2 父さんと魔法学校
いつになく
「不機嫌になったって無駄よ。誘拐されかけたあんたが悪いんだから」
「うるさいな。されかけてなんかないし」
アーチはゲームの画面から目を離さずに言い返した。
こんな監視体制が敷かれたのは、休暇の直前、アーチが魔法使いのおじさんと話していたのを、近所の人が見ていて母さんに教えたせいだ。また間の悪いことに、その次の日、誘拐事件が起きた。いなくなったのはアーチと同じ、十一歳の男の子。四十代くらいの男性に手を引かれていったのが目撃された、というのを聞いて、母さんの心配は頂点に達したのだった。(池に引きずり込まれかけたところは見られていなかったらしく、アーチは不幸中の幸いだとだんまりを決め込んでいた。)
誘拐犯が捕まるまで、監視体制は解かれないだろう。おかげでこの休暇中、アーチは一瞬たりとも一人で行動できていなかった。今だって、姉が友人の家へ行くのに無理やり付き合わされた帰りである。
「何度も言っただろ。僕が会ったのは魔法使いだった、って」
「不審なおじさんであることに変わりないじゃない」
「魔法使いが誘拐犯だったら、魔法を使って証拠を残さずやるに決まってる」
「どちらにしたって、あんたは無防備過ぎたのよ。自分がいかにも誘拐されそうな顔と境遇してるってこと、知ってる?」
「誘拐されそうな顔ってなに?」
「父さんそっくりってこと」
そう言われると、言い争っている最中にもかかわらず嬉しさがこみあげてきてしまう。アーチはにやけるのをおさえるために口をつぐみ、『不機嫌です』という顔を演じてそっぽを向いた。
「ただいま!」
無事に家に到着した二人を、玄関脇に掛かっていた真っ赤なナポレオンコートが出迎えた。それを見たとたん、アーチは演じていた顔を忘れた。姉も目をぱちくりとさせている。
「へぇ、めずらしい。クリスマスでもないのに、父さんが家にいる」
そのコートは父のトレードマークだった。真っ赤なコートの名俳優、といえば、イギリス中の誰もが彼の名を呼ぶだろう――エイブラハム・ウルフ、と!
父さんが家にいる! 思いがけない喜びを理解すると、アーチは緩んだほおを隠すようにゲーム機を持ち上げた。去年学校の演劇会で主役をやってからというもの、年に数度の父の帰りが待ち遠しくて仕方なかったのである。それまではおとぎ話としか思えなかった父の世界の話が、ドキュメンタリー、あるいは自分の未来のシミュレーションだと感じられるようになったからだ。
今日はどんな話を聞かせてもらおうか。とわくわくするアーチから、姉がひょいとゲーム機を奪った。
「あっ、なにするんだよ!」
「やりすぎ」
「もうちょっとでハイスコアだったのに――」
あまりの横暴さに抗議の声を上げた、その時だ。
「魔法使いだってっ?!」
殴りつけるような父の怒鳴り声が響き、二人はピャッと首を縮めた。
「ふざけるな! そんなこと誰が許すものか!」
アーチと姉は再び顔を見合わせた。先に事態を察した姉が“静かに”とジェスチャーをして、アーチの手を引いた。
リビングに忍び寄って、扉のすき間から中をのぞくと、母になだめられた父がちょうどソファに腰を沈めたところだった。あんなに動揺している父を見るのは――もちろん演技を除いて――初めてだ。アーチはなにかよくないことが起きているんじゃないかと思って、身を固くした。
父の前には白髪の女性が座っていた。見知らぬお婆さんだ。きっとあの人が原因なんだろう。アーチは注意深い眼差しを向けた。真っ白な髪をびしっと結い上げている。背筋をピンと伸ばして座っていて、眼光は稲妻のように鋭かった。厳しい人であるのは一目瞭然だ。アーチの中でその姿は、最近読んだ小説に出てきた厳しい魔女のイメージとぴったり重なった。
声も印象通りの、冷たく凍った感じだった。
「アンブローズ・カレッジへの入学のご案内に参りました」
アーチはキュッと眉根を寄せた。アンブローズ・カレッジ? それって確か、
「アンブローズ・カレッジはご存知の通り、素質ある子どもたちの魔力を正しく成長させ、正しい魔法使いを養成するために設立された学校です。英国政府にも正式な教育機関として認可されております。また、魔法使いの育成は政府の推奨するところですので、学費はすべて国庫よりまかなわれております。魔法の指導は当然のことですが、一般的な教養科目についても上流のパブリックスクールと同等のものが学べるカリキュラムを構成しております。細かなことはこちらをご覧ください」
その人は足元の四角い鞄から、きびきびとした動作でパンフレットを取り出して、それをローテーブルに置いた。父の目がじっとそれに向かっている。
アーチは混乱したまま、その息詰まるような時間を凝視した。魔法学校、入学、誰が? もしかして、自分が? 休暇に入るちょっと前、魔法使いの素質の検査があったことを思い出す。検査と言っても短い詩を読んだだけで、ちょっと拍子抜けしたのだった。詩は――そうそう、“坊やが笑う、ボートで攫う、帽子は空っぽつつがなし”だ。
そういえば、検査にきた人はこうも言ってた。素質が見つかった子のところには魔法学校の先生が行く、って!
それじゃあやっぱり自分が、なんて考えてドキドキさせていた心臓が、一気に冷えた。
「駄目だ」
断固とした調子で、父がそう言ったからだ。
「魔法使いになるなんて、絶対に許さない」
「ミスター・ウルフ、それを決めるのはあなたではありません。魔法使いになるか否かを決めるのは、素質を持つ張本人、アーチボルトくんです。あなたが許すか否かなど関係ないのです」
ついに自分の名前が出た! アーチは跳び上がりそうになった。けれど即座に続いた父の声に押さえつけられる。
「関係ないわけあるものか! 私の息子だぞっ?! それを、魔法使い? そんなものに、誰が、誰が……っ!」
言葉を詰まらせた父を見て、アーチはどうしたらいいのかわからなくなった。まだ事態を上手く飲み込めていなかった。自分が“魔法使いの素質”を持っているらしいということ。父さんが喜んでいないということ。その二つが結びつかなかった。だって魔法ってすごくワクワクするものだし、人の役に立つ
姉さんはどうだろう、とアーチは姉をうかがった。彼女は父と正反対に、大きく見開いた目をキラキラと輝かせていた。そして、
「すごいわ!」
と一言叫ぶと、アーチをぎゅっと抱きしめた。
「すごいわ、アーチ! あなた、魔法使いの素質があるのね! いいなぁ、羨ましいわ!」
そうだよね、と安心するような気持ちになりながら、アーチはまだ納得できていなかった。それならどうして父さんは喜んでいないんだろう?
リビングの扉がパッと開かれた。父さんだ。
父はアーチの前に膝をついて、彼の両肩をがっしりとつかんだ。真剣な目が、アーチをじっと見つめた。アーチはこの目が大好きで、それとまったく同じ真っ黒の瞳を持っていることを誇りに思っていた。けれど今は、なんだか怖くて仕方がなかった。
「アーチボルト。君は絶対に魔法使いにはなるな。魔法使いは、社会のルールから外れた危険な職業だ。魔法は、どんなルールも捻じ曲げて、真実も嘘にしてしまう、本当に危険なものだ。まともじゃないんだよ」
アーチは何度か瞬きをした。父の言葉はよくわからなかった。魔法が、まともなものじゃないだって? だって父さんは去年、一般人でも使える世界一簡単な
よくわからなかったから、とりあえず確認しようと判断した。
「ね、父さん。僕本当に素質があったの? 魔法使いになれるの?」
だが、父は取り合ってくれなかった。今までに見たことのない硬い顔をしている。アーチはひどく悪いことをしたような気分になって、身を縮めた。
「話を聞いていたのか、アーチ? 魔法はまともなものじゃないんだ。そんなものに関わって、お前までまともでなくなったらどうする! そんなことになったら、まともな幸せはつかめないぞ! それに……それに――」
「あなたが、アーチボルトくんですね」
父が言い淀んだ瞬間に、厳しい声が差し込まれた。
「こちらへいらっしゃい。あなたにも、同じ説明をしなくてはなりません。――どうあれ、全員が同じ条件で、同じ話を理解した上で、最終的な決定を下すのがフェアであると存じますが」
父はしぶしぶといった感じでアーチから手を離した。来いとも来るなとも言われなかったから、アーチはそのまま立ち尽くす。
母がソファの背から身を乗り出して、ちょいちょいと手招きをした。それでようやくアーチはソファに駆け寄った。
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