第29話 「薄っすらとそれは走る」

IDの喪失。


ここに来たときに僕もその状態に陥ったが、あれほど困った事態はなかった。


仮想空間にいることの方が当たり前の今、IDが現実世界と仮想空間を繋ぐ手段であると同時に、生活のすべてにおける鍵になっている。


モノを買うにしても、使うにしてもすべてIDと認証を通して行われるため、IDを失うことは実生活におけるすべての喪失と同義となる。


幸い、僕は蓮花さんのおかげでどうにか生きてられるけど、そういうバックアップがないとなると、いよいよ露頭に迷うしかなくなる。


じゃあ、蓮花さんが助けられるか、って話になるかもしれないけど、さすがにこの人数をどうにかできるほどゆとりはない。まして、つい昨日まで戦場の真っ只中にいた連中だ。どんなことをしてくるかわかったもんじゃない。


そもそも僕は彼らを全く知らない。いや、知っていたとしても、もはや意味はない。


ハンターのようにギラついた目をしている彼らを招き入れることなんてできるわけがなかった。


「なあ。翔はどこにいたんだ?結構探したけど見つかんなかったぞ?」

「そういうお前こそどこにいたんだ?」

「俺か?結構は端の方、ああ、この辺だな」

「マジか!真逆じゃねえか!」


ひと際大きな声が聞こえた方に目を向けると、男子たちが集まっていた。どうやら近況の報告をしてるらしい。


女子たちも似たようなモノで、それぞれで集まっては話をしているようだ。


パッと見れば極々普通の光景。ありふれた日常。


けど、それは間違いなく今までのそれとは大きく異なっていた。


先生が戻って来た。


「え~……っと。状況が全くつかめないから、一人ずつ話を聞かせて。こっちから順番に呼ぶから呼ばれたら来るように」


先生は廊下側の一番前にいる生徒を連れて、教室から出ていった。


「あ、そうそう。花村さんたちはさっきの課題やっておいて。期限は来週の帰るまで」


先生はそう言い残すと、今度こそいなくなった。


「課題?」


優佳さんの前にいる女子が僕らの方を向いた。


「アンタらがいなかったから授業そのものがなしになってたの。これはテストの代わりだって」

「ふうん」


と、男子が僕らのところに来た。


「課題だあ?俺たちが死にまくってクソ大変だったってときに来ないでんなのやってんのかよ?ギルマスなのに」


ゲームがはじまる前は大人しい雰囲気だったはずの男子が険しい顔で手元の課題を指した。


「はあ?」


優佳さんは課題から目を離すと、男子を睨みつけた。


「死にまくって大変だった?それで?」

「あ?」

「それで何が大変だって?」

「あ?」

「ただ死にまくって大変だったんだったらアタシの方が死んでるっての。で?アンタは?まさかただの的だったわけじゃないでしょ?」

「当たり前だろ」

「じゃあ言えるよね?なにが大変だったの?なにが起こってるのか報告してって言ったのに、言ったことすら守れないほど忙しかったんでしょ?なら今報告して。なにが起きてたの?学校に来るのを忘れるくらいの何かがあったんでしょ?」


男子は声を詰まらせた。


「クラフトとFPSに分かれるって話は聞いた?」


と、静まり返った教室で女子が優佳さんに聞いた。


「聞いた。クラフトは守られる代わりに装備と建物を作って、FPSは要するに用心棒でしょ」

「って最初は思ってたんだけど違うんだよ」

「違う?」


聞いた話をまとめると、FPSサイドは壊れたヒューマノイドという敵の存在があって、それからクラフトが作った建物を守るってのがメインのゲームだったらしい。


けど、時間が経つごとに経験値やスキルが生み出され、それに応じた武器や装備が生まれるようになった。


こうなると後は必然的にいいスキルを持つ――高性能な装備や防具が作れる――人の奪い合いがはじまった。


「まあ、当然だけどスキルはクラフトだけじゃなくてFPSの方にも追加されたの。あとはわかるよね?」

「ふうん。で、スキルってことは経験値依存?」

「そ。スキルはレベル付き。ま、コレもゲームならよくあるアレよね」


ただ、わかってるのはそこまでで、それ以上新しい情報が出ることはなかった。


「ふうん。わかった。ありがと」


聞いた話だけを抜き出せば特にはまり込む要素はないように聞こえる。


「あ」


と、別の、今度は男子が手を挙げた。


「なに?」


視線が一気に男子に向けられると、「ひっ!」とおびえるような声を上げた。


「あ~……ちょっと聞いてくる」


優佳さんは男子のところまで行って話を聞くと、目を見開いた。


「え?それマジで?」

「気になったから調べたんだ」

「それっていつの話?」

「最初……や、いつだったっけ?少なくともアップデートより前、最初に近いとは思うけど」

「や、いい。それ、ずっとそのままだったんでしょ?」

「え?ああ、うん」


男子が頷くと、優佳さんはお礼を言って席に戻ってきた。


「ナオ、一応聞くけど仮想空間と現実世界の時間って同じだよね?」


席に座るなり僕に聞いてきた。


「って聞いてる。どうやってるのかは知らないけど」

「時間を一か所だけずらすってできると思う?」

「仮想空間で?」

「そう」


優佳さんが頷いた。


その話に関しても、近代科学史の先生が言ってた気がする。たしか――


「粒子の移動を考えなくていいから空間を飛び越えることはできる。だた、現状では空間を飛び越えられてもその世界はあくまで同じ時間軸の話、だったはず」

「つまり?」

「聞いた話では『まだ』できない、じゃないかな。少なくとも今は」


と、僕が返すと、優佳さんの目がさっきの男子に移った。


「それ、何が問題かってわかる?」


さすがにそこまで深い話はしてくれなかったと首を振る。


「ゲームは?」

「やるだけなら飛び越えられるでしょ。クラフトもFPSもそうじゃん」

「そっか。そうだよね」


なんかのどに何か詰まってるみたいな言い方。気になることがあるみたいだけど、言語化するのに時間がかかってるっぽい。


そうしてる間に2人目が呼び出された。


「つーか、マジでどうしよ。欲しいのあったのに、IDなくなっちゃったら買えないじゃん」

「そうじゃん!ってかご飯すら食べられんくない!?」

「え?そんなことないでしょ」


ゲームの話がひと段落すると、女子たちは自分が置かれた状況に嘆きはじめた。中には楽観視するのもいるけど、欲しいものが買えない、それどころか昼ごはんすら食べられないかもしれない状況に声を上げだした。


僕は荷物を持って席を立つと、教室を出た。蓮花さんが後ろから追いかけてくる。


「急にどうしたの?」

「あれ以上あそこにいてもしょうがないから」


冷たい言い方になった気がするけど、ここはしょうがない。それ以上に適切な言葉が出てこなかった僕が悪い。


本来なら授業中で静かなはずの廊下だけど、今は騒がしい。


「なんか、変わっちゃったね」


中央廊下に出たところで蓮花さんがつぶやいた。


「けど、僕らができることは何もない。僕は蓮花さんがちゃんと準備してくれていたから助かったけど、みんなはそうじゃない。あれを助けるなんて個人ができる話じゃない」

「それもそうだけど」


蓮花さんは「ほかのこともある」と、言った。けど、それ以上言いたくないようで、首を振った。


「で、どこに行くの?」

「え?」


冷たい手で握られた僕は足を止めた。


「どこか行って課題やるんでしょ?」

「ああ、うん」

「……もしかして、とりあえず出た。なんて言わないよね?」


覗きこまれた僕はそのジト目から逃げるように顔をそらす。


「はあ……しょうがないなあ」


蓮花さんはため息を吐いて、僕の手を引いた。


じんわり熱が移っていき、冷たい手は温かさを取り戻していた。

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