10.5-09-魔法5 -岩清水-

 沁子の両親がいなくなった当初、沁子も一発も恵美子も両親を探して駆けずり回った。

 一発は旧知の警察を頼ったが、どれだけ探しても一向に見つからず、とある警官の心ないひとことが三人の心を苛んだ。



『家出じゃないですか? それなら見つけるのは難しいですねえ』

『てめぇっ!』


 警察に掴みかかろうとした一発を、沁子が正面から、恵美子が後ろから抱きかかえてとめた。


一途いちずめごちゃんがそんなことするわけねえだろ……! あいつらはなあ……! あいつらはなあ……!』


 昂った感情は怒りとして爆発することができず、哀しい涙に変わった。


 一発はずるずると崩れ落ち、沁子の前で子どものようにわんわん泣いた。

 恵美子も静かに目を腫らした。


 一〇歳の沁子は、泣いていなかった。

 いまにも消えそうな表情で、ダークブラウンの瞳に空虚だけを映し、人形のように立ち尽くしていた。

 傀儡師の糸に引かれるように、無感動に、無感情に、機械的に、沁子の口が小さく動いた。



『わたしたち、は……棄てられた、の、でしょうか』

『そんなことねえ! そんなことねえぞ!  あいつらは絶対に帰ってくる! 帰ってくるんだ……! うおおおおぉぉぉん……!』



 一発は沁子を強く抱きしめ、幼い沁子の代わりに泣き、雄叫びをあげるのだった。


──


 一発はいまでも、沁子の両親が子どもたちを置いて家出したとは微塵も思っていない。なんらかの事故か事件に巻き込まれたものだと思っている。


 ただ、五年という歳月が、大人として生きた長い年月が、いまさら沁子の両親が帰ってくる都合のいい魔法など存在しないと訴えてくるのだ。


 人は歳をとるにつれ、成長とともに現実主義者リアリストになってゆく。

 一定の安全が保証された現代のなかで、ゆるゆると理想や幻想、魔法を信じなくなってゆく。



 アルカディア・システムの目的が異世界に対する勇者の派遣ならば、ベテランの自衛隊や知識豊富な大人たちではなく、歳若い高校生を勇者に選ぶのはどうしてか。


 アルカディアにおける魔法の力は、イメージの強さと信じる力に依拠いきょする。


 モンスターに対抗できる魔法の存在を疑いながらも、どこかで信じられる純粋さが残っているからじゃないか──



 思えばあのころ、沁子たちの両親が帰ってくると強く信じていたのは、自分たちのほうではなかったか。


 沁子の心が折れないように抱きしめておいて、もう帰ってこないと先に折れたのは自分たちではなかったか。


 折り合いをつけなければいけない社会のなかで、大切なものまで折ってしまったのではないか。


 そしていま、高いところから落下しないようにと心配するつもりで、自分は沁子の心を折ろうとしているのではないだろうか……?



 ──それでも。



 一発はビールが並々と注がれたグラスをさらに呷る。


 酒の力に頼っても、沁子に現実を教えなければならなかった。

 傷つけると知っていても、沁子の夢を終わらせなければならなかった。

 どれだけ嫌われようと、どれだけ恨まれようと、沁子の未来を守りたかった。


「お前の父ちゃんと母ちゃんは、もう」


 むしろ、嫌われたかった。

 むしろ、恨まれたかった。


 沁子が自身の傷に気づかないほど、誰かを憎んでほしかった。

 その相手が、自分たちでもいいと思った。


 だから、一発は言葉の続きを絞り出す。


 少女にかけられた、魔法を解くために。



「あいつらがもう、帰ってくることは」

「〝もう〟? 〝もう〟ってなんですか?」



 言葉の刃を、沁子の声がつんざいた。


 声も表情も柔らかなのに、どこか力強い響きがあった。



「お父さんとお母さんとは〝また〟の聞き間違いですよね?」



 それは、これ以上の会話は無駄だ、と突っぱねる棘のような強さではなく、なにを言われても揺るがない、いわおのような強さだった。

 そして、岩清水いわしみずのような清らかさがあった。



 ──もう一度振り返って現実を見ろ。

 ──この世には魔法なんて都合のいいものはない。目を覚ませ。


 一発と恵美子は、二の句も続く言葉も二の矢も持っていたはずなのに、沁子に圧倒され、なにも言えなかった。


 一発は口を震わせ、救いを求めるように瓶を手に取るが、中身はすでに空になっていると軽い感触に告げられ、しおしおと肩を落とした。


「ごめんなさい、聞き分けのない子どもで」

「謝るんじゃねえ。…………」


 謝るくらいなら、言うことくらい聞きやがれ──そんな言葉さえ出なかった。

 聞き分けのない子どもでごめんなさいということは、この件に関しては聞き分けるつもりがないということなのだから、これ以上やると、今度はこちらが駄々をこねる子どもになってしまう。


 それに、いま沁子の表情が曇ったのは、両親のことで気落ちしたからではなく、自分にこんな顔をさせてしまったことに対する心咎こころとがめによるものであると一発も気づいている。


「はぁぁぁ…………」


 自分でもわかるほど酒臭いため息は、己の無力を感じさせた。


 一発は、沁子と話しているうちに、こう思ってしまったのだ。


 一途の野郎、どこでなにしてんだよ。愛ちゃん、早く帰ってきてやれよ──と。


 沁子に諦めさせるつもりだったのに、いつの間にか自分が弟夫婦の帰還を願ってしまった。これではなにがなにやらわからない。



「わかった。この話は改めることにする」

「……はい」


 改めるという言いかたは、諦めていないということだ。


 しかしきっと、何回、何十回と重ねても沁子が首を縦に振ることはないだろう。


 それなのにどうしてこんな言いかたをしたのか──


 本当に諦めていない。

 負け惜しみ。

 あっさり引き下がらないことで、一朝一夕の気持ちではないと沁子に訴える。

 一発はそれらのうちのどれなのか、あるいはすべてなのかもわからなかった。


「……ただ、俺たちもはいそうですか、これからもこのままで、ってわけにはいかねえ」


 一発が手のひらを上に向け恵美子に腕を伸ばすと、彼女は黙ってハンドバッグから手帳とペンを取り出した。


 開いた手帳に、一発の見かけによらず綺麗な字が走る。酔い慣れている証左でもあった。


「……あなた、アルカディアのことはいいの?」

「……言っても聞きゃしねえだろ」

「……でも」


 ふたりで相談をしながら書き、一枚千切って沁子に突き出した。


「せめて、これくれえは守ってくれ」


 そこには、自分たちにもうお金を渡そうとしないこと、パン工場以外のバイトは早急さっきゅうに辞めること、沁子が高校卒業時に両親が不在のままならきょうだい全員が自分たちの子どもになること、アルカディアのことなどが書かれていた。


「そ、そのう……。守れなければどうなりますか?」


 切り離されたページには、沁子にとって、守れることも守れないことも書かれていた。


「守れ。俺が悲しい」


 真面目な顔の一発に沁子は唖然とし、そのあと「ぷっ」と吹き出した。


「なに笑ってんだ」

「ぷっ……だって……なんですかそれぇ……あははっ」


 書かれている内容は、沁子たちきょうだいを心配するものばかり。


 その気になれば一発は『守れないなら援助をやめる』という条件をつけて無理やりにでも押し通すことができただろうに、言うに事欠いて『俺が悲しい』である。


 恵美子も口もとを押さえて笑っていた。一発は「なんだなんだぁ?」と胡乱うろんの目でふたりを見たあと、拗ねたように視線を逸らした。


 そうしながら一発は、どうすれば沁子を救えるのか、いま一度考えていた。


 一発は、沁子の涙を見たことがない。

 弱音を聞いたことがない。

 あまり要領がよくないことは知っているから、自分たちの前でも沁子はきっと背伸びをしているのだろう。



 ならば、沁子を真に救えるのは、自分たちではないのかもしれない。



 背伸びをせず対等に言いあえる者。あるいは同じだけ背伸びをしてくれる者。

 沁子が弱音をはけるほど心安らぐ者。あるいは弱音を受けとめられる者。

 そして、沁子の涙を受けとめられるもの。──あるいは、それをそうっと拭える者。


 沁子は取捨選択を迫られたとき、躊躇なく己を棄ててしまう。

 あらゆるディレンマで、トリレンマで。

 テトラレンマであろうと、ペンタレンマであろうと、率先して自らを棄て後回しにし、誰かが助かった姿を見て笑っている。


 沁子を救えるのは──そんな沁子を見て、沁子よりも先に自分を棄ててしまう──そんな人間しかいないのではないか。

 


 ──そんなやつ、いるもんかね。

 ここまででもそう思ってしまうのに、沁子の家庭環境に寄り添える者となると、さらに絶望的だ。


「そろそろけぇるぞ」


 一発はネガティヴを振り払うように立ちあがり、酔いを感じさせない足取りで、恵美子とともに沁子の家をあとにした。


──


 夜風の冷たさで、一発は自分が思ったよりも酔っていることに気がついた。

 正直まだ酔い足りない気分だったが、自分たちをどこまでも見送る沁子の笑顔が、今日の酒はここまでにして寝ようかという気分にさせた。


 一発がエルグランドの助手席に乗り込んでも、沁子は家に入る様子を見せず、こちらに手を振ってくる。



 恵美子はなかなかエンジンキーを回そうとはしなかった。一発にはその心当たりがあった。



「……お前も気づいてるか」

「ええ。家向かいの駐車場」


 ふたりは車内で声を潜めた。

 一発は瞳に獣のような獰猛を映す。

 恵美子は表情はにこやかなままだったが、沁子の前では消して見せない野性味を纏っていた。


 まるで車内だけ世界が違うような空気が流れている。

 しかし、その空気の大元は、車外にあった。


「その一台だけじゃねえ。奥の木の陰にも一台停まってらぁ」


 足柄山家を見張るように配置された二台の車。

 木の陰に黒のミニバン、向かいの駐車場に黒塗りの高級車。

 家を出た際に突き刺さったいくつもの視線に気づかない一発たちではなかった。


「とくにあの目立つ高級車。来たときと車の位置が変わってるよな」

「そうね。でもナンバーは同じだから、カモフラージュのために停めなおした可能性が高いわね」


 目的は沁子の家か、自分たちか。


「それにしてもヘッタクソだな……。気配丸出しじゃねえか。おう恵美子。お前興信所を雇ったんじゃねえだろうな」

「あらあら。私はあなたを信じていますもの。結婚してからは私だけ。結婚してからはね」

「ちっ……まぁだ根に持ってんのかよ。交際前のことはどうしようもねえだろ」


 一発は胸ポケットからセブンスターを取り出し、ライターで火を点けた。無論、恵美子に昔のことをつつかれた気まずさからではない。


 窓を開け、沁子に向かって手の甲を振る。


 ──俺は一本吸って出るから、家の中に入れ。


 ジェスチャーを受け取った沁子は、車に深々とお辞儀をし、家に入っていった。その背中を見送ると、一発はひと口しか味わっていない煙草を携帯灰皿で躊躇なくもみ消した。


「これでよし。……ん?」


 沁子を家に入れ、安心したのも束の間、木の陰にいた車のヘッドライトが灯り、後進ながら車の機動を変え、一発たちにテールランプを見せつける──


「恵美子はあいつを追え」


 一発は言い残して車から飛び降りた。自身は駐車場の停車する高級車を見張るためである。


 恵美子の操作するエルグランドが追いかけるためにバックで通りに出ようとしたとき、黒塗りの高級車もヘッドライトをつけて発進しようとするところだった。


「くそっ!」


 目の前を横切る高級車のなかに、サングラスをつけた黒服が四人も乗車していることを、一発ははっきりと確認した。


 ──ただごとじゃない。


 高級車は先発した車を追いかけるように、重厚な音を響かせながら夜の闇に消えてゆく。


「恵美子!」


 車に飛び乗って追いかける一発たちだったが、一発が車に乗り降りしたハンデを取り返せるはずもなく、ひとつめの赤信号でつかまり、遠く離れてゆくテールランプを眺めることになってしまった。


「ちっくしょう、どっちがヘタクソだよ……!」


 拳で己の膝を叩く一発。


「自動車検査登録事務局でナンバー照会してもらったらどうかしら。私、二台とも覚えているわよ」

「陸運局はダメだ。プライバシーがどうのこうので一般人には教えてもらえねえ」


 ──と、そこで一発は一般人ではない旧友がいたことを思い出し、ギアの電話帳からその名前を探しだす。


 名前をタップするさい、一発は「あれ? そういえば……?」と首をかしげた。しかしいまはそれどころではなく、通話ボタンをタップした。


 四回ほどコール音が鳴り──


『一発か、久しいな』


 よく響くバスバリトンが一発を迎えてくれた。


「おうヒデ、久しぶりだな!」

『とはいえ、向こうでは一月ほど前に逢っていたか。恵美子くんや奈々子くんは息災かね』

「まあな……って、悪いがちょいと急ぎでな。……ぶしつけで申しわけねえんだが、頼みがある」

『一発が頼み? 珍しいな。法と正義が守られることなら聞いてやってもいい』

「ああ。健全な一般市民の安全が守られる」

『よし、聞こう』


 一発は事情をかいつまんで説明し、恵美子の走り書きを読み上げて二台分のナンバーを伝えた。


『むむん……緊急か。わかった、すぐに調べさせよう。……それにしても、ナンバー照会を私にさせるなど、きみくらいのものだ』

「悪いな。あと、念のため警護をつけてくれるとありがてえんだが……。住所は──」


 電話を切り、一発が車内の時計を見ると、青いセグメントは二三時を伝えていた。


 あと自分たちができることは、沁子に前もって警察の訪問を伝え、彼らがくるまで沁子の家を守ることくらいである。


「そういえばよぉ」


 エルグランドが再度沁子の家に駐車して生まれた沈黙。

 その際に一発は、電話をかけるときに気になったことを口にした。


「沁子が言ってた、藤間と仲のいい女子の名前、なんつった?」

「アカリさんだったと思うけど」


 だよなぁ、と顎に手を当てる。


「……それ、下の名前だよな?」

「私はそう思ったわ。……どうしたの?」

「いや、いま電話した相手がな……警察の」

「灯里くんでしょ? ……あ」


 ……まさか、な。

 ……まさか、ね。


 車を降り、ふたたび家のチャイムを鳴らした。


 見上げた墨色のそこかしこで、星々が狂ったように瞬いている。

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