第2話 「無防備な先生」
「はあ……ひい……キッツ……」
キャスター4本のキャリーケースとはいえ、炎天下の中えっちらおっちら歩いてくのは頭がイカレてるとしか思えない。
「クソ親父め……なんで歩いて行かなきゃいけないんだ」
デジタル化された今はIDがすべて。
それを出ていくときに全部置いてくように言われた僕は、無一文。電子決済もIDがなきゃ使えない。
要するにノドが渇いても水一杯すら今は飲めないのだ。
「えっと……」
ポケットからメモを取り出す。
人類の多くが仮想空間に生活拠点を移したことで、紙はその数を大きく減らした。海外じゃ紙の文化はすっかりなくなり、記録はすべてデジタルで管理されている。
デジタル化が大きく遅れた日本は、かろうじて紙の文化が残っていた。
形に残るものがいい。デジタルだとなにもなくなるという人が一定数いて、そう言った人たちがギリギリで残しているのだ。ただ、すっかり淘汰されたものだけに、紙もペンもインクも高い。
おじいちゃんの話だと、おじいちゃんのそのまたおじいちゃんが子供だった頃はノート1冊100円だった、なんて言っていた。
今じゃ60ページのノートが5000円近くするだけに、嘘じゃないかって思う。けど、実際に「ほれ。ホントに売ってたブツだ」とノートに貼ってあるラベルを見せられると100の文字があるから、やっぱりホントなんだと思ったりもする。
これまで仮想空間というデジタル世界に大半の時間を過ごしていた僕は、生まれて初めて一切のデジタル機器を持たないタダのアナログ人間と化していた。
健康を管理するAIもいなければ、ここがどこか教えてくれるAIもいない。
「これがアナログ……不便すぎる……」
持ってくように言われたカバンの中に入っていたのは、文庫本が数冊と、ここに来るための紙の片道きっぷ。手にあるデジタル端末は数年前にアップデート対象から外れたオンボロで、コレで仮想空間に接続はできない。さっき見てたのも親父が道中のヒマつぶしにとダウンロードしたものだ。
「なんだってこんなところに……」
思わずそんなつぶやきが出てしまう。
橋を渡って川沿いを流れに逆らう方向に進んでいく。
ときどき建物の日陰に入るが、人の気配はない。
何度も言ってる通り、ほとんどの人類は仮想空間の中。こうして現実で活動してるのは高校生までの子どもか、ヒューマノイドくらい。
その子どもも夏休みの今は仮想空間に行ってしまってるため、人の気配は全然ないといっても過言ではない。
「橋を3本行ったところか」
メモにはなぜか学校へのルートと「花村」なる人に会うことが書かれていた。
「フツーこういうのって家に行くモンじゃないの?」
なんて文句が出てしまうが、ここでの僕の家に関する情報はゼロ。頼りになるのはこのメモしかない。
「はあ……はあ……」
しばらく歩くと赤い屋根が見えた。メモにある位置と目印が一致したのを確認して、左に曲がると校舎が姿を現した。
「もう少しで水が飲める……」
最後の坂を上り、突き当りにある門をくぐった。
仮想空間に定住するのは条件があって、その1つに年齢制限がある。それが成人とみなされる18歳だ。ただし、高校に行ってる場合は卒業までは条件を満たせない。
大学生はどちらも可能。けど、ほとんどの機能が仮想空間にあるため、現実世界に来ることはないらしい。
そんなわけで現実世界にいる大人の人間は、学校で教鞭を執る教師と維持管理をする守衛くらい。守衛がヒューマノイドじゃないのは、万が一壊れたら面倒だからっていう理由らしい。
「どちらさん?」
入口の前でキョロキョロしていたら声をかけられた。白いひげを生やした、いかにもなおじいさんだった。
「あ、狩村直巳(かりむらなおみ)です。花村って人を当てにしろって父さんに言われたんですけど……」
「狩村……?その花村って人には連絡は?」
連絡……?
僕が首を傾げてると、おじいさんの顔が怪訝そうな顔になってく。
「あ~……そういやババアがなんか言ってたな。新入りが来るとかなんとかって」
おじいさんはひげをジョリジョリしながら「ちょっと待ってろ」と中に入っていった。
「ああ。お前さんも入れ。暑いだろ。飲みモン出してやる」
「はあ……」
「ほれ」と出してもらったのは麦茶。入れたばかりのはずなのに、もうグラスに結露が起きてる。
お礼を言って一気に飲み干す。
「はあ~」
仮想空間にも同じものがあるけど、味が違う。乾いた身体の内側から水分がしみわたってくのを感じる。
「ふ。ウマいか」
そう言っておじいさんは2杯目を注いでくれた。
「ああ。あったあった。狩村くんか。ちょっと待ってろ。担任を呼び出す」
視線を下に向けたおじいさんは何もない空間で手を左右に振る。
こっちからは見えないけど、視線の先には連絡リストが表示されてメッセージを送ってるはず。
しばらく待ってると、若い女の人が来た。
「狩村くん?でいいんだよね?担任の風見春香です」
ペコリと頭を下げられた。肩甲骨くらいまである長い髪がサラサラと落ちる。
「はあ……」
「荷物は……どうする?持ってってもいいけど」
チラッと僕のキャリーケースに目を向けた。
「一応、持ってきます」
都会じゃ誰かに荷物を預けるのはご法度だった。預けた場所に誰もいなくなると、ヒューマノイドがゴミと認知して勝手に持ってってしまうのだ。
だから所持品は常にそばに置いておく。もしくは持ってかない。これが都会の鉄則だった。
「そう。結構重い?3階だけど」
「あ~……」
と、僕の反応を見た先生は、「エレベーターを使おっか。普段はダメだけど、今回は特別」と言って歩きだした。
「靴は?」
「え?ああ。靴はそこに。ロックは自動でパスワード開錠だから安心して」
そう言ってスリッパを出してきた。胸元が開いてる服のおかげで無防備な中が見える。水色。イメージに合ってる。
「どうぞ」
「どーも」
テキトーな番号をパスワードとして入力してロックをかける。
「じゃあ、行こっか」
ペタペタと音を立てながら先生と静かな廊下を歩く。
「先に手続きだけ済ませちゃおっか」
「はあ」
と、先生は2を押した。デジタルが大半を占めているけど、こういうところはアナログが健在だ。
2階に着くと、職員室に通される。
「よいしょ。ああ、花村さんは……後でいいか。とりあえず、渡してって言われたものね」
と、小さな箱を手渡してきた。
「教頭先生が怪しい目で見てたから、開けるのはおウチに帰ってからにした方がいいかも」
チラッと先生は奥に目を向ける。僕もつられて目を向けたが、そこには誰もいなかった。
「さてと、あ。そっか。IDないって話だっけ」
「です」
僕は頷いた。
「そだそだ。ちょっとゴメンね。よいっしょっと」
先生はタブレットを僕の方にある奥の机から取ろうと手を伸ばした。柔らかい感触が僕の肩に触れる。
「えっと……」
ポチポチと音を立てながら取ったタブレットを操作していく。その姿は無防備そのもの。たぶんやろうと思えばこのまま押し倒すこともできちゃうんだろうな。やらないけど。
「はい。これとこれ、それからこれにサインしてもらえばおっけーだから。でも、一応書いてあることは読んでおいて」
「はい」
僕は言われるがままにタブレットに表示されてるモノにサインを書いていく。
「聞いてるかわからないけど、授業は仮想空間。それ以外は現実世界で生活して。おうちにいる時間は仮想空間と現実世界どっちでもいいけど、何か学校の支援が必要な場合は片方でいいから連絡すること。そのほかについては、花村さんに聞いてね。一応週1くらいで私もおうちに行くように言われてるからそのつもりで」
「はあ」
週1で家庭訪問?と思ったが、一人でここに住むのは僕くらい。仮想世界に入り浸ってないかチェックしに来るんだろう。
「夏休みの終わりは31日まで。9月1日からは朝8時半までに学校に来ること。それ以外に登校する日は……今日だけだからいっか。うん。私からは以上かな。ここまでで聞きたいことってある?」
「いえ」
僕はサインしたタブレットを先生に返した。
「ん。よし。あ。そうそう。制服があるんだけど、聞いてる?」
「制服?」
「……その様子だと聞いてないみたいだね。うん。そこも花村さんに任せちゃおっかな。花村さんが忙しそうだったら私が一緒にいくから言ってね」
「はあ。連絡先は?」
「え?あ、あ~そっか。IDないんだっけ。えっと、どうしよ?」
先生はワタワタしながら机を漁る。
ふと、僕は持ってるメモのことを思い出した。
「あの、これに書いてもらうってことはできます?」
「え?わ。もしかして、それ、王子の紙?」
「そうですけど」
先生に渡すと、目を輝かせた。
「わ~懐かしい!私も高校の頃持ってたんだけど、どっか行っちゃったんだよね。今もなんだかんだ紙を使うけど、やっぱちょっと違うんだよね~」
と、先生は引き出しからペンとインクを取り出した。
おじいちゃんのおじいちゃんの時代はいろんなペンがあったみたいだけど、仮想世界ができてそっちに行く人が増えるようになると、それまであったペンたちは姿を消したらしい。
「インクがなくなれば捨てて新しいのに変える」なんてできたのは過去の話。多くが仮想世界に移った今、ペンは万年筆かガラスペンに代わった。いや、もとに戻ったというべきか。
先生はペン先をインク瓶の中に入れてさっとボロ切れで余分なインクを拭うとサラサラと書きだした。
「はい。これ、私の個人用だから落とさないようにしてね」
僕は受け取るとカバンの中に入れた。
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