Laddish ――アーチと魔法学校、それからキッドナップ・ランタン

井ノ下功

1 キッドナップ・モンスター


 僕が魔法使いだったらよかったのに!

 アーチは走りながら、これまでに何度も考えたことを改めて思った。そうだったなら、この間ニュースにちらっと映った魔法使いみたいに、小学校プライマリースクールまで箒で一っ飛びできるのに!

 芝生を横切り、低い生け垣を軽やかに跳び越える。このブラウン・ストーン・パークの中を突っ切るのが一番の近道なのだ。特に、東にある小さな池のそばを抜けていくのが最もよい。イースターホリデーを先生の説教で始めるのは嫌だ。


「大丈夫、間に合う!」


 池が見えてきた。

 池は小さいのに深くて、ひどくよどんでいる。枯れたような不気味な草が年中しげっているせいで、どこまでが陸地でどこからが池なのかわからなくなっていた。だから子どもは近寄ってはいけない、と固く言われている。

 だが、遅刻するかどうかという瀬戸際にそんなこと構っていられない。そもそも普段から、度胸試しに、いじめにと、この池の周辺は人気スポットなのだ。こっそり近寄る小学生はすごくたくさんいるのに、今さら何に気を付けろっていうのだろう? 悪い妖精に引きずり込まれるぞ、なんていう文句も、アーチは子ども向けの脅しだと断じていた。


幽霊ゴーストはいるけど、別になにもしてこないし!)


 アーチは、池のふちにぼうっと突っ立っている人に向かって、ちょっと手を振った。その人は半透明で、向こう側の木々が透けている。ゴーストだ。古ぼけたつぎはぎだらけのスーツを着て、カビの生えたシルクハットを被っている。彼の姿が――春のうららかな朝っぱらから――見えるのは、決して特別なことではない。むしろ見えない人のほうが少ないくらいだ。

 彼は白くにごった瞳をアーチに向けた。いつも通り、うんともすんとも言わない。

 と、その時、


「ん?」


 アーチはふと足を止めた。ゴーストの足元にペン入れが落ちている。見覚えのあるオレンジ色のクマのストラップがついていた。


「あれは……スチュアートのだ」


 どうやらまたビルたちにいじめられたらしい。スチュアートは泣き虫の臆病者で、常日頃からいじめられているのだ。特にゴーストを怖がってべそべそ泣くのが、ビルたちにとっては楽しくて仕方ないようだった。

 アーチはムッとしてほおをふくらめた。つい先週も、いじめの現場を捕まえて思い切り殴ってやったばかりなのに、彼らはまだこりていないらしい。どうして彼らが自分の言う通りにしないのか、アーチには理解できなかった。正しいのは自分なのに。スチュアートもスチュアートだ。悪いのはビルたちなのに、どうして堂々と抵抗しないのだろう?


「しょうがないなぁ」


 大人ぶったため息をついてから、アーチは荷物を下ろした。ゆっくりとゴーストに近付く。

 とんちゃくなく近付いていくアーチを、ゴーストがじぃっと見下ろしてきた。その視線がなんとなく気になって、アーチは彼のほうをちらりと見上げたが、ぼさぼさの白ひげにおおわれた口元はぴくりとも動かない。


「それ、僕のクラスメートのだから。持ってくね」

『……』


 やっぱりだんまりだ。アーチは彼の足元にかがんだ。ペン入れは半分、ゴーストの革靴の中に埋まっていた。

 アーチは少しだけ心配になって、そっと首をめぐらせた。


「ねぇミスター。これ、取ったら痛い?」

『……』

「平気?」

『……』


 ひげの先が上下した――ような気がした。本当にわずかな動きだったから、見間違えたかもしれないと思ったけれど、これ以上どうしようもない。アーチはクマのストラップをつかんで、ゴーストの足の中からゆっくりとペン入れを引き上げた。

 その時だった。


『ぼぉあ』

「わっ」


 アーチはびっくりして顔を上げた。何も映していなさそうな瞳と目が合う。


「ごめん、やっぱ痛かった?」

『あぼぁい』

「え?」


 初めて聞いたゴーストの声は、口に布を詰め込まれているかのようにくぐもっていて、ひどく聞き取りにくかった。

 ゴーストのひげが神経質な感じに揺れ動く。


『あぶぁい』

「なんて?」

『あ・ぶ・な・い』


 危ない、と言っているのだと気付いた時には、もう遅かった。

 突然、ばしゃんと大きな水音が立ったと思ったら、ものすごい力で足を引かれたのだ。


「うわああっ!」


 反射的に踏ん張った靴の下で草が滑り、アーチはペン入れを放り出してしりもちをついた。そのすきにさらに足首を引っ張られて、ずるずると引きずられる。

 アーチは指と踵をぬかるんだ地面に突き立てて、必死に抵抗した。


「なん、だよ、これ……っ!」


 自分の足首をぎゅっとつかんでいる異様な手を見て、アーチは息をのんだ。それはミイラみたいに枯れた手だった。茶色くて、節くれだっていて、骨と皮しかない。なのにものすごく力強くて、こちらの骨がミシミシと変な音を立てている。爪が刺さっているようで、ひふが破ける痛みもあった。


「うっ……」


 アーチはこれまでに味わったことのない恐怖とあせりに駆られて顔をゆがめた。上級生に絡まれたって平気だった。学校一怖い先生に怒鳴られたのも、ちょっと突風にあおられたようなものだった。大木の上から落ちたこともあるけれど、ここまで怖くはなかった(すぐに気を失ってしまったから)。

 でもこれは違う。明らかに違う。一瞬でも気を抜いたらあっと言う間に引きずり込まれる――そして引きずり込まれてしまったら二度と戻ってこられない。そういうみょうな確信があった。


(どうしよう、なにか……なにか、つかむものとか……)


 必死に首をめぐらしたが、辺りにあるのは枯れ草ばかり。ゴーストすら姿を消していた。完全な一人ぼっち。アーチは奥歯をかみしめた。


(やばい、このままじゃあ……っ!)


 地面の上に、指とかかとが線を描いていく。枯れ草がガサガサと音を立ててほおを引っかいた。

 そして、


「あっ」


 スコンッ、と足元が抜けたような感じがして、爪先が一気に冷たくなった。その拍子に指が地面から外れる。わずかに浮いたような感覚――体が持っていかれる。

 こうなったらかみ付いてでも一矢報いてやろう、と思ったアーチは目をつぶらなかった。

 それで――枯れたトウモロコシの房のような髪に、ぎらぎらとした金色の目と、ギザギザの歯をした老婆が、ニタニタ笑いながら自分の足を引っ張っているのを――それから、ふと後ろから伸びてきた細長い棒が、老婆の眉間の辺りを指したのを――はっきりと見た。


雷撃せよblitz!」


 バチンッ!

 突然、ほの白い閃光がほとばしったので、アーチはびっくりして目をつぶった。強制的に閉ざされた視界の向こうから、身の毛がよだつ悲鳴が聞こえてくる。

 その間に彼はひょいと抱き上げられて、少し離れたところに下ろされた。

 アーチは光のせいで出てきた涙をこすりながら、ようやく目を開けた。


「大丈夫かい?」


 気づかわしげにアーチをのぞき込んだのは、見知らぬおじさんだった。たぶん父さんと同じくらいの年齢だろうと思ったけど、やわらかな感じのブロンドはだいぶうすくなっていて、ちょっと老けて見えた。お役所の人みたいにきちんとした格好をしている。

 アーチは彼にかじりつくようにして聞いた。


「おじさんって魔法使い?」


 さっきまで恐怖でドキドキしていた心臓が、今は興奮で騒ぎ立てている。


「ねぇ、そうでしょ? さっき電気みたいの出してたよね! それに、さっきのあの、あれ、なんだったの? あの池の……変な……おばあさんみたいな怪物!」

「よく見てたね」


 おじさんは驚いたように目を瞬かせてから、ほほ笑んだ。


「さっきのはこの池に住む悪い妖精さ。もう近寄っちゃいけないよ」

「それじゃあ――」


 矢継ぎ早に質問を重ねようとした彼をさえぎって、「足、痛いだろう? ちょっと見せてもらってもいいかな」とおじさんは親切にそう言った。

 アーチはしぶしぶ質問の矢じりを引っ込めた。白かった靴下は泥水を吸い込んで黒くなっていた。おじさんがそれを引き下げて、そっとハンカチを当てる。ぴりっとした痛みが走って悲鳴を上げそうになったけれど、彼はぐっとがまんした。

 泥水がすっかりぬぐわれてしまうと、指の形をした痣と、三日月状の傷痕が出てきた。老婆がつかんだ痕だ。不思議と血は出ていない。


「うわぁ……」


 それがあんまりうす気味悪かったものだから、アーチはふいとそっぽを向いた。傷口を見るのは好きじゃないのだ。特に自分のものとなると、なおさら。


「……君、魔法使いの家の子?」

「え?」


 唐突な質問に振り返ると、おじさんはアーチの傷口をじっと見つめていた。


「違うよ。父さんも母さんも普通の人」

「おじいちゃんやおばあちゃんは?」


 アーチはふるふると首を振った。おじさんはちらりとアーチを見て「そう」とうなずくと、足から手を離した。


「なんで?」

「いや、もしかしてそうなのかな、って思っただけだから。気にしないで」


 それからおじさんは親しげなほほ笑みを浮かべて、アーチの目をじっと見た。


「君、魔法に興味ある?」

「うん、もちろん!」


 アーチは即答した。魔法に興味のない人間なんているのだろうか? 不思議で万能で、きらきらと輝いている特別に最高な才能! 実際に見たのはさっきの電撃が初めてだった。それは彼の頭の中にあった“魔法”のイメージ――アニメやゲームに出てくるもの――とぴったり重なっていた。

 おじさんのくすんだグリーンの瞳の中に、アーチは自分の顔を見た。この辺りではめずらしいほど黒い髪と瞳は、自慢の父さんと同じものだ。


「教えてあげようか? 魔法」

「え、でも……素質がないとだめなんでしょ?」


 魔法使いには“素質”がある人しかなれない。そのことをアーチは学校で習ってよく知っていた。素質の検査も少し前にやったばかりだ。結果はまだ出ていないようだけれど。

 おじさんがきゅうと目を細める。その目がふとゆらいだように見えた。水面にゆれる光のように、微妙に色が変わる。図鑑で見た星雲みたいに不思議な色。金色がかっているようにも見えた。


「君だけ特別に」


 特別。特別! アーチはその言葉に胸を舞い踊らせた。大好きな言葉だ。特別!

 それで差し出された手を取ろうとして、


『ぼおあ』


 横から差し込まれたガラガラ声にびくりと肩を跳ね上げて振り返った。


『がっごお』


 ゴーストがとなりからおおいかぶさるように、アーチを見下ろしていた。何を言われているのかわからなくて首をかしげていると、ゴーストは繰り返す。


『がっ・こ・う』

「あっ!」


 アーチは顔色をサッと変えた。魔法を教えてもらえる機会を逃すのはちょっと――かなり――おしいけれど、無視できることでもない。もう授業はとっくに始まっているだろう。


「ごめん、おじさん、また、あの、縁があったら!」


 彼は飛び跳ねるように立ち上がって「痛いっ」とちょっとだけ呻くと、荷物をひとまとめに抱えて走り出した。


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