似た者どうし
(1)
閉塞感のある通路から階段を上り、外に出ると急に視界が開けた。薄暮の下、グラウンドが広がっている。その瞬間の、この光景が君枝は大好きだった。神宮球場の三塁側外野スタンドに入場した君枝は一番上まで登り指定席に腰を下ろした。この辺りは以前、自由席だったのだがコロナ過のせいだろうか。今は全席指定席になっている。幸いお目当ての席が取れて幸運だった。この席は君枝が十歳の時、野球好きの父親に連れられて初めて見たプロ野球・ヤクルトー広島戦のナイターで広島の江藤選手が打った本塁打が直撃した席なのだ。君枝は初めて生で見た本塁打に興奮し、以来、広島カープと江藤選手のファンになった。もっとも、その後、江藤選手はFAで巨人に行ってしまったが。
(それにしてもどうして、こう私が好きになるカープの選手は次々にFAでよその球団にいってしまうのか。)今更の話だし、選手の権利なので仕方ないのだが、フンンとしては、そう簡単に割り切れるものではない。それになんだか自分に男も見る目がないように思えてくるのである。
ショルダーバックから応援用の赤いユニフォームを取り出し、Tシャツの上から羽織る。(一体、何回買い替えたと思っているのよ。)背中の背番号は球団マスコットのスライリー。これなら絶対FAはあるまい。
シートノックが終わり、試合開始時間が近づくと案の定、カープ女子と言われる女の子達が赤いユニフォームを羽織り、赤い帽子を被って入場してきた。男連れだったりするのを見ると君枝は(チッ!)と舌打ちをする。 カープを応援する女子に、その愛称が付いた頃はまだ二十代ぎりぎりで、君枝も、自分もそうかなと思って喜んでいたのだが、三十路を超えた最近は“果たして何歳までカープ女子と名乗っていいのか問題”としての自分自身への問題提起になっていた。以来、彼女たちを見ると嫌な気持ちになっていた。
(私の方がずっと前からカープの応援をしているのにあんたらのせいで、こちらの方が“カープ女子に寄せた痛いおばさん”みたいに見えるじゃない。)ぶつぶつ言いながら先ほど買った生ビールをグイと飲み干す。このひがみを肴に酒を煽る辺りが充分おばさんなのだが。
(2)
「あら、君枝さん。こんばんわ。お元気?」
そう話しかけられて君枝は振り向いた。そこには品の良いシック且つカジュアルな服装の細身の女性が立っていた。
「あ、久子さん。久しぶりです。」
君枝は立ち上がって挨拶をした。案の定、来たなと思った。実は君枝がこの席を選んで購入したのにはもう一つ理由があった。この久子さんもその近辺の席の常連で会う可能性が高いと思っていたのである。久子さんは君枝より二十は年上の生粋のカープファンで、以前、たまたまここで知り合い、何度か同席したのだ。今日はうまい具合に君枝の隣席で話もしやすい。
「コロナが流行してから初めて?」
「二度目です。久子さんは?」
「月一ぐらいね。東京ドームも併せて。
でも神宮はいいわね。やはり野球は外で観ないと。解放感があるもの。」
「に、しても今年も厳しいですね。カープ。やっぱり監督ですかね?」
「そうねぇ。でも優勝した監督の次を引き継ぐのって誰も嫌なものよ。引き受けてくれただけでもありがたいと思わなければバチが当たるわよ。」
「はぁ。・・・」
(そうなのだ。久子さんはいつだって優しく温かい。私などより余程熱いカープファンなのに。)久子さんはあの懸案事項についてはどう思っているのかも初めて聞いてみた。
「あの、久子さんは何歳までカープ女子を名のっていいと思います?」
「そうねぇ。スクワット応援できなくなったらもう名のっては駄目よね。」
と言って笑った。そう、カープファンは何度も立ったり座ったりするスクワット応援をするのだ。
「じゃあ、やっぱりアタシも資格なしです。」
と言って君枝も諦めがついて、笑った。
「でも、人気があるのはいいことよ。」
「そうですかぁ?なんだかアタシのカープじゃなくなるみたいで少し寂しい気もします。」
「赤ヘルになる前、三年連続最下位で広島がセ・リーグのお荷物なんて言われていた時代の頃は悲惨よぉ。周りに誰も話が出来る相手がいなくて。私、小学生だったけど男の子たちはもっぱら巨人ファンで王さん、長嶋さんの話ばかり。只でさえ、東京で広島ファンというだけで珍しいのに女の子で衣笠さんや金城さんの話を出来る人なんていやしないもの。」
気が遠くなるほど昔の話だが、その時代をファンとして生きた人の実感であろう。君枝は自分の狭量を恥じた。
(3)
試合が始まった。
「てめぇ、どこ投げてんだ!怪我でもしたらどうしてくれるんじゃ!」
「ばっきゃろう!審判、何がストライクじゃ、ボケ!カス!」
「ざまーみろ!バーカ、バーカ!」
「いてもうたれ!オラ!」
「チンタラ歩いてんじゃねいよ!サッサとベンチ帰らんかい!」
これ、みんな久子さんのヤジである。そう、久子さんは試合が始まると性格が変わるのだ。初めて会った頃は呆気にとられていた君枝だったが段々感化されて一緒にヤジを飛ばすようになっていった。
「役者が違うんだよ!役者が!」
「何年、野球をやってんだよ!」
そのうち野球に関係ないことまで言うようになる。
「女だと思って下に見てるだろ!わかってんだよ!コッチは。」
「ちょっとばかり美人だからっていい気になるんじゃないわよ!」
「そのうち皆、おばさんになるんだからね!」
よほど普段、溜まっているものがあるらしい。
でも、日々、頑張って生きているのだ。これぐらいの鬱憤晴らしぐらい大目に見てあげて欲しい。
(4)
試合は接戦の末、カープの敗けで終わった。二人は帰る人の流れに乗って球場の外にでた。
「残念だったわねぇ。せっかく久しぶりに来たのに。」
元の穏やかな久子さんに戻っている。君枝もスッキリした気分で頷いた。
「ところでご主人、その後どうですか?」
「今月末には、こちらに来る予定みたい。」
「そうですか。久しぶりに直接話が出来て嬉しいんじゃないですか?」
「でも主人が来たら、あの人、巨人ファンですからね。また言い合いが始まってしまうんじゃないかしら。勝てる気がしないわ。」
「それはないと思います。」
「そう?でも、まぁ、楽しみかもしれないわね。」
暫く立ち話をした後
「それじゃあ久子さん。これで失礼します。」
「ええ。ごきげんよう。」
久子さんはそう返事すると次第にこの世から消えていった。その事に気づく人は君枝以外誰もいない。そうして君枝も信濃町の駅に向かって歩いて行った。
君枝の後姿を遠くから見ていたカープ女子二人がいた。
「あの女の人じゃない?私たちの後ろに座っていた人。一人でずっとぶつぶつ言ったり笑ったり変なヤジ飛ばしたり。どうかしてたよね。」
「年取っても、ああいうおばさんにはなりたくないわよね。」
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