10.5-10-魔法6 -魔法-
沁子がようやく宿題を終えたのは二四時をまわってからだった。
「しみちゃーん……」
「おまたせですっ」
ベッドではとろんとした目のつくねが沁子を待ち詫びている。
普段なら一〇時には可愛らしい寝息をたてているのだが、今日はお昼寝をしてしまったせいで、こんな時間になっても寝つけずにいた。
妹の体温で布団があたたかい。
足柄山家には部屋がいくつもあるため、つくねの部屋もちゃんとあるのだが、寂しがりなつくねは決まって沁子の部屋で眠る。
「しみちゃん……」
つくねは両手で沁子の右腕を取り、自らの頭まで持っていってそれを枕にした。
自分に抱きつくようにして目を閉じるつくねのおでこに、沁子はちゅっちゅ、と二度口づけをする。つくねも沁子の頬に二度返した。
その様子から、つくねがもうすぐ寝るだろうと確信した沁子は、自分が先に眠ってしまいつくねが寂しがるようなことはないと安堵する。
「ふんふんふーん♪」
口ずさむのはいつもと同じ、昔、母と一緒に聞いていたアイドルの曲。
沁子たちが寝つけないときに母が歌ってくれた曲。
元は明るくキャッチーなラブソングだったため、子守歌用にスローアレンジされ、歌詞もふんふんで誤魔化している。
「ふんふーん♪」
「おかーさん……おとーさん……」
「ふんふ……」
ぎょっとしてつくねを見ると、すぅすぅと寝息をたてていた。
両親がいなくなったとき、つくねは一歳。両親の記憶などあるはずがない。
つくねは時折寝言でこうして沁子を驚かせる。
きっと、両親の面影ではなく、友人の多くが持っている親という概念に思いを馳せているのだろう。
『目を覚ませ沁子ちゃん。魔法なんてねえ』
……そんなこと、沁子もとうにわかっていた。
都合のいい魔法など、ないと。
──それでも。
「だいじょうぶですよー。きっと帰ってきますからねー……」
沁子が両親を失うということは、つくねたちも両親を失うということだ。
沁子が諦めてしまえば、腕のなかで寝息をたてる愛しいぬくもりにかけてやる言葉は、嘘になってしまう。
だから、信じるのだ。
そして、言い聞かせるのだ。
「よしよし。きっと帰ってきますからねー……」
嘘でもなく、誤魔化しでもなく。
一時しのぎでもおためごかしでもない、信じることによってようやく生まれる、か細い真実を。
沁子にとって魔法とは、空を焼き焦がす火柱や、モンスターを凍らしめる吹雪や、敵を打ち据える
無限をたたえる、いくら注いでもなくならないティーポットや、流れ星のクッキー。
望んだ料理が出てくるテーブルに、どこまでも沈んでゆくソファー。
おとぎ話に出てくるような、人々が笑顔になる奇跡だった。
だから、リディアのもと、伶奈や綾音と特訓をしても沁子は火魔法も氷魔法も雷魔法も習得できなかった。
──しかし、沁子はたったひとつ、魔法のような奇跡が存在することを知っている。
沁子は首を上げ、勉強机に視線を向けた。
ナツメ球が灯す暖色の先──写真立てのなかで、沁子の両親が笑っている。
父が経営していた雑貨屋の前で。
母の
父の
雑貨屋の看板には、店名が彫られている。
アルカディアで自分に与えられたユニークスキルは【アトリエ・ド・リュミエール】。
この奇跡のような合致は、きっと偶然ではない。
両親の手がかりは、アルカディアにあるはず。
沁子がアルカディアにこだわる理由は、ここにあった。
……もちろん、金銭的な事情もあるが。
なにがどうなろうとアルカディアから離れるわけにはいかない。
当時、偶然通りかかった、クラスメイトでしかなかった透に縋りついてでもアルカディアにこだわった。
歳近い男きょうだいがいるとはいえ、異性との同居に抵抗はあった。
……が、自分の容姿に自信がないことと、自分を〝女の子〟の前に〝母〟だと思っている彼女の前に、貞操観念は敗れた。
「おかーさん……おとーさん……」
沁子はつくねの頭と背を撫でながら、自身も目を瞑る。
「だいじょうぶですよー。しみちゃんがついていますからねー……」
そう、自分は〝母〟。
本当の母親が帰ってくるまでは、母なのだ。
……そのはず、だったのに。
「しみちゃん……ふじま……」
沁子はふたたび驚いて身体を震わせる。今度は顔が熱くなり「えっ」と声まで漏れてしまった。
つくねが寝ていることをもう一度確認し、ふたたび目を閉じた。
──本当に、不思議なひと。
一徹は透に憧れを抱いている様子だし、つくねは今日出会ったばかりだというのに、寝言で沁子の隣に透の名前を並べる。
一徹もつくねも、次はいつ透に会えるかと夕食の席で騒がしくしていた。
一発も恵美子も透を気にしている様子で──
ここまで考えて、沁子は瞑った瞼の奥を左右に振り、透の幻影を打ち払った。
ちがう。
だめだ。
わたしは、そういうのじゃ、ないんだ。
そういう対象に見られるわけが、ないんだ。
だって、わたしは、母だから。
それ以前に、どんくさくて、のろまで、かわいくなくて、あとあと……
灯里さんが、いますから。
結局、いつもと同じ。
どれだけ自分のせいにしようとしても、学校で前の席に座り、いつも一緒に昼食を食べてくれる、笑顔の素敵な女子の姿が浮かぶ。
「灯里さんに、もうしわけがたちません……」
声にならぬよう、口のなかに封じこめた。
なにが申しわけないというのか。
沁子は空いた左手で自身の唇をなぞる。
「っ……どうしましょう……」
沁子は自身の身体が急激に熱をもったことを自覚した。
シュウマツの渦でピピンの投げた槍に貫かれたふたり。
ことごとく噛み合わないふたりが生き延びた、あのとき──
心胆寒からしめる痛みはもう残っていないというのに、唇の感触、口内へ侵入する舌、抱きしめられた腕のたくましさを、身体が覚えている。
わかっている。救命措置だと。
でも。
それでも。
「ふつうは、ああいうことはしません……」
わかっているのに。
それでも思い出してしまう自分が、身体が疼き、身をよじって布団のなかで衣擦れの音をさせてしまう、そんな自分が申しわけないのだ。
家族以外にこだわりのなかった沁子が、言葉とはうらはらに、これほどの執着をしてしまうのは初めてのことだった。
執着してしまうのなら……それをいけないことだと感じてしまうのなら、自ら離れるべきなのだ。
完全には離れないとしても、せめて、とまり木の翡翠亭での同室は自ら遠慮するべきなのだ。
…………それなのに、できない。
沁子にとって透の優しさは、五年前に断たれた両親からの愛情の続きのようなものだった。
離れ、られない。
沁子が透と一緒にいるには、魔法が必要だった。
その魔法の言葉を口のなかで唱える。
沁子にとって魔法とは、誰も傷つかない奇跡だった。
透と離れなくてもいい、魔法。
透と同室で眠っても許される魔法。
透と伶奈が
それなのに、誰も傷つくことのない、魔法。
──そうして沁子は結局、無意識のうちに、いつもと変わらず自分を傷つけ続ける。
両目から零れ落ちたものが、枕を濡らしたことにも気づかずに。
深い微睡みに落ちる刹那、沁子の口から魔法の言葉がそうっと漏れた。
「藤間くんは、お父さん、みたいです」
(了)
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