第2話 エネシアという少女

 バシンっバシンっっ!


 台に乗って、包丁を手に危うい手つきで食材を切っていく女の子――エネシアは、まだ七才の少女であった。


 髪は珍しい銀に近い白色はくしょくで、非常に美しいのだが手入れが行き届いておらず、くすんだ色味をしており、おまけに毛先も縮れて後ろ髪がだらしなく肩まで伸びきっている。


 瞳もラピスラズリを彷彿ほうふつとさせる澄んだあおなのだが、ハイライトが消えかかっており素材を活かしきれていない美少女といった容姿だ。


 そんな残念美少女のエネシアが切っているのはトーストに使う野菜たちである。


 つまりエネシアは朝食を作っているのであった。


 遠くでコカトリアが鳴く。


 この鳥はいつもこのくらいの時間になると鳴くのだ。この鳴き声がすると、いつも決まって起きてくる者がいる。


 エネシアは季節が冬であるにも関わらず、全身に冷や汗をダラダラと流した。


 あの人が起きてくる……!


 その時、バタンと扉が開く音がした。


 エネシアは料理をしていて気がつかなかった風を装うため、決してそちらを見ないよう努めた。手の中で野菜たちが不必要に細切れになっていく。


「おい」


 男の、低く腹の底まで反響するような声が飛んできて、エネシアはビクンと震えた。


 気づかないフリをするために野菜を切り刻んでいた手が、思わず止まってしまう。


「主人が起きてきたのに挨拶の一つもなしかあ!? えぇ!?」


 男はエネシアのすぐ横まで来ていたようで、怒声が激しく耳をつんざく。


 その時思わず包丁を握る手を離してしまったのは幸いか。


 直後、エネシアは吹き飛んだ。


 一瞬のことに訳がわからなくなっていると、背中に猛烈な痛みが走って床に倒れていることに気がついた。


 どうやら男に蹴り飛ばされ、台から落とされたらしい。


 エネシアはゆっくりと振り返った。


 身長およそ二メートル、横幅はエネシア三人分はあろうかという真っ赤な髪の大男が、顔を髪と同じ憤怒の色に染め上げエネシアを見下ろしている。


 仁王然としたその姿にエネシアは唇を震わせ必死に挨拶の言葉を紡いだ。


「お……おは……おはようごじゃいます……」


 震え呂律も回らず涙ながらに挨拶するのを聞き届けて、男は「ふんっ」と鼻から息を吐き出し去っていった。


 男の背中を見上げながら、ヒリヒリと痛む背中を押さえ咽せる。恐怖で膝をガクガクと震わせながらも、壁に手をつき精一杯立ち上がった。


 そうしてなんとか再び台に乗ろうと足を上げたところで……


「朝からなに?」


 今度はエネシアよりも幾分か大人びた欠伸混じりの少女の声が、さっき男が去って行ったのとは別の方向から聞こえてきた。


「エネシアがな」

「ああ、いつものね」


 男が少女に説明しているのを耳に、ようやく台に乗れたエネシアは野菜切りを再開する。


「実の子でもないのに家に置いてやってるありがたみのわからない恩知らずが」


 男の嫌味な言葉がエネシアの胸に突き刺さる。


 男はエネシアの父親であったが、実は血の繋がりはない。


 そんなことが判明したのは、エネシアに物心がついた時だった。


 エネシアの生まれたカトラリー家は、火のスキルを持つ家系である。


 スキルというのはこの世の全ての人間に与えられた『科学で証明できない異能の力』のことで、火、水、風、毒、力、人の降順で価値が割り振りされている。


 そのうちの火のスキル持ち、ということでカトラリー家は村の中で絶大な権力を有していた。


『権力者は同じスキル持ちの人間としかまぐわってはならぬ』


 これは、この村どころか国で取り決められた一種の規則であった。


 エネシアの父親――カタストロフもまた、その規則に則ってエネシアを授かった……はずだった。


「それ、お父さんよく言ってるけどどういうこと?」


 向こうで、姉――プロシアが不思議そうに聞くのをエネシアは唇を噛みつ聞いていた。


 エネシアはスキルを持っていない。


 通常、同じスキルを持つ者同士でできた子供は同じスキルを持って生まれてくる。そうでないのはあり得ない。現に、プロシアは火のスキルを持って生まれてきた。


 六つのスキルの中で、火と水のスキルに関しては簡単に判別ができて、該当するスキルの所持者は火(或いは水)を生み出すことができる。


 それがエネシアにはできなかった。


 このことから導き出される事実は、エネシアはカタストロフの実子ではないということ。


 カタストロフは即刻妻に別れを切り出し、村から永久追放とした。


 だが、まだうら若きエネシアは戸籍上親子という関係がある以上育てなくてはならない。


 それがカタストロフには苦痛で仕方なかった。


 カタストロフは本当に妻を愛していた。だからこそ、不倫という形で最愛の妻に裏切られたことに抑えきれない怒りが渦巻いたのだ。


 カタストロフは忘れようとしていた。


 だが、その事実は消えることなく残り続ける。


 エネシアが存在する限り――


「何回も教えてるだろう。エネシアはオレたちの家族じゃないんだ」


 それが聞こえてくる度、泣かないよう堪えるエネシアであったが、気持ちと反して目からは涙が溢れて止まらない。野菜を盛り付けるパンが涙で濡れてぐじょくじょになる。


 腕でまぶたを拭って、ようやく盛り付け終わったパンを熱するだけになったところで、再び男の怒号が響いた。


「おい誰だオレの酔い覚まし使ったやつはあ!!!」


 足音がドスンドスンと近づいてくる。


 身に覚えのあるエネシアは再び全身に冷や汗をかいた。


「それなら昨日酔っ払ったお父さんが私に飲ませてたじゃない。オレの薬が飲めねえのか!とかわけわかんないこと言いながら」


 するとなんとプロシアが答えた。


 それはエネシアには身に覚えのない出来事で、姉がエネシアを守るためにでっち上げた嘘である。


「そうだったのか? 悪い。昨夜のことは記憶がなくてな……」


 膨らんだ風船が急速にしぼむように、カタストロフの怒気が徐々に落ちていく。


 カタストロフは唯一の自分の子供であるプロシアには頭が上がらない。

 手塩にかけて大切に育ててきた愛娘なのだ。


「ちょっと、ひとっ風呂浴びてくるわ」


 エネシアが、ひとまず怒られる危機が去って胸を撫で下ろすと同時、遠くで男が言うのが聞こえた。


 エネシアの脳裏に昨日の記憶が蘇る。


「いってら――」

「おきをつけていってらっしゃいませ!!!」


 プロシアが言おうとするのを遮って大きな声で送り出す。


 すると……


「バカか! それは仕事に行く時だっ!」


 男の怒鳴り声が帰ってきて、バタン!と勢いよく扉を閉める音だけが残る。


 そんなことを言われても幼いエネシアには仕事をこなすだけでもいっぱいいっぱいで、どの時にどの言葉を使うのかまで頭が回らない。


 また今日も怒られてしまったとエネシアががっくり肩を落としていると、優しい声が隣にあった。


「勝手にお父さんの使っちゃダメじゃない」


 振り返ると、プロシアがエネシアを叱っていた。


 父に似た、黄昏たそがれ色の髪にエネシアと同じ白色のメッシュが入った美少女が、頬を膨らませて腰に手を当て立っている。


 翡翠色の瞳に見つめられ、エネシアはゆっくりとこうべを垂れた。


「ごめんなさ……いたっ!」


 直後、おでこにちょっとした痛みが走った。顔を上げてみると、プロシアがデコピンの形を手で作っている。


「家族なんだから、そういう他人行儀みたいなのやめてよ。いつも言ってるでしょ?」

「でも、おとうさまが……いたっ!」


 今度は少し強めのデコピンが飛んできた。


「そんなことに口答えしないの」


 プロシアの言い方は優しいが、それでも怒っているのがはっきりと伝わってきた。


「ごめん……」

「わかればいいの。それより手伝うよ。後何すればいい?」


 プロシアは台所を見回した。


「あとは、パンをやくだけ……」

「じゃあ少し寝てなよ。後は私がやっておくから」


 エネシアを気遣うように言ってくれるプロシア。


「でも……」

「でもじゃない! どうせ今日もロクに寝れてないでしょ? だったら休む!」


 デコピンを食らってもなお台所から出て行こうとしないエネシアを押してプロシアは自分の部屋に連れて行く。


「私が迷惑するから。これでいい?」


 人に迷惑をかけるなと教えられてきたエネシアにはこれに対しての反論の言葉はない。それに、本当はとても眠たかったこともあって、これ以上抗うことなくプロシアに従った。


 ドアを開け部屋に入る寸前、エネシアは口籠もりながらプロシアに伝えた。


「さっきはありがと……」


 プロシアは「へ?」と驚いた顔をしたが、その後柔和な笑顔を向けて言った。


「もう何百回も見てるからね。お父さんが言い淀むような嘘は千個ほど用意してあるわ」


「だから安心して。おやすみ」


 静かに、そっとプロシアがドアを閉める。


 プロシアの部屋はエネシアの部屋より広く、物が充実していた。


 だが、エネシアはそれを見るまでもなく布団に倒れ込み、目を閉ざすと、ものの二秒で夢の世界に落ちていった。

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