3 まともな魔法

 お婆さんはソフィー・アンブローズ・ハーヴィーと名乗った。アンブローズ・カレッジの校長先生だという。魔女のような印象を持ったのは大正解だったらしい。その通り魔女だったのだ。

 彼女はフクロウの叡智えいちを思わせるグレーの瞳を持っていた。その目があんまりするどいものだから、今朝こっそりチョコレートバーを食べたことや、昨日の夜に歯みがきをサボったことを、全部見透かされるような気がした。だからアーチは父と母の間にすっぽりと納まって、できるだけその目を見ないようにうつむきがちになっていた。

 けれど、話を聞いている内にそんなことだんだん気にならなくなっていった。

 校長先生はアーチにも理解できる易しい言葉で(口調は冷淡なままだったが)、魔法使いについて説明をしてくれた。

 素質が見つかる子どもは、イギリス全土で毎年三十人くらいしかいないという。その内の一人が自分だと思うと、アーチは天まで舞い上がる気分になった。素晴らしく特別な子だと選ばれたような感覚だった。

 魔法使いとはあくまで特殊技能の資格(たとえるなら電気工事士とか臨床心理士とか、そういうものと同じ)であり、どんな職に就くこともできるそうだ。つまり、魔法使いになってから俳優になるってことも出来るということ。そう理解して、彼は顔を輝かせた。魔法使いで俳優なんて最高にカッコイイじゃないか!

 学校は七年制で全寮制。そこにいる全員が魔法使いなんだと思うと、わくわくして仕方がなかった。その中で普通の科目にプラスして、魔法について学ぶのだ。アーチは自分が小説や映画の主人公のように、さまざまな魔法を自在に操る姿を想像して、思わず口元をほころばせた。

 最後に校長先生は、


「入学を拒否なさる場合は、こちらの宣誓書にサインをしていただきます」


 と、淡い金色の紙をテーブルの上に広げた。


「魔法放棄の宣誓書です。アーチボルトくんが現在持っている素質は、まだたいへん小さく、芽吹いたばかりのものです。それは、しかるべき教育のもとで育てない限り伸びていかないものですが、一方で、放置しておけば枯れるというものでもありません。魔力というものは芽生えた時点で、一生付き合っていかなくてはならないものなのです。そして、どれだけ小さな魔力であろうと、所有しているならば魔法を使うことは可能です。……先ほど、ミスター、あなたがおっしゃった通り」


 グレーの目が父を見据えた。


「魔法とはまともなものではありません。だからこそ、正しい教育を通して、正しい使い方を覚えなくてはならないのです。それを覚えないとおっしゃるのであれば、間違っても正しくない使い方をしないよう、この先けっして魔法と関わらないことを誓っていただかなくてはなりません」


 骨ばった指先が宣誓書を軽くたたいた。裁判官のハンマーのような、硬い音が響いた。

 それから先生は紙を器用に巻いて、元通り鞄にしまい直した。


「三日後の同じ時間にもう一度参ります。それまでに、入学申請書か、宣誓書か、どちらにサインするかをお決めください。よろしいでしょうか」


 アーチの心は三日待たなくてももう決まっていた。もちろん、入学申請書だ。でも先生は有無を言わせない調子で、スッと立ち上がった。今日はこれでおしまいらしい。


「では、本日はこれで失礼致します」

「あの、先生!」


 アーチは慌てて引き留めた。説明の中でわからないことはなかったけれど、言われていないことがたくさん、本当にたくさんあるように思ったのだ。


「はい、なにか」


 無機質にも思える目を前に、アーチは一番聞きたいことが何か、必死に考えた。本当は今すぐサインしますと言いたいくらいだったけれど、それはどうにか飲み込む。


「あの……ええと……魔法って、どんなことができるの――です、か?」


 アーチはとっさに丁寧な聞き方をした。そうしないと怒られるような気がしたのだ。

 校長先生は「それを学ぶのがアンブローズ・カレッジです」と素っ気なく言った。それから、ふと思い立ったように鞄へ手を入れる。


「次にわたくしが来るまでの間、この本をお貸ししましょう」


 そこから図鑑のように大きな、分厚い本が出てくるのを、アーチはまじまじと見つめた。どう見たって鞄のサイズを超えていた。きっと魔法だ、なんて不思議なんだろう!


「ぜひ、皆様で」


 そう言い置いて、先生はふわりとローブを羽織ると出ていった。母が見送るためにソファを立つ。

 アーチはさっそく本に手を伸ばした。本を読むのは好きだった。独りの世界に没頭できるから。

 自分の部屋に持っていこうと思ったけれど、その本は持ち上げられないくらい重たかった。仕方がない、とあきらめて、そのまま表紙をめくる。革の装丁はざらざらとしていて、手に吸い付くような感じがした。

 一ページがすごく分厚かった。これじゃあ重たいのも当然だ。うすいクリーム色で、さらさらとした手触りの上質な紙。まず初めに『アンブローズ・カレッジの歴史』と書かれていて、歴史ある教会のような感じの建物が描かれていた。次のページから説明が始まっていて、飾りの多いアルファベットが整然と並んでいる。

 ところが、後ろからのぞきこんできた姉が、


「やだ、なにこれ真っ白じゃない」


 と言ったものだから、アーチは驚いて振り返った。


「えっ? 真っ白?」

「なにも書いてないでしょ」

「ちゃんと書いてあるよ、ほら」


 と彼は本を指さした。アルファベットはきちんと整列して、アーチに読まれるのを待っている。

 だが姉は鼻で笑った。


「嘘でしょ。あたしの目には見えないわ」

「嘘じゃない! ちゃんと書いてある!」

「じゃあ読んでみなさいよ」


 アーチはほおをぷくりとふくらませて、本に向き直った。嘘をつくのはウルフ家ではご法度だし、なによりきちんと見えているのに嘘つき呼ばわりされるなんて!

 アーチが文の下に指を置くと、一瞬だけその周りが金色に光ったような気がした。本当に一瞬のことだったから、アーチはきっと見間違いだろうと思った。


「アンブローズ・カレッジは五世紀末、三賢人の一人、太陽のちょーじ、は、は……ハ、ウィル、の弟子、花の魔術師アンブローズによって、その前身が創設されました――」


 そこまで読んだところで、姉が歓声を上げて首の辺りに飛び付いてきた。


「すごい! 魔法の本ね!」

「魔法? なにが?」

「だってあたしたちには見えないんだもの! あたしたちに見えるのはあんたが触ってるところの文字だけよ!」

「嘘、本当に?!」


 アーチは目を見張った。僕にしか読めない本、姉さんには見えていない本! そんなものがあるだなんて、とてもじゃないが信じられなかった。


「本当よ! ねぇ父さん、そうでしょう?」


 姉の声につられて父さんを見上げると、彼は眉をひそめて左肩の辺りをさすっていた。そこに小さな傷痕があることをアーチは知っていた。どうして付いたのかは、何度聞いても教えてくれなかったけれど。

 父さんと目が合う。その目は真剣で、姉の言葉が本当だったことを証明していた。アーチは心臓をどきどき鳴らしながら父の言葉を待った。きっと認めてくれる。父さんだって楽しいこととか、わくわくすることが好きなんだから。なにより、僕が特別・・だってことを喜んでくれるはずだ!

 けれど父さんは暗い顔で、首を振った。


「アーチ、何度も言うが、魔法使いにはなるな」


 アーチはそのかたくなな言い方にいよいよムッとした。どうして父さんはそんなに嫌がっているんだろう。このわくわくが理解できないんだろうか。


「どうして?」

「魔法の世界は……君には向いていない。君には、もっと……相応しい道がある。魔法なんて、まともじゃないものに関わって……損をする必要は、まったく、ない。だから駄目だ。魔法使いにはなるな。いいね」


 父は暗闇の中を手探りで進むような話し方をした。本気でしゃべる時の父は、いつだってこうやってつっかえつっかえになるのだ。それを知っているアーチはがまんして最後まで聞き、そして爆発した。


「やだ」

「アーチ」

「やだ!」


 アーチはパッとソファから飛び降りた。そのままリビングを駆け出て、二階まで走った。自分の部屋のベッドに飛び込む。毛布をかぶって、世界から自分を切り離すようにした。

 心臓がばくばくと脈打っていた。全身がかぁっと熱くなって、どこかから火が上がるんじゃないかと思った。体が燃えて、ベッドも燃えて、家が丸ごと焼け落ちるのだ。そうなる気配を察したかのように、両の目から涙があふれてきた。それがまた一段と格好悪く思えて、アーチは枕に顔を押し付けた。

 だって父さんは去年確かに言ったのに、とさっきも思ったことをくり返す。

 学校の演劇会で主役をやることになって、その前日のことだった。緊張で眠れなくなったアーチに、偶然帰っていた父さんがこっそり教えてくれたのだ。


『今から君に、世界で一番簡単な、誰にでも使える魔法を教えてあげよう。――それは変身魔法だ。よーいスタート、が魔法の呪文。その言葉で本番が始まった瞬間、君はずっと練習してきた主人公その人に変身する。そうしたら、もう間違いを恐れる必要はない』


 もちろん父さんは魔法使いじゃない。だからこれが、たとえ話で、心構えの話だったということは理解している。

 でも、


『大丈夫さ、アーチ。君ならできる。だってたくさん練習したんだろう? 魔法で現実は変わらないけど、正しく努力をしてきたなら、成功するために必要な勇気をくれる』


 そう言ってくれた父さんのことを、アーチはこの世で一番素敵な魔法使いなんじゃないかと思っていたのだ。ニュースで聞くだけの魔法使いより、ずっとずっと身近で格好良くて、最高の魔法使い。

 だから、自分に魔法の素質があると知ったとき、余計に胸が弾んだのに。

 アーチはしゃくりあげてしまわないよう細心の注意を払いながら、ゆっくりと深呼吸をした。毛布の暗闇の中で、決意を固める。ごおっと心が燃え上がって、それを涙が冷やすと、後には完璧な鋼鉄が完成していた。


(……僕は魔法使いになる。それから、俳優にもなる。誰よりも特別・・な人間になって――なって、父さんを見返してやる!)


 それまで絶対に誰にも負けないんだ、とアーチは強く心に刻みつけた。


 翌朝、父さんは仕事のために家を出ていった。アーチは寝たふりを決め込んで、生まれて初めて「いってらっしゃい」のハグをしなかった。顔を合わせたら絶対に学校のことを言われるとわかっていたし、改めて言われたら決意が揺らぐのではないかと思ったからだ。

 そうして三日後、アーチは入学申請書にサインをした。


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