タイムトラベラー

@yoshigami

タイムトラベラー

その瞬間を、今でもありありと思い出せる。死体になった私の恋人は、私の頭がその光景を理解して処理するまでずっと目を開けていた。

3年が経ったのに、つい五分前にそれが起こったように感じられてくる。彼の持つ時間は止まったはずなのに、残された私には彼がタイムスリップを繰り返して追いかけてきているように感じられる。


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彼はその日もいつも通りの猫背で私の隣を歩いていた。「午前中に終わった始業式が、次の日から始まる二学期のもつ鬱屈さをさらに暴力的にしている気がして参った」、彼の話をろくに聞かずに、幼稚なセリフ回しをこうして似非文学的に補完してしまうのが私の癖だ。私は彼のどこを気に入っているのかはわからないが、一年前から彼と交際している。本来高校二年生のカップルなんてものはご丁寧に交際期間を月ごとに数えるものなんだろうけど、わたしにはそれが面倒で、もしくは面倒だと思っている自分の姿勢を気に入っていて、大体一年ぐらいだなあと思っている。

「もうそろそろ俺らも一年半になるな」

彼がそう言った。へぇ、と思った。

「そうだねえ」

私はわざと今気づきましたよという感じで返した。本当は大体それくらいの時期なんだろうと知っていた。意識下よりもさらに奥のほう、「そんな気がする」という事象が詰まっている、脳の奥のほうにずっとそれを覚えていた。こうやって興味なさそうに返して彼をもったいぶる、そして彼が少し悔しそうにする。それが私たちの〝ノリ〟だ。こういう会話を飽き足らず、会うたびに繰り返すのがたまらなく幸せなのだ。なんだか世間では価値が高いとされていて、よく天災に粉々にされている「いつも通りの幸せ」がまさにそこにあることに、すごく優越感を感じるのだ。これもいつか消えてしまうんだろう、と未来に思いを馳せる日もある。でも、そんなことは意味がないって知っているから、今のこの時間をすごく美しく思う。

「え、もしかして忘れてた?ちょっと、つら…」

「ふふ…」私は本当に笑った。

そんな会話をしていると、彼のマンションに着いた。彼は効きが悪いボタン強めに押してみせて、自分の部屋番号にインターホンをかける。そうして彼の両親が家にいないことを確認する。万が一返事をしてきた時のために私はカメラに映らない位置に待機しているし、彼も「鍵を学校に置いてきた」という嘘を準備している。これが私たちが彼の家で過ごすときの、いつも通りのルーティーンだ。

エレベーターの中で、いつも私はなんとなくモニターに映っている自分たちの姿を見てしまう。少し前にそれに気づいた彼は、それから毎回カメラに向かって変顔をする。私はそのかわいらしさに悶えるのを毎回噛みしめながらほんの少しのほほえみを見せる。これも私たちの〝ノリ〝だ。ああ、幸せだなあ、そう思いながら彼の家の玄関を通り、彼の部屋へと向かう。

最初は変な味に感じた彼の家の麦茶にももう慣れたし、トイレに行くときにも立ち上がってドアを開けてから「トイレ借りるね」と言う。そういう風にだんだん慣れていった。いまでは特に会話もせず二人で別々の漫画を読んでいるだけの日もある。まあそれでも一時間ほど経つと、彼のほうから「誘われる」のだが。

今日もそういう一連の流れをして、私は疲れた体を持ち上げてドアを開けた。

「トイレ借りるね」


彼と交際を始めてから長い時間が経ったことを改めて実感する。トイレの壁に飾っている家族写真にも見慣れたし、私が用を足している最中に彼が電気を消してくるといういたずらにも慣れた。しかし今日は来ないみたいだ、彼の部屋がある方から音がする、またクローゼットに隠れたりしてるんだろう。そういういたずら心もかわいらしくて大好きだ。


ドアを開けて戻ると、背筋をピンと伸ばして立っている彼がいる。床には、今日私がじゃんけんで勝ち取って座っていた椅子が倒れている。今日はどんないたずらなんだろう。でも、彼はなにをしてるのか、不自然だな、と思ったのはほんの一瞬で、私はすぐに気づいてしまった。息が止まったような気がして、「ああ、今日だったんだ」と思った。彼の首からはロープが伸びていて、いつも見ている猫背からは見慣れない姿勢で浮いていた。彼は泡を吹いて死んでいた。


彼がずっと残酷ないじめを受けていたのは知っていた。それを告白されたのも最近のことじゃない。何もしなくていいと言った彼は、その裏腹に少しでも救われたくて私に打ち明けたんだろう。でも彼が受けているその悪辣さは私には到底止められないものだとわかった。私が彼にとっての唯一の生きがいになりかけていることも気づいていた。私は怠けていたんだ。

いつか来るかもしれないと思っていたこの景色を思ったよりも冷静に受け止めた。もしくは冷静に受け止めたがっている。おかしいな。呼吸をするのにこんなに体力を使っただろうか。綺麗に動かない指で自分の顔を触ってみる。やけに硬くて冷たい。目はしっかり前を向いているだろうか。視界が歪む。頭が重い。両足が縛られているようにつまずいてしまう。絶望と名前がついている引力が、床のさらに下のほうに位置していて、私の全身を重くさせる。上半身から床に引きずり込まれる。ドロドロに溶けてしまったような脳に電撃が走り、私は一つのことを思い出した


明日から二学期が始まるんだった。あの話をしていたとき、彼はどんな顔してたんだろう?




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月に一度ここに花を買いに来るのが、カレンダーに書かないと忘れてしまうようになるまでにはあとどれだけの時間が必要なのか。


「犬にも怖がって触れなかった君に、そんな勇気があったなんて知らなかったよ。」

私の頭はロープを潜り抜ける。

「あなたの手も自分から握れなかった私に、こんな勇気があったなんてね。」

私は思い切り椅子を蹴飛ばした。

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