛇の声が空気を震わせると、心臓がぎゅっと縮み上がるような感覚がした。それは本能的な恐怖だ。階段の上に座りこんでいた生徒が、気を失ってたおれたのが見えた。
『なに、大した用ではないのじゃが。
「小骨?」
『さよう。溶けもせず、外れもせず、気になって仕方ないのじゃ』
そう言って、蛇はずるりとはいずり、バロウッズ先生の前に胴の一部をさらした。
『ここじゃ、ここ。許すゆえ、切り裂いてみよ。小骨には当てぬよう、せいぜい気を付けることじゃな』
バロウッズ先生は理解に苦しんで、ちょっと首をかしげた。が、すぐに杖を構える。世界蛇がやれと言っているのだから、やるほかにないだろう。
相手が相手だ、思っているより数倍強い魔法を、実際より数倍広い範囲に使っても問題はない。そう判断して、詠唱を始める。
「『円陣、“
金色の光が杖の先からあふれ出た。その光がひとりでに作り出した魔法陣が、足元に刻み込まれる。
バロウッズ先生は杖先で魔法陣を二回たたいた。すると陣がゆっくり回り出す。
「『暗雲貫く乙女の針、雷鳴切り裂く母の鋏、すっかりその気になってしまい、哀れ艇長、嵐に突っ込みこれで終い』!」
杖を振り上げる。
と、魔法陣から刃のように鋭い風が飛び出し、吹き荒れ、蛇の胴体を丸く切り抜いた。
概念上の皮膚が落ち、溶けるように消えていった。そしてその体内から、透明の粘液が流れ出てきて――バロウッズ先生はいつもほとんど閉じている細目を、危うく見開くところだった。
どろりと落ちてくるねばりけの強い体液――その中に小さな人影が、アーチボルト・ウルフの姿が入っていたのだ!
バロウッズ先生は慌てて駆け寄り、彼を受け止める。
「っ!」
体液が跳ねて、素手にかかった。瞬間、煙を上げて皮膚が溶ける。これはある種の呪いだった。強すぎる魔力が“胃液”の定義の中で、“あらゆる生命を溶かし尽くすもの”という呪いになっているのである。
なのに、
『ほう、無傷、無傷とな!』
蛇が、ずい、と頭を寄せて、バロウッズ先生の腕の中に落ちた子を見つめた。バロウッズ先生も、信じられない気持ちで少年を見下ろした。
彼は蛇の言葉通り、ほとんど無傷だった。魔法のローブ以外の服や靴はすべて溶けたらしく、はだしがすそから飛び出していたが、その肌はきれいなまま。一点の火傷もない。手やほおに細かな傷がついてはいたが、どこも焼けただれてはいないのである。
『
上機嫌な蛇の声がホールを揺らす。
バロウッズ先生はめまいをぐっとこらえた。それから、自分に呪いがかかっていることを初めて感謝した。どんな感情であろうと、笑顔にしかなれない呪い。不便なことのほうが多いが、こういう場合には役に立つ。――本心とは裏腹に、余裕のあるようなふりができるから。
いつも通り、笑みを浮かべる。
「わざわざここまでお越しくださってありがとうございます。この子は我が校の生徒ですので、あとはこちらで、責任を持ってお預かりいたします」
『ほう。
「あなたは“小骨を取り除く”ために来たのでしょう? その小骨をどうするかは、おっしゃっていませんでした。ですので、取り除いた私が、好きなようにさせていただくのは道理と思いますが」
『ふむ。一理あるな』
蛇は、シュー、と刃を研ぐような吐息を出して、それから続けた。
『しかし、
「私にできることがあるならば」
『主じゃない。この子じゃ』
言うなり、蛇はぱかりと口を開けた。びっしりと生えそろった牙を伝って、一匹の小さな蛇がはい出てくる。それはぽとりと少年の胸元に落ちると、するするとはっていき、かすかに開けられていた彼の口の中へ入り込んだ。
小さな蛇がしっぽまですっかり体内に入ってしまうと、彼は顔をゆがめてせきこんだ。透明な粘液が飛び出てきて空気に溶ける。彼はしばらくせきこんでいたが、やがて落ち着くと、安らかな寝息を立て始めた。
のんきなものだ、とあきれるように思いながら、バロウッズ先生は世界蛇の目を見た。
「今のは?」
『なぁに、案ずるな。ただの
バロウッズ先生は不快感を覚えたが、かといってなにができるわけでもない。
蛇がぐっとかま首を持ち上げる。
『では、戻ろうかの。長居するには、ここらはちとつろうてな。
そう言って、蛇はずるりと床にもぐりこんだ。大きな頭が床下に消え、後を追って胴体がずるずるとはっていく。七色のうろこがぬらぬらと輝きながら進んでいく。あまりに長くて、長くて、長くて、見送っている間に寿命が尽きてしまうのではないかと思ったころ、その蛇の体はすぅっとうすまっていき、やがて消えた。
異質なものに染められていた空気が、徐々に戻っていく。バロウッズ先生は深くため息をついて、自分の手の傷を治した。
通路から事態を見守っていたらしいほかの先生たちが、我先にと駆け寄ってくる。彼らに新入生の無事を告げ、場の回復を任し、バロウッズ先生は輪から抜けだした。腕の中で眠る少年を、奇跡的に生きていた彼を、医務室に連れていかなくては。
医務室のベンフィールド先生は、「あらあらあらあら、まぁまぁまぁまぁ」と、驚きと喜びのまざった声でバロウッズ先生を迎え、少年のためにベッドと寝間着を貸し与えた。
それから、彼の体をじっくりと診察して、
「なんとも、ええ、なんともなっておりませんわ」
まったく不可解だという声音でそう言った。
「手と顔の傷は
それからベンフィールド先生は、自分のデスクに戻って、血の入った試験管を軽く振った。
「血液検査も、ええ、念のためしましたけれどね。呪いが体内に残っていては困りますから。けれど、呪いのたぐいは一切、一切かかっておりませんでした……」
言いながら、少し口ごもる。
少年のとなりのベッドに腰かけて考え込んでいたバロウッズ先生が、おもむろに顔を上げた。じっとベンフィールド先生を見つめる。
しばらくして、彼女は根負けしたように口を割った。
「……気のせいかもしれませんわ、ええ、気のせいかも。ですけどね、彼の、この血液なんですけれども、
「魔法を弾いた……」
ベンフィールド先生は不安げな様子で「気のせいかもしれませんけどね、ええ、きっと気のせいですけれど」と繰り返した。
「ねぇ、ベンフィールド先生?」
「あら、はい、はい、なにかしら?」
「全部忘れてくれるかな」
「全部、と言いますと?」
「彼の血が魔法を弾いたかもしれない、ということ。それから」
バロウッズ先生はひょいと近付くと、ベンフィールド先生の手の中から試験管を引き抜いた。
「僕に血液の処理を任せたこと」
ベンフィールド先生はちょっとだけ目をぱちくりさせたが、すぐにころころと笑い出した。
「あらあら、お安い御用ですわ。わたしももういい年ですもの、言われなくたって忘れてしまいますわ。ええ、忘れてしまいますとも。あら、ところで、何の話をしていたかしら? 明日のお天気は快晴ですわよ、快晴」
そらとぼけて笑うベンフィールド先生に、バロウッズ先生も笑みを深めた。
目を覚ましたら教えてくれるように頼んで、バロウッズ先生は医務室を出た。ここ数日の緊張から解放されたことと、度肝を抜かれる出来事のオンパレードに、全身がぐったりと疲れ切っていた。
(でも、早めに調べないとね)
少年、アーチボルト・ウルフが、特異な体質を持っているならば。
(魔法庁に感付かれる前に、調べ上げて、隠さないと)
呪いを弾く体質など、かっこうの研究材料になってしまう。まして神に類する存在の呪いにすら耐えてみせるとなれば、なおさら。魔法庁が放っておかないだろうし、下手に広まってしまえば、もっと
せめて、彼が一人前の魔法使いになるまでは。先んじて事実をつかみ、
(……というか、本人が知ったらあちこち好き勝手に突っ込んでいきそうだし)
本当にそういう体質だった場合、最も有効活用しそうなのはまさにその持ち主である。
(なんだか、騒ぎの絶えない日々が続きそうだな)
バロウッズ先生はため息をついて――そのくちびるにはほほ笑みをたたえたまま――急ぎ足で自分の研究室に向かった。
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