8 はじまりの詩はおわりを呼ぶ


「……え?」


 アーチは自分の目を疑った。道がない。まぶたをぎゅっと閉じて、手でゴシゴシこすって、もう一度見た。やっぱりない。あるのは壁だけだ。


「な、なんで?!」


 思わず駆け寄って、ぺたぺたと触ってみたけれど、壁はさも最初からおりましたと言うように当然の顔で立ちふさがっている。道はおろか、扉すらない。

 それなら僕はいったいどこから来たのだろう、とアーチは呆然としながら考えた。大廊下の細い脇道を通ってきたはずだ。それは間違いない。なのにどうして、その道が消えているんだ?


「なにこれ、どうなってんの?」


 もしかして、来た方向を勘違いしているのだろうか。今壁があるほうから来たと思っていたけれど、どこかで反転して、実は逆から来たとか。アーチはありえないと思いながらも他に合理的な説明を思いつかなくて、壁に背を向けた。

 白い壁に囲まれた、長方形の大広間。天井は、いったいどんな高さをしているのか、暗闇に沈んでいてどれだけ目を凝らしても見通せなかった。床はつるりとしていて、ダンスの練習場のような感じをしている。家具はなにもない。反対側の壁に扉が見えた。アーチはとりあえずそこを目指すことにした。

 あちこち見回しながら、部屋の半ばほどまで来た時だ。


(……ん? 今、何か、動いたような……)


 視界の隅をしゅっと、ものすごいスピードの虫みたいな何かが横切った気がしたのだ。光っていたような気もした。蛍だろうか――

 なんて考えたアーチのほおに、突然鋭い痛みが走った。


「うわっ! いった、なに?!」


 ぱっと手をやると、血が流れているのがわかった。ほおがうすく裂けている。刃物の先っぽでちょっと切られたみたいな、小さいけれど鋭い切り傷。

 混乱するアーチの耳に、かすかな音が聞こえてきた。くすくす、きゃらきゃら、と笑うような声。さわさわ、ざりざり、と衣ずれのような音。

 上だ! アーチが勢いよく振り仰ぐと、さっきまで暗闇しかなかった天井に、無数の光が浮かんでいた。蛍のような小さな、黄緑の光。しかしその光の群れは、蛍のように点滅もしなければ、生き物らしい温かみも持っていなかった。

 アーチは背筋がぞくりとするのを感じた。なんだかよくわからないけれど、ここにいてはいけない、と心が叫んでいる。


『キャハハハハハッ!』


 ひときわ大きな笑い声が上がったのと、アーチが走り出したのが、ほぼ同時だった。

 天井から弾丸のように、槍のように、光が振り落ちてくる。はたから見ればそれは地上の花火のようで美しかったかもしれない。当事者にとっては地獄のようだが。アーチは頭を腕でおおいながら、それらをかいくぐって、残り半分を一気に駆け抜けた。

 扉に飛び付く。勢いよく押し開けて外に飛び出し、即座に閉める。

 笑い声が扉の内側に消えた。上手くしめ出せた、と確信したアーチの目の前で、扉はすぅっと消えてしまった。

 アーチはもう驚くのにも疲れてしまって、声すら出せなかった。全身から力が抜けて、ずるずるとその場に座り込んでしまう。廊下には毛足の長いじゅうたんが敷かれていて、ふわりとしりもちをついた。


「はぁ……痛てて……」


 見れば、ほおにも手にも切り傷がたくさん付いている。肩や足にも痛みがあったけれど、不思議とローブは破けていないのだった。ためしにローブをめくり上げて、足の痛いところを見てみたら、切り傷はない代わりに青あざが出来ていた。


「このローブ、丈夫なんだ」


 もしかしたら魔法の品物なのかもしれない。そんなわくわくする推測をしても、今のアーチの心は弾まなかった。

 思わず、ため息。入学したその日からこんなことになるなんて。ついさっきまでフィルと楽しくしゃべっていたのが、まるで夢のようだ。アーチはうっかり泣きそうになったのを、じゅうたんの毛をむしってごまかした。

 ふいに、バロウッズ先生の言葉がよみがえってきた。


『この学校には危険な場所がたくさんあるし、危険な生物がたくさん住んでいる。一歩間違えれば死んでしまうような危険が、本当にたくさんひそんでいるんだ』


「危険な場所……危険な生物……」


 ようやく、大げさな脅し文句に誰も笑っていなかったわけを理解した。本当なんだ。脅しじゃなくて、本当に、本当なんだ! ついさっき自分をおそったような、謎の光の群れ――あんなのがたくさんひそんでいる。それがこの学校なんだ!

 アーチは自分で自分を抱きしめた。手の甲ににじんだ血の上に、ほおからの血がしたたり落ちる。腹の底から震えがわき上がってきた。怖い。恐ろしい。心細い。けれど――ごくりと唾を飲み込む――どうしてだろう、それだけじゃないのだ。怖いだけ、恐ろしいだけじゃない。心細いだけでもない。

 この震えには、もう一つ別の何かが混ざっている。


「よぉし!」


 冒険の始まりだ。

 一声上げて、飛び跳ねるように立ち上がった。頭の中では、今まで出会った本と映画の主人公たちが立ち並び、アーチに向けてほほ笑んでくれている。映画のほうは半分くらいが父さんの顔で、そのことが余計に彼を奮い立たせた。


(主人公はいつだって堂々としていて、カッコよくて、どんな困難にもくじけない。“どんな絶望にも屈することはないと断言できる人”だ! 危険な場所だってへっちゃら、だから主人公、だから特別・・なんだ!)


 アーチは両手でほっぺたを思いっ切りたたき(傷のことなんてすっかり忘れていた彼はしばらく痛みにのたうって、それから)、フードを被ると廊下を進み始めた。



 再び彼が足を止めたのは、扉に鍵がかかっていたからだ。

 ここまでだって随分とおかしな道中だった。幸い、あの光のようなおそってくるものはいなかったけれど。

 扉があったのに開けたら壁だった、とか。上り階段だったのに気が付いたら下っていた、とか。はしごを上って天井の扉を押し開けたら、急に上下がひっくり返って、の部屋に落ちた・・・、なんていうこともあった。

 そしてさっきまでの場所にはいつだって戻れなかった。

 だから当然、この部屋に入るために使った扉もすでに消えている。


「どうしよう」


 戻れなくなる、と理解してからは、次の部屋の様子を確認してから入るようにしていたのに。まさか次の扉が開かないパターンがあるとは思ってもみなかった。

 さすがにあせりが出てきて、冷や汗がにじんだ。悪あがきだとはわかっていたけれど、ドアノブをがちゃがちゃと鳴らしてみる。やっぱり開かない。他に扉がないだろうか、と首をめぐらせてみたけれど、見当たらない。ラグも敷かれていないから、床に隠された扉があるってこともなさそうだ。棚も家具もないから、仕掛けの余地すら残されていない。


「うーん……ん?」


 再び扉に向き直ったとき、上のほうに文字が刻まれていることに気が付いた。


「さっきまであったっけ?」


 ちょっと首をかしげたけれど、もう散々な目にあってきた後だ。いまさら文字が浮かび上がってくるぐらいどうってことない。


「ええと……“すべての魔法使いが必ず知っている詩を詠え”……すべての魔法使いが、必ず……ああ、そっか」


 アーチはすぐに思い付いた。

 そして高らかに詠う。


「“坊やが笑う、ボートで攫う、帽子は空っぽつつがなし”!」


 魔法使いの素質があるかどうかを調べるためのものなのだから、すべての魔法使いはこの詩を読んだはずだ。

 ガチャッ、と錠の外れる音が響いた。ひとりでに扉が開く。


「やったっ! これで次に行け――」


 その瞬間、アーチは息をのんで後ずさった。

 大きな、本当に大きな蛇の頭が、ぬるりと入ってきたからである。その大きさたるや、アーチを五人まとめて丸飲みにしてもまだ余裕がありそうなほど。

 蛇はその巨体を器用に滑らせて、部屋を壁沿いに一周、二周し、それからアーチを正面に見据えた。これまでに見たことのない色をした蛇だった。金属のような光沢をもった鱗は、ぬらりと動くたびにゆがんだ七色をそのふちに浮かび上がらせた。

 蛇の頭が真正面に迫る。生臭く湿った呼気を顔中に吹きかけられ、アーチは顔をしかめた。


「うええっ……」

おそれぬのか……』

「え?」


 紙やすりのようにざらりとした耳ざわりの声がした。顔を上げると、黄金に輝く蛇の目と目が合った。


『食いではなさそうだが……味は良さそうじゃな』

「僕を食べるの?!」

『うむ。この場に至った生命はことごとわえの腹に収まる運命さだめじゃ』

「そんな!」


 アーチは顔を真っ青にした。蛇に食われて死ぬなんて、そんなのまっぴらごめんだ! でも打開策はまったく思いつかなかった。周囲は完全に包囲されているし、仮にとなりの部屋へ行けたとしても、蛇の体はその大部分がそっちにあるようだった。

 こうなったら頼み込むほかない。アーチは蛇の目を真剣に見つめた。


「お願い、食べないで。僕を食べてもきっと美味しくないよ」

『そうわれてものぅ』

「もし食べたらお腹の中で暴れるよ。全力でじたばたする。そしたら絶対にお腹を壊すから、やめておいたほうがいいと思う」

『ふ、ふふ、ふふふふふふっ』


 蛇が巨体を揺らして笑った。一音笑うたびに胴がうねり、アーチは食べられる前につぶされてしまうんじゃないかと少しひやりとした。


『面白い子じゃ! わえを畏れぬばかりか、口答えまでしてみせようとは! はっはは、気に入ったぞ』

「それじゃあ!」

『うむ』


 助かった、と目を輝かせたアーチに向けて、蛇は大きく口を開けた。蛇なのになぜかたくさんの牙が生えていて、その一本一本が鋭く尖り、先端からよだれのようなぬめりのある液体がしたたっていた。


『ゆっくりと味わってくれよう』

「え」


 世界が真っ暗になった。


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