浮かぶ
私は視力が良い方ではない。それでも、今そこに居るのが彼ではない事は分かる。
瞬きもせず、見開いた大きな目でこちらをただ見続けている。
事の始まりは、付き合っている彼の家に私が半ば転がり込むような形で同棲を始めたことだった。
出会ってから日が浅く、まだ時期尚早かとも思ったが、電撃が走ったような一目惚れだったために当時はいても経ってもいられず、まず行動に出たのだ。
そんなこんなで晴れて私の家にもなったこのマンションは、鉄筋コンクリート造りの1LDKで、中の広さも築年数も悪くはなく、対面式のカウンターキッチンが印象的な綺麗な部屋だった。
引っ越してきてからは私の荷物が少し場所を取ったが、それでも二人で住むには十分な広さがあった。
ベッドを始めとする家具なども新調したり、部屋の模様替えをしたりと、二人での生活を楽しみながら過ごしていた。
私は元来より少しズボラなところがあり、彼が家事などをこなしている時、ボケーッと横になりながらそれを眺めていることが多い。
彼がお皿を洗っていたりする時、それを眺めていると時折こちらに向かって微笑んでくれたりする、そんな他愛のない時間が私は好きで、彼に見過ぎだと言われてしまう程だ。
そんな彼は喫煙者で、部屋の壁を汚したくないから、とよく換気扇の下で煙草を吸っている。
カウンターキッチンの奥の方、IHコンロの真上に換気扇があるのだが、リビングと寝室のドアは常に開け放してあるため、ベッドで寝っ転がっていると一服する彼が見える位置にいる。
紫煙をくゆらせた横顔に見とれ、空間を切り取って保存しておきたいような衝動を抑えつつ、時間を忘れて眺める。それが何よりも至高の時間だった。
最初に異変が起きたのは、越してきてから間もない頃。
その日はお互い出かけており、疲れ切って帰宅したので、お風呂にも入らずすぐに寝室へ飛び込んだ。
決まって彼は寝る前に一服をするので、私はそれを眺めてから寝ようと思っていた。……のだが、抗い難い睡魔に襲われたのか、いつの間にかうたた寝してしまった。
次に目が覚めた時──夢うつつだったかもしれないが──暗闇の中に私は居た。
目もまともに開けれない眠さで、周りの状況はさっぱりわからないが、微かにいつもの彼の煙草の匂いがするため、視線をキッチンに向けると、やはり彼が居たようだ。
というのも、ハッキリと見たわけではないが、携帯の液晶ライトのようなぼんやりとした青白い光が見えたからだ。
そして目を凝らせ、彼の顔をよく見ようとして、違和感に気づいた。
寝る前はいつも寝ている私を気遣い、明かりをつけずに暗い中で一服する。
そのため、携帯をいじっていると、その液晶ライトで寝室側は見えない。
だから彼はこっちを向かないし、私が見ていることにも気づかない。
そのはずなのだが、その時彼はこっちを向いていた。ぼんやりとだが、目と目が合ったことを感じた。
いつもなら目があったことにすら喜びを覚える私だが、その時は何か違った。
そのまま数秒経っても、彼は目を逸らさない。微笑みの一つも返してくれない。
そのまましばらく、暗闇に浮かぶ青い顔と目を合わせ続ける。
おかしいなとは思いつつ、私も寝ぼけていたのでまあいいかと再び横になった。
結局それで私が目線を逸らすまで、瞬き一つしなかったように思う。
決定的におかしいと思ったことはその数週間後に起きた。
先日と同じような状況、彼が夜中の一服に行った時。
私はまた寝てしまっており、ハッとしてキッチンに目をやると、それはハッキリ見えた。
青白く暗闇に浮かび、こちらを凝視する彼の顔。
寝惚けていたため、その時もさほど気にすることはなく、再び眠りについた。だが、しばらく後に玄関の開く音に起こされた。
その音でこんどこそハッキリ目が覚めてしまい、体を起こすと彼が傍らにおり「起こしちゃった?」と訪ねてくる。
片手にはコンビニ袋を下げていた。
「え? さっき煙草吸ってたよね?」
私がそう尋ねると、彼は首を振る。
おかしい。先日の時よりも覚醒していたし、今日はその後すぐに帰宅した彼に起こされているので、意識はハッキリとしている。
確かに彼はキッチンに居たはずだ。煙草の残り香もした。
寝惚けてたんでしょ、と言われその会話は終わったが、私はどうにも釈然としなかった。
私の睡眠のサイクルは、夜型の彼と少し違う。彼と合わせようとすると、翌朝は寝不足になってしまう。
それでもなるべく彼と同じ睡眠サイクルに合わせようとしたのだが、やはりどうしても限界は来る。
昼間勤務中に居眠りしてしまうことが多くなり、無理だと思う日は早めに寝てしまう。
決まって、彼はその時に現れた。
あの日浮かぶ顔を見てからというもの、彼がいない時に限ってだが、それは現れる。
そうして数日が経ち、それが大きくなっているのがわかった。いや、大きくなった、では語弊があるだろうか。
正確に言うと、キッチンから寝室へと、近づいてきていた。
何回もそれを見るたびに思うことだが、それの顔は、どう見ても彼そのものだった。
たまにふざけて無表情になってにらめっこをする時があるのだが、その時の彼の顔にしか見えない。
そう思うと、不思議な現象ではあるが、大好きな彼の顔なら悪くはないと思うようになり、怖がることも段々少なくなっていった。
幾日か過ぎ、寝室の中にまで顔が浮かぶようになったある日。
暗くなった寝室の中で彼がベッド脇で立ち止まり、寝間着に着替える時、不意に顔が浮かんだ。
それは、彼の顔に重なっていた。
私の横に潜り込む彼は背中を向けているのだが、顔はこちらを向いている。
振り向かず喋りかける彼に合わせて、浮かぶ顔の口も動く。
そして、浮かぶ顔は初めて、口角をくいっと上げ、笑った。
私はそれを朧気に眺め、夢の中へ落ちた。
今でもたまに顔が浮かぶ時がある。だが、あまり恐怖は感じない。
彼ではない何か、なのかもしれないが、彼自身なのかもしれない。
言葉で表すのも難しいが、私の感覚はそう感じている。
今日は悲しみの表情と、怒りの表情を覚えたらしい。
横になって寝息を立てる彼の後頭部に浮かび、怒りの表情をこちらに向けている。
いつまでも変わらないそれを眺めながら、私は今日も眠りに落ちる。
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