仕返しの顔

 小学五年生の夏休みが明けたその日の朝、体育館での始業式が生徒の悲鳴で中断された。

 原因は、なんの前触れも無く突如として壁に現れた、顔のようなシミだった。


 寂れた田舎町にお似合いの古い木造の体育館で、壁は一面暗い色の木材で統一されている。

 なので浮かび上がったそれはシミと言うよりも、塗装剥がれの方がしっくりくるのかも知れない。

 正面ステージの真反対、バスケットゴールが掛かった後ろの壁に、体操時やフォーム確認のための鏡が張られている部分がある。

 鏡を守るために普段は両開きの扉が閉じられているのだが、その片側の扉の丁度真ん中辺りにそれは浮かんでいた。

 目と鼻、口の部分だけの色は残り、顔の輪郭の色だけが薄くなっていて、誰がどう見ても顔に見える。

 目は少し垂れ目で、鼻の形はニンニク、口元は口角のあがった笑顔のようだった。

 先生たちは気にも留めず塗装業者に相談するだの言っていたが、生徒達はひたすらに熱狂した。

 退屈過ぎるうちの学校にもついに七不思議が出た、と。


 しかしみんな不気味がって怖がるのも最初の数日だけで、それからは段々とおふざけの対象へと変わっていった。

 タレ目でニンニク鼻の笑顔と来れば、いくら気味が悪かろうが見慣れた小学生相手にはもはや滑稽にしか見えない。

 ブサイクだのなんだのとバカにしたり、その顔のモノマネをしたり。

 クラスのやんちゃ坊主が率先してふざけ出すと、最初は不気味がっていた子たちも緊張が解れたのか、次第に一緒になってふざけるようになっていった。

 それを見かねた僕らの担任のS先生が、ある日の放課後にペンキで顔を塗りたくってしまった。

 その当時は、顔がなくともオカルトブームが世間に浸透していた頃だったし、こっくりさんでの集団ヒステリーが話題になったりしていた。

 教員の立場からしてみれば、いらぬ騒ぎの元凶になるものは潰しておきたかったのだろう。

 ましてやそういうことを信じないS先生は、野次馬に集まっていた幾人かの生徒たちの目の前で顔を消してみせた。

 やんちゃ坊主組たちは先生カッケーというふうに囃し立てていたが、僕も含め何人かは少し不安がっていた子たちもいた。

 別になにかがあったわけでも、なんの謂れがあるわけでもない。だがしかし、なんとなく嫌な予感がしていたのは確かだった。

 そして、その予感は当たってしまった。


 S先生は次の日から学校を休んだ。

 理由は詳しく聞かされなかったが、別に大したものではないようで、しばらくは家で安静にしているとの事だった。

 誰が火付け役か、その日からすぐに学校中で顔の話が噂として広まっていった。体育館の顔のシミは呪われている、と。

 事実、塗ったはずの顔が同じ位置から同じ用に現れていたのだから、噂の信憑性により拍車がかかる。

 そして、学校内で霊感があると言われていたKちゃんの元にみんなが集まるようになっていった。

 話題はもっぱら例の顔についてで、やれどんな霊がいるか、どんな呪いなのか、矢継ぎ早に質問攻めされていた。

 だがKちゃんはいつも決まって「何も感じない」と言って皆を追い払っていた。

 僕も一度野次馬気分で友達と一緒に彼女の元を訪ねたが、うんざりといった様子ですぐに追い返された。

 そうしていくうちに、彼女は"なんちゃって霊感少女"というレッテルを貼られ、次第にクラスでも浮いた存在と化していってしまった。

 もっぱら本人は全く気にしてない様子で、あっけらかんとしていたが。


 それからしばらく経ち、ある事件が起きた。

 活発でスポーツ万能なクラスの男子Hくんが、足を捻挫したのだ。

 それ自体は学校生活の中ではよくあることだが、保健室に運ばれるHくんを見ていた女子の一人が「本当だった」と呟いたのが気になった。

 そしてHくんの事件を皮切りに、学校中の生徒が怪我や病気などで休むことが劇的に増えていった。

 こうなると最早、学校中が連日顔の呪いの話で持ち切りになってしまった。


 ある日の放課後、僕は友達のDに連れられてKちゃんの元へ行くことになった。顔の呪いのやり方を聞くのだそうだ。

 Dは、霊感少女ならなにか知ってるはずだと息巻いていた。

 放課後の校庭の隅っこで、いつもは快活なはずのKちゃんはその日、いつもと違って暗い表情をしていた。

 顔の呪いは本当にあるのかと尋ねると、彼女はハッキリと言った。

「そんなもの無いし、あれは多分ただのシミだよ」

 Dはその言葉を聞いて納得しなかったのか、どうやれば呪いをかけれるのかをしつこく聞いた。

 Kちゃんは少し黙って考えてから返事をする。

「放課後、体育館を覗けばわかるんじゃないかな」


 黄昏時、差し込む西日が体育館内をわずかに照らしていた。

 学校の正門をくぐり抜けて左手に回ると、体育館の側面に出るのだが、そこは少しだけ周りの地形より小高く、下校する他の生徒や見回りの先生たちの目にあまり留まらない。

 僕らは三人で体育館の壁に持たれて座り込み、Kちゃんが動き出すのをただ待っていた。

 途中でDが銀杏を踏み、辺り一面に強い銀杏の臭いが漂っていたのをよく覚えている。

 辺りは静かだった。聞こえるのはいちょうの葉が風に舞う音と、僕らが時折鼻を啜る音。

 しばらくそうして何もせず、かと言ってこれから何をするのかも教えてもらえないまま、僕らはただ待った。


 西日が雲に隠れ、暖かかった日差しが消えたなと思ったその時、Kちゃんが肩を引っ張った。

「あれ見て」

 Kちゃんが小さく指を指したその先には、窓ガラスを挟んで体育館内の景色が広がる。

 先程までは西日がガラスに反射し、中の様子は見えにくかったのだが、丁度曇ったタイミングでは中の様子はハッキリと見て取れた。

 入ってきたのは四、五人ほどの女子たちだ。自分と同じクラスの子も、そうでない子もいる。

 彼女らは一様に、例の壁の方を向いて何事かコソコソとしている。

「何やってんだ、あれ?」

 Dが少し身を乗り出したとき、中にいる女子たちがこちらに向きそうになって、慌ててDの頭を引っ込めた。

「見つかるでしょ、バカ」

 Kちゃんに咎められ、渋々ながらも身を潜めるD。そしてその間も、女子たちは周りに誰かいないかを警戒し続けていた。

 そして女子たちの動きは止まり、今度は何かをボソボソ喋っているようだった。

 閉められた窓を挟んでいるため、何と言っているのかは全く聞こえない。

 そこでまたしてもDが窓に手をかけた。どうやら何を言っているのか聞こうという魂胆らしい。

 Kちゃんは一度Dの腕を掴んで止めたが、一瞬躊躇った後、小さく頷いた。続けて、人差し指を唇に当てる。

 運のいいことに、窓は鍵が空いていた。Dがゆっくりと隙間だけを作る。

 今度は、女子たちが何と言っているのか微かに聞き取れた。

「……に、罰が……りますよう……」

 断片的にだが、それだけしか聞き取れなかった。

 どうやら同じ文言を繰り返し繰り返し、何回も呟いているようだ。

 最初はあれだけ周りを気にしていた女子たちだったが、今はもう全く周りを気にせず、呪文のようなものを唱え続けている。

 まるで何かに取り憑かれたように。

 しばらくそうして呪文のようなものをひとしきり唱えた後、女子たちはまたゴソゴソと何事かやっている。

 すると次の瞬間、彼女たちの中心で勢いよく火が燃え上がった。

 間髪入れずに、その中のひとりが火の点いた布のようなものを力いっぱい、あの顔に目掛けて投げつけた。

 その子は形で息をしながら、何回も何回もそれを繰り返した。

 やがて火が大きくなったかと思ったら今度はペットボトルらしき容器を取り出し、中の液体をぶちまけた。

 火は瞬く間に消え、女子たちもまたすごい勢いで体育館を後にした。

 僕らは呆気にとられ、しばらく固まった。

 どうやら想定もしていなかった事が起きたようで、誘ったKちゃんも明らかに動揺していた。

 僕らは目を見合わせ、しばらくお互いに何も言えぬままただ突っ立っていた。


 次の日、別のクラスの女の子が大火傷をしたとかで入院することになってしまったらしい。

 幸いにも命に別条はないらしかったが、一時クラスは騒然となり、呪いがいよいよ本格的になってきたと大盛りあがりだったが、僕らは全く笑えなかった。

 それからもしばらく誰かが怪我をしただの病気になっただの交通事故に遭っただの、色んな事件が一通り起きたが、歳を重ね、小学校を卒業する頃にはもう、いつの間にやら例の顔の話は誰もしなくなっていった。

 そうして噂はただの噂になっていった。


 あれから十数年が過ぎ、小学校の同窓会の席で僕はDとKちゃんに会った。

 小中一貫校だった僕らは同じ中学に上がったものの、思春期が訪れたためかまともな会話はなく、三人とも違う高校に通ったため、こうして会うのはとても久しぶりだったため、思い出話に花を咲かせた。

 そして避けられない、例の顔についての話題になったとき、三人で一斉に顔を落とす。

 他のみんなはあまり詳しく覚えていないようで、笑い話の種にされていたりした。

 少ししてからKちゃんが口を開いた。

「……縁結びの神社とか、行ったことある?」

 Kはその体質からか、そういう場所などに興味があったらしく、各地の神社仏閣、パワースポットなどを趣味で訪れているそうだ。

 その中でも、ご利益に肖る目的で、それこそ縁結びであったり、家内安全、子孫繁栄、様々なご利益スポットも見てきたという。

「でね、そういう何かご利益がありますよ~ってとこは、凄いんだ。"願いを紙に書いて貼って下さい"とかって案内されてる岩とか」


 人が抱く強い想いや願いは言葉を通って力を持つ。

 古くからある言霊という言葉が示すように、人の持つ言葉には力が宿るという考えを、Kは信じているらしい。

 だけど、その想いが強くなりすぎると却って良くないという。

「例えば、○○君が彼女欲しい!って強く願うとするよ? 最初はいい人が見つかればいいな~って簡単に願うかもしれないけど、想いが強くなりすぎると、やがてそれは妬みに変わるの。どこそこのカップルが仲良さそうでいいな、自分は独り身で寂しいのに。あの彼女が別れてこっちにくればいいのに……ってね」

 そして妬みはやがて恨みになり、怨念になっていく。

 人の想いや願いは強すぎるとやがて、誰かの不幸によって自分だけが幸せになるように変わっていく、と。


 Kちゃん曰く、本当にあの顔からは何も感じなかったが、日が経つにつれてドンドン空気がおかしくなっていくのを感じていたそうだ。

 無いはずの場所に無いはずのものが作られていく。

 最初は誰かの妄想だったはずの"顔の呪い"は、それを無意識に信じる人達の想いが作り上げてしまったものだった。

 やがて願う人達の都合のいいように、自分が幸せになれるよう逆に周りの人間を不幸にする、"仕返しの顔"になっていったのだ、と。

 事実、その後あの顔を誰も噂にしなくなると、大きな事件も起こらなくなっていった。

「俺、実はあのとき、仕返しの顔の儀式、やろうと思ってたんだ。ムカつくヤツが居たから、つい……。でもあの日、○○とKと一緒にあの光景を見たとき、めちゃくちゃ怖くなったんだ」

 酒に酔っていたはずのDの顔は、その時だけ青くなっているように見えた。


「何かを願う時は気をつけてね」

 同窓会からの帰り道、Kちゃんの言葉が頭をよぎる。

 自分も今、無意識に強く何かを願いすぎて、誰かの不幸をつい願ったりすることはないだろうか。

 いまでも時折、銀杏の臭いがする季節になると、あの日のことを思い出す。

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