11-『アーシェ』

11-01-母の歌

 寒い。

 もう四月も終盤に入り、昼間は暑く感じることも多くなってきたというのに、凍えるように寒い。


 いま、自分はどんな状態なのか。

 開く気配のない情けないまぶたに早々と見切りをつけ、眠る直前の記憶の糸を手繰る。


 ……そうだ。

 俺はスクエアテンでみんなと遊び、灯里とラーメンを食って、その帰り──まあいろいろあって、灯里の家の家令、三船さんにアパートまで送ってもらったんだ。


 そこで──


『あの事件は──そもそものはじまりは、あなたと獅子王龍牙だけの問題ではなかった』


 三船さんから、そんな言葉を聞いたんだ。


『獅子王正虎まさとら、朝比奈篤重あつしげ、そして月宮塔子』


「母さん……」


 どうしてここに母さんの名前が出てくるのか。

 獅子王と朝比奈、俺の忌まわしい過去にまつわるふたつの苗字のあとに、どうして俺の母さんの名前が並べられるのか。


 獅子王正虎ってのはあいつの親父だって、ネットニュースを見て知ってる。しかし朝比奈篤重ってのは誰だ。名前の感じから、きょうだいではなく父親か祖父なんじゃないか、と推察はできるが、それがなんだ、って話だ。


 あの過去は、あの夜──エシュメルデの市場で、別れを告げたはずじゃなかったのか。

 それがなんだ? もっと大きな陰謀みたいなものが渦巻いていて、俺の母さんが関係者?


 ……ふざけんな。

 あれはもう終わったことなんだ。

 俺はあの過去を乗り越えて、強くなるって決めたんだ。


 ふざけんな……ふざけんな。


 …………寒い。


 そうだ。

 俺は過去になにがあったのかと母さんに連絡をとることもできず、部屋の隅で膝を抱えて──たぶん、そのまま寝てしまったんだ。


 なるほど、寒いわけだ。

 布団もかけないまま寝てしまったわけなんだから。


 ……でも。

 胸の奥底の凍えは、それだけでは説明できない気がした。



 そのとき、あたたかい声が聞こえた。


「ふんふんふーん♪」


 きっと、母の声だった。

 俺が幼いころ、眠れない時に歌ってくれた母の声だと思った。


「かあ、さん……」

「ふんふーん……ふん?」


 ずっと前にもらったぬくもりを求めて、俺の右手は虚空を泳ぐ。

 この声が母のものであるならば、俺が手を伸ばすと、その手をそっと包み込んでくれるはずなのだ。


 しかし俺の右手は宙をふらふらと彷徨ったまま、なんの感触も訪れない。


 ……と思ったら、指先になにかが触れた。

 たぶんそれは母さんの指で、戸惑うような躊躇うような……俺の手を取っていいのか迷っているように感じられた。


 母さんの愛は、そんなものじゃなかった。

 もっとこう……俺がねだらなくても、鬱陶しいほどの愛情を向けてくれて、抱きしめてくれて、頬をすり寄せてくれて……。


 幼いころの記憶との齟齬そごに苛立って、指先の根本──母さんの手首を掴んで、勢いよく引き寄せた。


 小さな悲鳴とともに、母さんが俺の上に覆い被さる。

 多少乱暴ではあったが、これだよこれ、というぬくもりがあった。


 強烈なシャンプー……とはまた違う、ミント系の爽やかな香り。

 風呂上がりなのだろうか、俺の顔に触れる髪はしっとりと濡れている。


 ……あったけえ。


 手も身体も。

 母さんの頬と接触した頬も……なんだかこちらはどんどん熱くなってきた。


 それにしても、果たしてうちのシャンプーはこんな香りだっただろうか。

 懐かしさもなにもない。

 これはきっと……あの香りだ。


 えっと……そうだ。

 エペ草。


 そう気づいた瞬間、目が覚めた。

 エペ草の匂いということは、ここはアルカディアだと気づいた瞬間、覚醒した。


 俺の目に映ったのは焦茶色こげちゃいろの天井と、視界を横切る、天井よりも黒いダークブラウンの髪の毛だった。


「はわわわわ……」

「わ、わりぃ……!」


 掴んだ手首を離すと、アッシマーは弾かれたように俺から飛び退いて尻もちをつく。


「うお、あ、ま、マジですまんかった……!」

「い、いえっ……! ちょっとびっくりしただけでっ……!」


 ベッドの上で頭を下げる。

 俺がアッシマーにしてしまったことを思えばそれだけでは足りず、そのまま膝を揃えて土下座の構えをとった。


「あっ、その、だ、だいじょうぶですからっ」


 ベッドで土下座する俺よりも低い位置──床にへたりこんだまま、アッシマーは両手をわたわたと振る。


 なにか言いわけをしたほうがいいのかとも思ったが、まさか、母親のことを思いながら寝たもんだから、頭が幼児退行して、そのうえアッシマーのことを母親だと勘違いした、なんて言えるはずがない。

 しかもそれが広まろうものなら、俺のあだ名は〝マザコン藤木〟みたいなものになってしまう。おのれ高木。


 どうしようどうしよう、と寝起きの頭で思いついたのは、話のすり替えだった。


「そ、そういや、いつも歌ってた曲、月宮塔子の歌だったんだな」


 そう、いつもアッシマーが歌っているどこか懐かしい曲のメロディーは、母さんの歌だったんだ。

 ……だからこそ俺はいま、ひどい勘違いをしてしまったわけだが。


「ふぇ? 藤間くん、とこちゃんのこと知ってるんですか?」


 すり替えが功を奏して、アッシマーは立ち上がっていつものようにあざとく首をかしげる。

 とこちゃんというのは、アイドル時代の月宮塔子の愛称である。


「あーまあな。母親だしそれなりには知ってる」

「えへへ……母親がとこちゃんのファンで、その影響でわたしも……。…………? 藤間くん、いまなんて言いました?」


 あ、言ってなかったっけ……? と口ごもる。

 いや、母親がどんな人かなんてわざわざ言うわけないよな。


「や、月宮塔子だろ。俺の母親なんだよ」

「……いますよねぇ。好きを拗らせて、芸能人の家族を自称しちゃう人……」

「すげえ。いまのひとことで、俺がお前にどれだけ信用されてないかよくわかるわ」


 あれだろ、芸能人とかゲームキャラとかが好きすぎて、〇〇くんのママとして推し続けます! って言っちゃう人みたいなふうに思われてるってことだろ。

 いやでもマザコン藤木より全然マシな気がする。先生どころかクラスメイトを母親と勘違いしてしまう人間よりマシな気がする。それ俺なんですけど。


「あっ……でもでも、だから藤間くん、わたしのことをお母さん、って呼んじゃったんですかね……」


 どうやら口にしていたらしい。死にたい。


 それにしても、これは大きな問題である。

 もしも月宮塔子が俺の母親じゃなければ、俺は月宮塔子の息子を自称する痛いファンであるし、月宮塔子が俺の母親ならば、アッシマーに対して「母さん」と口にした痛い男ということになる。


「あのっ……もし本当なら、さ、サインをもらえたり、しますか……?」

「まあ……実家に戻ったタイミングで頼んでみるわ」


 どちらにせよ痛い男なんだったら、つまらない嘘をついても仕方がない。


「それにしても……」


 アッシマーは半信半疑という様子で、胡乱げな視線で見つめてくる。


「全然似ていませんねぇ……」

「やめろ。幼少期に言われたセリフベスト3を出して俺の心を抉らないでくれ」

「ちなみにベスト1はなんですか?」

「『透はやればできる子なのに……』だな」

「それできない子に言うセリフ!」


 自分で言っておいて、アッシマーのツッコミを浴びながら、俺は俺を取り戻してゆく。

 すでに笑うことができる黒歴史で己の傷を抉りながら、胸のうちに巣食った、母に対する仄暗い感情が消えてゆく。


 俺はいつしか口角が上がっていて、アッシマーと一緒にぷっと吹き出した。


『あさごはんだよー!』


 階下から聞こえてくる、女将の声。


「行くか」

「はいですっ」


 俺がベッドから降りると同時、別の部屋からもガタガタと音が聞こえてきた。


「おはよう」

「んあー……おはようさん」


 扉を開けると、階段を下りようとする七々扇と出くわした。


「ふふっ……透くん、寝ぐせすごいわよ。そういうところは昔からちっとも変わっていないのね」

「この世は望まなくてもめまぐるしく変化する。だからこそ、変わらない、ってのは逆に重要なんだよ」


 七々扇はぽかんとしたあと、口元に手を当ててくすくすと笑いだす。俺の背後から「相変わらずひねくれてますねぇ……」とアッシマーの声がした。


「行きましょう。昨日は慌ただしくて朝食も食べられなかったから、今日はゆっくりしたいわ」

「同感だ」


 三人連れだって階段を下りる。

 廊下に揺らめくコーヒーの香りが、俺の胸を期待で満たした。





​───────​───────


お待たせしました!

11章『アーシェ』開幕です!(*´ω`*)


怒涛の展開! とはいきませんが、のんびり楽しくやっていこうと思います(*´ω`*)


毎週水曜日の夜に投稿予定です!

よろしくお願いします(*´ω`*)✨

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