10.5-07-魔法3 -雪割草-
「今日は本当にありがとうございました。バーベキュー、弟たちも喜んでました」
足柄山家の和室。掛け時計はもう夜の一〇時を指している。
年季の入った座敷机を挟んで沁子の向かいに座るのは、叔父の一発と妻の恵美子だった。
「かまわねえよ。ウチのも遊びたがってたし、ちょうどよかった」
「私も楽しかったわぁ。おばさんたちにできることがあったら、なんでも言ってね」
「それにしても、食いしん坊の一徹とつくねが肉に釣られて来ねえとは驚いたな。コブ付きにしちまって悪かったが、どうだ? 楽しかったか?」
一発は沁子をからかうように口角を上げ、恵美子はたしなめるような素振りを見せたが、どうやら彼女も気になるらしく、沁子に、それでどうだったの? とでも言いたげな視線を送った。
「あの、何回も言いましたけど、おふたりが期待するようなお出かけではありませんからね? クラスのみなさんと遊びに行っただけですからね?」
「だけど、いたんだろ? あいつも」
一発は透のことだと口にしなかったが、沁子は「あいつ」というのを透のことだとすっかり思いこみ、小さく頷く。
一発と恵美子はそんな沁子が微笑ましく、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「あいつのこと、奈々子も褒めてたぞ。さすがにまだスピードはイマイチだけど、丁寧な仕事をする、ってな」
奈々子というのは今年大学生になった一発と恵美子の長女で、沁子や透と同じパン工場でバイトリーダーをしている。
一発の指示で、透の向かいで作業を監督していることが多い。
「奈々子さんが褒めるって珍しいですねぇ。……ふふっ、藤間くん、工場のアルバイトが天職みたいなことを言ってましたよぅ?」
「高校生が憧れるには夢のねえ仕事だ。藤間には、パイロットか警察官にでも夢見とけって伝えとけ」
「ふふっ、はい。……ふふっ」
くすくすと笑う沁子の姿に、ふたりはほっと息をつく。
対して沁子は笑いながらも、いまの会話が本題に入るためのジャブであることを理解していた。
こんな時間に夫婦揃って子どもも連れずに来訪するということは、なにか重要な話があるに違いないのだ。
一発は瓶の栓を抜き、自らのグラスにとくとくとビールを注いだ。
未成年しか住んでいない足柄山家にアルコールのストックなどあるはずがなく、このビール瓶は一発が持ち込んだものだった。
酒は憂いの
字の通り、酒は陰鬱な気持ちを掃いてくれる
すなわち、一発はこれから暗い話をするつもりなのだ。
沁子は身構えながら、ビールが一発の喉に流れてゆく様子をじっと見つめていた。
「ところでよぉ」
一発の目がぎらりと煌めいた。
ほらきた、と沁子は警戒を強める。
しかし、一発は照れ臭そうに沁子から視線を逸らすのだった。
「そ、その。……藤間には、いい人いねえのか」
「……はい?」
一発は「いや、だからよぉ……」と厳つい顔から弱々しい声をごにょごにょと発しながら、両手の人差し指を気まずそうに絡ませる。
「あいつには彼女、いねえのか、ってよ」
沁子は一瞬、一発が透のことを
ならばどうしてこんなことを自分に訊いてくるのか──その理由を考えてもわからないほど、沁子は暗愚ではない。
しかし、沁子は無知を装い、とぼけてみせた。
「どうしてそれをわたしに訊くんですか?」
「いや、どうしてってよぉ……」
最近入ったアルバイトが姪っ子のクラスメイトだった、となれば、透の名前が話題に
しかし、彼女の有無や、
「一徹もつくねもあいつに懐いてるみたいだしよ……。今日もずっとつくねと遊んでくれてたんだろ? そんなやつなかなかいねえよ。……だからその、どんなもんなんだ、って思ってよ」
こういった話題はいささか踏み込みすぎに感じた。
「沁子ちゃん。この人はね、あなたにもうすこし女子高校生らしい生活を送ってほしい、って思っているのよ」
「女子高校生らしい、ですか」
「そうよ。 一度しかない青春だもの。勉強、部活、スポーツ。そういうのもいいけど、学校帰りにお友達とクレープを食べたりね」
恵美子の語り口と表情こそ笑っていたものの、内心では自分の言葉のそらぞらしさと冷酷さに身を切られるような思いだった。
なぜなら、いまの沁子にはそれができないことをじゅうぶん理解していたからだ。
それでも一発が沁子になにを伝えたいか、それを理解している恵美子は、心の
「あと──恋、とかね」
沁子もわかっている。一発と美恵子が透とつきあわないのか、と発破をかけていることに。
「そんな……簡単なものじゃ、ないんです」
沁子の言葉は、人の良い叔父夫婦を落ちこませるにじゅうぶんだった。
……いや、言葉よりも、どれだけ辛くても笑顔でいる沁子の表情が寂しげに曇った──そのことがいちばん、ふたりに
「藤間くんには、決まった人が、いますから」
沁子の前では大人でいようとした一発だったが、あぐらを解き前のめりになって、座敷机ごしに沁子に詰め寄った。
「お、おい、マジなのか」
「婚約者、ということ? この時代に?」
「いえ、そういうのではなくて……。どうしてまだおつきあいをしていないのか、とんとわからないかたがおりまして」
一発と恵美子は顔を見合わせて、ふたたび沁子に顔を向けた。
「なんだぁ? その子とはまだつきあってねぇのか?」
「はい」
「じゃあ、決まった人っていうのは違うんじゃないかしら?」
沁子の返事に希望を見出したのか、ふたりの顔に若干の笑みが生まれた。
しかしそれは弛緩と呼ぶにはほど遠く、沁子の言葉を恐るおそる待つ程度の緊張が残っていた。
沁子は言葉を選ぶように目を瞑る。
脳内で自分の意見をまとめているというよりも、どのように話せばふたりの顔を悲しみに染めないで伝えられるか、考えているようだった。
やがて沁子は意を決したのか、
「灯里さんはですねっ」
ふんすと胸を張り、笑顔をつくった。
「わたしなんかよりも、とっても綺麗で、かわいくて、あとあと性格もよくって……すごく、優しいんです。……それに」
……が、それもわずかな時間とともに
「時間が、あるんです。藤間くんといっしょに登校したり、いっしょに帰ったり、お休みの日にふたりでおでかけしたり」
そこまで言って、沁子ははっとして言葉をとめて俯いた。
「……ごめんなさい。こんなこと、言いたくなかったです」
沁子は下を向いたままだったが、どんな表情をしているか、一発と恵美子にはありありと理解できた。
「ともかく、わたしは」
沁子は顔を上げる。
せいいっぱいの笑顔をつくって。
「灯里さんのことも、大好きなんです。だから、おふたりには幸せになってほしいです」
首を傾げて笑う沁子だったが、一発にも恵美子にも、それが心からのものだとは到底思えなかった。
それがまた、たまらなく切なかった。なぜなら、沁子の表情が、言葉の抑揚が、そして『灯里さんのこと〝も〟大好き』という台詞が、沁子の胸の
友人のためを想って身を引く──そこまで珍しい話ではないが、自分の時間のほとんどを家族に捧げる若干一五歳の少女が、学校でも、友情でも、恋愛でもそうして身を引かねばならぬ立場にいることが、どうしようもなく悲しかった。
しかし、透のことをよく知らず、沁子が灯里さんと呼ぶ少女にいたってはなにも知らないふたりにとって、すくなくともいま、これ以上の追求は不可能だ。
ふたりは顔を見合わせて
今回の訪問における一番の目的は、透との話をすることではもちろんなかった。
「なあ、沁子ちゃん」
ここまでは前座とでもいわんばかりに一発が声のトーンを落とした。
一発たちが背にしている換気のために開かれた窓の外には、墨を流したような夜が広がっている。
深い闇が、蒼く冷たい風を網戸越しに運んできた。
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