4 ユーストン駅十七番ホーム

 わくわくしながら準備をしているうちに、入寮の日はあっという間にやってきた。アーチは、母と姉が選んでくれた銀のスーツケースをごろごろと引きずって、賑わうユーストン駅の構内を進んでいった。


「なんだかいつもより混んでるわね。気のせいかしら」


 そう言った母さんが、先を急ぐアーチのパーカーのフードをつかんだ。


「アーチ、もう少し周りを見て歩きなさい」

「まだ僕誰にもぶつかってないよ」

「ぶつかってから気を付けるんじゃ遅いでしょう。あと、十七番ホームはあっち」


 アーチは素直に従って、方向をくるりと変えた。

 ユーストン駅のプラットホームは十六個しかないはずだった。十七番ホームと呼ばれている場所は、かつて改築したときに取り外した線路を、記念に置いてある広場である。当然、列車なんか通っていない。けれど案内にはそこへ集合するように書かれていたから、アーチと母さんはそこへ向かった。

 いつもなら待ち合わせの人でいっぱいになっている広場が、今日は駅員と警察によって厳重に規制されていた。数メートル分しかない古い線路が中央にあって、その架空の沿線にロープが張られている。線路より一回り広い幅で張られた二本のロープは、広場のはしからはしまできっちりと通っていた。カメラを構えた男がロープのギリギリに近付いていって、警官から注意をくらっていた。

 広場で一番多いのは子どもだった。きっと魔法学校の生徒だろう、と思って、アーチはこっそり胸をなで下ろした。ここまで来て全部嘘だったらどうしよう、と思う部分が少しだけあったのだ。

 アーチと同じくらいの年頃の子たちは、アーチと同様、家族に付き添われて大きな荷物を持ち、不安そうに立っていた。年上の子たちはみんななにも持っていなくて、慣れた様子で談笑している。


(どうして手ぶらなんだろう……生徒じゃないのかな。ここにいるのに?)


 不思議に思っていると、ふいにアーチは大きな声をかけられた。


「やぁこんにちは! 新入生だな?」


 アーチを見下ろしてニッコリとしているのは、ものすごく背の高い、筋肉質の男だった。逆光のせいで髪の色も顔もよくわからなかったが、真っ白い歯のおかげで笑っていることだけはわかった。

 平均より小さいアーチはほとんど見上げるような格好になった。


「はい、そうです」

「証明書を拝見!」


 アーチはポケットから入学証明書を取り出した。分厚いクリーム色のカードに、今日の日付――二〇〇三年八月三十日――と、校長先生とアーチの名前が刻まれている。裏面にはアンブローズ・カレッジの紋章――“A”の周りに太陽と月と星が三角形を作っているシンプルな紋様――が箔押しされていた。

 背伸びをして差し出した証明書を受け取ると、


「ふんふん。ミスター・アーチボルト・ウルフ。はい確かに!」


 男は再びにっこり。絵に描いたような真っ白い歯が弧を描く。


「私はスタンリー・キーリー。カレッジで生物学を担当している。これからよろしく!」


 キーリー先生は証明書を返すと、同じ手を軽く握ってアーチに向けて差し出した。


「さぁ同じように右手を軽く握って、出してごらん」

「こう?」

「そうそう。それでお互いの手の甲をちょいちょいと二回ぐらいたたくんだ」


 アーチは言われた通りにした。先生の大きな拳に、自分の手の甲をそっと打ちつける。なんだか手の形の扉を変な方向からノックしているみたいで、おかしな感じがした。


「オーケー! これが“魔法使いの握手”だ。魔法界ではこれが普通だから、覚えておくように!」


 アーチはこれが握手だと言われて心底驚いた。


「どうして普通の握手をしないの?」

「そういう慣習なのさ!」

「どうしてそんな慣習になったの?」


 矢継ぎ早の質問に、キーリー先生はちょっと面食らったようだった。


「あー、そういうことは、歴史学の先生に聞いてみるといいと思うぞ!」

「先生、知らないの? 先生なのに?」

「……先生には専門というものがあるからね! 私は生物学だから!」

「じゃあ――」

「発車時刻まであと十五分だ! このままロープの外側で待っているように!」


 一方的に話を切り上げられてしまった。アーチは釈然としないまま、離れていく先生の背中を見送った。

 入れ替わりに年上っぽい二人組が近付いてきて、両側からアーチをはさんだ。


「よぉ新入生! さっそくキーリーの不興を買ったな!」

「不興?」

「アイツは細かいことを気にする子どもが大っ嫌いなんだ」

「へぇ、そうなんだ」

「あっははは! 全然響いてないな!」


 大きな声で笑った右側の子がライナス・ピアソン、少し落ち着いた感じの左側の子がロジャー・クレイと名乗った。ライナスは爆発に巻き込まれたみたいな天然パーマで、ロジャーはうねりの強いブルネットだった。二人とも長いこと髪の毛を切っていないようで、すごい量になっていたし、ロジャーは女の子みたいに首の後ろでひとつ結びにしていた。

 アーチは二人と習いたての“魔法使いの握手”をした。


「俺たち四年生なんだ。月下寮シェリ所属!」

「シェリ……って、魔法使いの名前?」

「よく知ってるな!」


 校長先生が貸してくれた本に書いてあったのだ。時間がなくて、全部は読めなかったけれど、シェリという名前はかなり始めのほうに出てきていた。


「そう、シェリは偉大なる月光の守護者!」

「寮の名前は三賢人にあやかっているんだ。シェリ、ハウィル、ヴェヌスの三つある」

「どの寮に入るかってどうやって決めるの?」


 アーチの質問をひらりとかわすように、ライナスは肩を放しながら言った。


「そいつは着いてからのお楽しみ、だ!」

「そろそろ列車が来るぞ。見逃さないほうがいい」


 ロジャーも離れながらそう言った。その言葉が終わるかどうか、というタイミングで、ふと日がかげった。見上げると、分厚い雲が空をおおっている。ひゅ、と冷たい風が吹いて、アーチは首を縮こまらせた。

 ――それから、はたと異常に気が付く。

 どこからともなく霧が発生していた。いくら霧となじみ深いロンドンだからって、こんなふうに突然、それもミルクのような濃霧が発生するのは、明らかな異常事態だ。思わず唾を飲み込んで、周りに目をやったけれど、誰の姿も見えなかった。どこか遠くから不安に駆られたような泣き声が聞こえてくる。そしてさらにその向こうから、レトロな汽笛と走行音が響いてきた。

 白っぽいライトが乳白色の霧を裂いて、一瞬アーチの目をくらませた。けたたましいブレーキ音が耳をつんざく。

 それから、すぅっと、まるで幻だったかのように霧が晴れていき――


「……うわぁ」


 アーチは思わずため息をついた。

 いったいどこからどうやって現れたのか、広場の中央に蒸気機関車が停まっていた。つややかな漆黒の車体が、霧に濡れて光っている。先頭車両と機関室、二両目までが広場に収まっていて、その先は壁に飲み込まれて消えていた。


「ようこそ魔法の世界へ!」


 とライナスが叫んで、アーチに手を振りながら列車へ駆け込んでいった。

 それを皮切りに、他の年上の子たちもどんどん列車に乗り込んでいく。カメラを構えた人たちは、たぶんこの列車を撮るのが目的だったのだろう。めずらしいものなのかもしれない。シャッターを切る音があちこちから聞こえた。

 アーチは振り返った。

 母さんが美しい栗色の目を真ん丸にして、アーチを見返した。華奢なブロンドが霧でわずかに濡れて、つややかに波打っている。


「じゃあ、僕、行くね!」


 母さんはほほ笑むと、少しかがんで両手を広げた。アーチはその腕の中に飛び込んだ。やわらかい匂いと温もりに包まれて、初めて不安が顔をのぞかせた。初等学校とは違うのだ。全寮制の寄宿学校。これからしばらく、母さんには会えなくなる――

 でも、


「いってらっしゃい。気を付けてね」


 と言われた瞬間、そんなさびしさは吹き飛んだ。いってくるし、帰ってくる。だからさびしくなんてないのだ。


「うん。じゃあね!」


 頭をちょっとなでてもらって、アーチは意気揚々と駆け出した。重たい銀のスーツケースを両手で持ち上げて、列車に乗り込む。カメラのシャッター音が、まるで万雷の拍手のように聞こえた。


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