10.5-08-魔法4 -距離-

「なあ沁子ちゃん。前から言ってることの繰り返しになるが……バイト、減らさねえか」


 一発はふたたび手酌でグラスを満たしながら沁子に切り返す。恵美子も頷いて続いた。


「そうよ。時間のこともそうだけど、体力的にもね。沁子ちゃんはアルカディアにも行っていることだし、あまり無理しないほうがいいと思うの。幸い、うちには土地も不動産もあるし、蓄えだってあるから」


 ようするに、沁子がアルバイトを減らしたぶんを一発と恵美子がまかなう、という話だ。

 沁子はそれを聞いて、喜ぶでもなく、ほっとするでもなく、ただただ申しわけなさそうに俯いた。

 伶奈の名前を出したとき、自分と違い時間があるという話が口をついて出たことを後悔している様子だった。


「お気持ちはうれしいですが……」


 やはり、とふたりはため息をつく。

 このやりとりは何度も繰り返されていた。

 一発と恵美子がこの話を振るたび──


「わたしたちは、すでにしておふたりに頼りきっています。これ以上ご迷惑をかけることは、したくありません」


 毎回、すでに決まりきった言葉をなぞるようにして、断られてしまうのだ。

 そしてふたりはこれ以上沁子に悲しい顔をしてほしくなくて、折れてしまう。それがいつものやりとりだった。


 しかし、今日は違った。


 一発はグラスを勢いよく呷ると、その勢いのまま言葉を発した。


「もう、迷惑とかじゃねえんだよ、沁子ちゃん。夢をみるのも今日で終わりだ」


 沁子の肩が震えた。

 恵美子がぎょっとして隣の一発に視線を送る。

 それは『その先を言ってしまうのか?』ではなく『今日この場で言うのか?』という空気を纏っていた。


「俺たちが、お前らの親になってやる。未成年後見人じゃなく、ちゃんとした親だ。俺たちゃもうただの親戚じゃなくて、親子になるんだ」


 役所に行き、養子縁組の手続きを踏んで、一発と恵美子が沁子たち一一人の親になる。


 前述したように、彼らにはすでに五人の子がいる。子五人、養子一一人、合計一六人の親になるという、なんとも豪快な話だった。


 未成年後見人と養子縁組のあいだに、権利の違いはほとんどない。

 たとえば一発たち亡き後の遺産において、取り分、あるいは負債の相続権に沁子たちが介入する範囲が増える可能性は高くなるが、いま沁子たちはそんなことを気にしないだろうし、一発たちにとってもそんなことはどうでもよかった。


 沁子は両親の帰宅というか細い糸を希望にして、毎日身体と心をすり減らしている。

 そうしてあと二年、蜘蛛の糸をそっとそっと上った果てに……両親のぬくもりは、待ってくれてはいないのだ。


 沁子は二年を無駄にした喪失感とともに、上ったぶんの高さから落下する。


 それはどれほどの痛みと苦しみをともなうだろうか。

 いま、これほど頑張っている沁子が、どうして未来にまでもそれほどの苦痛を背負わなければならないのか。


 一発と恵美子はそれがいやだった。

 もちろん、可愛い姪っこだからという理由も大いにあるが、頑張っても報われない地獄そのものをみずから否定したかった。


 もうひとつ、一発には否定したいものがあった。


 ふたりがこの席につく際、沁子が机上に置いた白い封筒である。

 机の真ん中ではなく、申し訳なさそうに机の片隅で縮こまっているのが、いかにも沁子らしい。


 なかなか首を縦に振らない沁子に業を煮やし、一発は封筒を指さした。


「ところでなんだそりゃ」


 沁子の視線が封筒に落ちると、彼女は話題が変わってほっとしたのか、相好そうごうを崩しながら嬉々として口を開いた。


「すっかり忘れてましたっ。これはですねっ、先日、アルカディアで大きな収入がありましたもので」


 心から嬉しそうに、封筒をずずいと差し出してくる沁子。


 ああ、封筒の中身が、今日遊んだゲームセンターでもらったクレーンゲームの無料券とか、カラオケやボウリングの割引券とか、みんなで撮影したプリントシールならばどれだけよかったことだろう。


 渋々封を切った中には、やはり紙幣が入っていて、一発と恵美子の肩を落とさせた。


「あのあの、全然足りないんですけど、家賃や生活費の援助をいただいているぶん、すこしでもお返しできればと思いましてっ」


 一〇万円。

 ふたりにとってはなんてことない額だが、高校生の稼ぎにしてはやや大きすぎる。


 ふたりは、アルカディアがどれだけ危ない場所か、よく知っている。

 一〇万円といえば、1ゴールドだ。

 1ゴールドといえば、100シルバーであり、10000カッパーだ。

 槍を持ち襲いかかってくるコボルトを倒して、ようやく30カッパーの稼ぎであることも知っている。


 沁子が鳳学園高校に入学してまだ一ヶ月も経過していない。

 となれば、強い敵と戦う基盤や、効率よく金を稼ぐシステムがきっちりと出来上がっているとも考えづらい。


 一〇万円という金額は、一発たちを額の大きさで喜ばせるどころか、沁子がアルカディアでいかに危険を冒しているかを伝える結果になってしまった。


 一発は沁子に聞こえないよう、


「こんなもん……受け取れると思ってんのかよ」


 口の中で小さく呟いて、封筒を沁子へつき返した。


 言いたいことはたくさんある。

 こんな大金どうしたんだ。

 アルカディアで危ねえことをやっているんじゃねえのか。

 危険がつきまとう異世界勇者は、ふとしたときに性格が変わってしまうことがある。

 なら、アルカディアに行くのはもうやめにしたほうがいいんじゃねえのか。


 一発はそのすべてを呑みこんだ。

 そんな言葉が霧散するほど、沁子の、


 ──えっえっ、どうして受け取ってくれないんですか?


 とでも言いたげな表情が切なかった。

 それがたまらなくて──


「いいか、沁子ちゃん。俺たちはお前らの親になろうとしてんだぜ。俺たちが病気になって働けなくなったならともかく、いまそんなもんを受け取れるわけがねえだろうが」


 結局、口の中に封印した思いを解き放った。


「いい加減わかれ。沁子ちゃんは両親が帰ってくるのを待ってるが、もう五年だ。父親を頼りたいのはわかる。母親に甘えたいのもわかる。でもな。ちょっと銭湯に行ってきた、ちょっとスーパーに寄ってきた、じゃもう済まねえんだぜ」


 その勢いで立ち上がる。


「俺たちはな、お前らにもっと頼られてえんだ。甘えられてえんだ。そして俺たちにはその準備がある。沁子ちゃんはもう、無理しねえでいいんだ」


 沁子は一発の咆哮のような声をじいっと聞いていた。

 涙をこらえるように、ぎゅっと口を引き結びながら。


「沁子ちゃん。叔母さんたちと家族になりましょう? なにもすぐに一緒に住もう、ってことじゃないの。そういうことはゆっくりと考えていけばいいから」


 恵美子が優しい声をかけてくれる。

 しかし、沁子は目を瞑ったまま、首を横に振った。


「そう言ってくださって、とってもうれしいです。そう言ってもらえるわたしたちは、しあわせです」


 胸に両の手を重ねて、ふたりのあたたかさを受けとめて──



「でも、ごめんなさい。わたしたちの両親は、足柄山一途いちずと足柄山めごだけです。これまでも、これからも」



 正座のまま後ろに退がり、自らと机にあいだを開け、その隙間に入れるように、ゆっくりと頭を下げた。


 強情な、と一発は歯噛みをこらえきれなかった。


「目をさませ。沁子ちゃんを助けてくれる魔法なんてねえ。沁子ちゃんを救ってくれる奇跡なんてねえ」


 立ち上がったまま、沁子の後頭部を見下ろす。


 こんなはずじゃなかった。

 首こそ縦に振ってほしかったが、こんなふうに頭を下げてほしくはなかった。


 沁子のために鬼になろうと決意したものの、一発の胸には鬼になりきれぬ人情という心があった。


 そうして一発が手をこまねいているあいだに、沁子が顔を上げ、もう一度下げた。


「叔父さんと叔母さんにはこれ以上ないくらい感謝してます。おふたりの親切がなければ、わたしたちは生きていけません。本当にありがとうございます」


 沁子の口から漏れるのは、いつも耳にする感謝の言葉。

 水くせえこと言うなよ、と返しても、何度も重なる万謝の声。


 一発は、感謝されること自体がいやなのではなかった。


 沁子は高校生という身分で、家族の為に己をすり減らし、感情をすり減らしている。

 その残滓ざんしでさえも、自分たちに気をつかってしまう沁子が哀れでならなかった。


 そんな沁子に、いちいち頭を下げさせてしまい、金一封まで用意させてしまう、この距離感がいやだった。

 そして一発のなかで、そういうやりとりが必要でない距離が、親子だったのだ。


 ようするに、一発は、沁子たちになにかしてやりたくてたまらないのだ。

 その心に憐憫れんびんの情がないといえば嘘になる。

 しかし間違いなく、一発の心には親愛があり、情愛があり、慈愛があり、そのどれにも愛が入っていた。


 恵美子も一発と同じ気持ちだった。

 沁子たちをなんとかしてやりたい。

 そのためにはもう一歩、沁子の心の奥へ踏み出さなければならない。

 傷つけることを承知の上で、もう一歩。


 その一歩を、一発は酒の力に頼ろうとした。

 瓶を傾けて、グラスを黄色い液体と泡がトクトクと満たしてゆく。


 そのとき、沁子が口を開いた。



「本当にごめんなさい。誰かが待っていないと、お父さんとお母さんが帰ってきたとき、きっと寂しいでしょうから」



 え、と恵美子の口から気の抜けた声が漏れた。

 一発は瓶を傾けたまま沁子に目を移してしまい、少量の泡がわずかに机を濡らした。


 普段ならば慌てて濡れ布巾を用意してすぐさま主人のフォローをする恵美子だったが、沁子の言葉に呆然としてそれどころではなかった。


 一発と恵美子が驚いたのは、沁子がまるで両親が帰ってくることは決まっているような言いかたをしたからではない。


 ふたりは沁子が、自分を含めいまいる家族のために両親に帰ってきてほしいと強く願っているのだと思っていた。

 もちろん両親への愛や、ふたたび両親と笑い合える青写真への憧憬もあるだろうが……


 両親が帰ってきたとき、寂しがるだろうから……?


 ……なんだそれは。


 沁子はいつしか、両親を想う気持ちでさえ、自分の気持ちを棄て、いま居ぬ両親の心を優先していたのではなかったか。



 一発は、沁子の両親がいなくなったころのことを思い出す。

 少女から笑顔が消え、人形のようになってしまった日のことを──

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る