6 三つの光

 一年生はしばらく待っているように、と先生が言って、先に上級生たちが降りていく。アーチは目をつぶってその気配だけを感じていた。


「乗り物酔いするならそう言ってくれればよかったのに……大丈夫?」


 フィルの心配そうな声に、うすく目を開ける。彼は本当に心配してくれているようだったから、黙ってうなずきを返した。彼と楽しくおしゃべりしていたのと、初めて見る風景にわくわくしていたおかげで、いつもよりはだいぶ軽い。けれど二時間も乗っていて、まったく酔わないというのは無理なことだった。

 立ち直ったレモン頭が、通路を行く上級生たちのすき間をぬってこちらを見て、となりの子とひそひそくすくすしている。アーチは奥歯をかみしめて、吐き気といら立ちを同時におさえ込んだ。

 上級生たちがすっかり行ってしまうと、キーリー先生が前に立った。


「よーし、それじゃあ一年坊ども、行くぞ!」


 アーチはまだぐらぐらしている頭と腹を無視して、素早く立ち上がった。勢いよく立ちすぎたせいでふらついた足元と、それで急に強まった吐き気を、壁にもたれかかってやり過ごす。


「手伝おうか?」

「いい。平気」


 フィルの申し出を無愛想に断って、アーチはスーツケースを抱え上げた。フィルを置いてとっとと歩き出す。

 列車を降りると、ひんやりとした風がひょうと吹きつけてきた。ぞっとするような冷たさだったが、今のアーチには心地よい。お腹の中で渦巻いていた気持ち悪い生温さが吹き飛ばされて、吐き気が遠退く。

 赤レンガの小さな駅舎を抜ける。

 と、目の前に大きな校舎がそびえ立っていた。

 アーチは感嘆の息を吐いた。校門まではまだ道のりがあって、門の向こうにも広い前庭があるのに、校舎の大きさは圧倒的だった。校長先生が貸してくれた本のさし絵とまったく同じ姿だったけれど、実際に見たほうが数十倍も厳かに感じられた。

 それは古めかしい城のような形をしていた。正面の塔にはドームがのっている。その両脇には尖塔せんとうがあって、そこからさらに東棟イースト・ウィング西棟ウェスト・ウィングが奥へ続いているのがうかがえた。周囲を黒々とした森に囲まれているのもまた威圧的でかっこいい。アーチは、王冠を被った大鷲が森の中央でふんぞり返っている姿を連想して、もう一度ため息をついた。


「正門を行き来する時は必ず、守衛に名前を告げること! さぁ、一人ずつ並べ!」


 キーリー先生の指示に従って、一年生たちはずらりと一列になった。

 アーチは真ん中らへんで、しばらく待ってからようやく正門をくぐった。その間目はずっと校舎やその周りに釘付けで、「はい次。君――おーい、坊主」と呼び掛けられるまで順番が来たことに気が付かなかった。


「あっ、うん。なに?」

「名前」


 古びたノートとペンを片手に、その人は窓から身を乗り出すようにしてアーチを見下ろした。よく日に焼けていて、髪もひげももじゃもじゃとした毛深い感じの人だった。


「アーチボルト・ウルフ」

「はい、アーチボルト・ウルフな」

「あなたは?」

「俺かい? ハハァ、ここで俺の名前を聞いてくるやつには“はじめまして”だ!」


 その人は愉快そうに歯をむき出しにして笑った。みょうに鋭い牙のような歯が並んでいる。


「俺はバートン・バートン・ハイリード。よろしくな、ウルフ」

「うん、よろしく」

「好奇心旺盛なのは結構だが、入ったら気を付けろよ」

「なんで?」

「好奇心は猫をも殺す。猫には魂が九つあるが、人の魂は一つだけ。食われちまわないようにな」


 なんだか意味深な言葉だった。くわしく聞こうとしたけれど、“さぁ進め”とばかりにペン先をひょいと振られて、しぶしぶ質問を引っ込める。

 前庭は綺麗に整えられていた。いろんな形の生け垣や、見たことのない花の咲く花壇や、山羊でも羊でもないオブジェクトなんかがあった。ここで鬼ごっこをしたらとんでもなく楽しそうだ。赤いレンガ道は、スーツケースを引きずるには不向きだけれど、そのでこぼこすら楽しいものに思えた。


「さぁ一年生はこっちだ!」


 キーリー先生の大声に連れられて、正面玄関の直前を右に九十度曲がる。東側の尖塔の下に、正面より一回り小さな扉があって、そこから一年生たちは中へ入れられた。

 入るとすぐに、大きな広間があった。長い机がずらりと三本の列を作っていて、周りに丸い椅子が並んでいる。高い天井には年季の入ったシャンデリアが、四つ、五つぶら下がっていた。


「ここが食堂だ。朝、昼、夜、全部ここで、全員ここで食事をとる!」


 それからしばらく、アーチたちはこの場で待たされて、それからもう一度移動した。食堂を出て、三十人がぞろぞろと大きな廊下を進んでいく。石造りのせいか、天上が高いせいか、みんながみょうに静まり返っているせいか、足音がやけに大きく響いた。

 廊下はその途中途中に細い脇道があった。ちょうどロンドンの入り組んだ住宅地のように。その細い道とすれ違うたびにアーチは向こうをのぞき見ていたのだが、うす暗い小道はどれも数メートル先で暗闇に沈み、まったく見通せなかった。


「ここが玄関ホールだ!」


 先生の声が一段と大きく反響した。

 廊下を出ると、そこは丸いホールになっていた。アーチは興味津々で辺りを見渡した。正面にあった塔だろう。正面玄関の大きな扉と、向かい合わせに小さな扉が三枚ある。らせん階段が内側をぐるりとめぐって、ずっと向こうの天井にまで届こうとしているようだった。天井は外から見た印象よりもずっと高くて、そっくり返るようにしても一番上は見えない。小さな足音が何十倍にもふくれ上がって、かつーん、こつーんと尾を引いた。

 らせん階段には時々踊り場があって、その一つ一つに像やら絵画やらが飾られていた。

 そして、


「ようこそ、新入生諸君」


 のりでしっかりと固めたワイシャツのような声が、一年生全員の背筋をピンとさせた。

 踊り場の一つに校長先生が立っていた。アーチが家で見た時と同じく、上品なスーツに身を包み、真っ白い髪をきりっと結い上げている。あの時と違うのは、手に身の丈ほどもある大きな杖を持っていることだった。それがあるだけで一気に魔女らしさが強まる。


「わたくしはアンブローズ・カレッジ校長、ソフィー・アンブローズ・ハーヴィーです。これから七年間、そしてその後も同じ魔法使いとして、どうぞよろしく」


 校長はそう言いながら、打ち解ける気なんてまるでなさそうな硬い口調で続けた。


「さて、皆さんは今日この日から、ここアンブローズ・カレッジの生徒となり、国家が定める魔法使いとなるべく勉強を重ねていきます。魔法使いになるのはたやすいことではありません。普通よりもさらに多くの勉強と、努力、そして研鑽が必要になります」


 アーチは“勉強”と“努力”と“研鑽”の違いがいまいちピンとこなくて、ちょっと首をかしげた。みんな同じことじゃないのか?


「この学校で過ごすにあたって、気を付けてほしいことが三つあります。一つは、校則を必ず守ること。二つ目は、危険な場所へ近付かないこと。三つ目は、先生や仲間たちと助け合い、身を守るために最善を尽くすこと。この三つを必ず、何が起きようと必ず守るように」


 そんな大げさな。アーチはそう思って笑いたくなってしまった。けれどふと周りを見ると、誰も笑ってなどいない。むしろおびえるように身を固くさせている子がほとんどで、アーチはどうにも理解できない気持ちになった。


「では、皆さんが所属する寮を決めましょう」


 校長先生が脇によけて、入れ替わりに三人の生徒が進み出てきた。かなり年上のようだった。

 真ん中の男の子が最初に前に出てきて、「こんにちは、新入生諸君!」と明るく言った。


「俺は日輪寮ハウィルの監督生、デイミアン・セルザムだ」


 そう名乗るなり、彼は両手をバッと広げ、歌うように朗々と言葉をつむいだ。


「ハウィルは太陽! 三賢人の一人、太陽の愛し子! 最も多くの人に魔法を伝え、最も多くの人に愛された、偉大なる魔法使いだ! 魔女狩りの時代を正面から乗り越えた、勇気ある人でもある。だからこの寮に入る生徒は、勇敢で誠実で、愛のある人間でなければならない! ――あるいは、そういう人物でありたいと思う人間でなければね。以上だ」


 にっかりと、それこそ太陽のように笑って、セルザムは後ろに引っ込んだ。

 反対に、右手側に立っていた女の子が前に出てくる。


明星寮ヴェヌスの監督生、ノエル・オブライアンよ。こんにちは、一年生たち」


 彼女はとっても大人っぽくほほ笑んだ。


「ヴェヌスは金星。三賢人の一人、明星の側近、境目をゆく者よ。魔法を誰よりも愛し、魔法のことを誰よりも深く研究したの。そしてその研究成果をみんなに伝え、一緒に磨き上げたのよ。つまりこの寮は、一人でどこまでも勉強が出来る人、そしてみんなと一緒に議論できる人、そういう人に入ってほしい。いいかしら?」


 長い金髪をさらりと揺らして、彼女は元の位置に戻った。

 最後に出てきたのは、おどおどとした男の子だった。


「ええと、月下寮シェリの監督生、チャールズ・シアー、です。よろしく……」


 長い巻き髪の先を神経質そうに指先でくるくるしながら、彼はうつむきがちに話した。


「シェリは月下の人。三賢人の一人、月光の守護者、最も自由なお人、です。誰かをしばったり、誰かにしばられたりしないで、ただ一人、孤高に戦い続けたお人、です。吸血鬼や人狼も、彼は簡単に打ち払いました。……ええと、今は強くなくてもいいです。ただ、強くありたいと思ったり、自由でありたいと願ったり、その……」


 シアーがみょうなところで言葉を詰まらせたから、聞いているアーチのほうがなんだか緊張してきてしまった。アーチならこういうところで上がったりなんてしないから、余計に。

 けれど、


「どんな絶望にも屈することはない、と、断言できるようになりたい人が、入る寮、です」


 続いたその言葉に、心臓がどくんと脈打った。引き寄せられたのだ。たどたどしいしゃべりは聞いていられないレベルだし、気弱そうな態度は見ていられないくらいなのに。なのになぜか、その言葉は、アーチの心を物凄い力で引っ張ってたぐり寄せた。


「よろしくお願いします」


 彼がぺこりと頭を動かしたのを合図にしたように、他の二人が再び前に出てきた。

 そして、ハウィルの監督生が小さな箱の中身を思いっ切りぶちまけた。中から飛び出てきたのは、鍵だ。金色の小さな鍵。それはきらきらと輝きながら宙を舞って、思わず差し出したアーチの手の中にすっぽりと納まった。

 小さくてひんやりとしている。ほのかに光を放っているようにも見えた。


「他の子と話し合うのは禁止だ! 己の意思で決めるように!」

「扉はすでに用意されているわ。あとは鍵を差し込み、進むだけ」

「学校は、道を照らす光です。どの道を行くかは、君次第、です」

「さあ、選びたまえ! 自分がなりたい自分を!」


 アーチの意思はすでに決まっていた。無論、月下寮シェリだ。理由はないけれど、心がそう断言したのだ。だからアーチは迷いもためらいもせず、真っ先に歩き出して、月と人の形が彫り込まれた扉に鍵を差し込んだ。


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