10.5-04-残心4 -隙-
カラオケ店からの帰り道。きらびやかな外灯が目立つ通りから一本折れると、街灯が並ぶ住宅街の様相に早変わりする。
電柱から伸びた灯りに一匹の羽虫が何度も着地を試み、ジッジッと不快な音を鳴らしている。
いつもの亜沙美ならば顔をわずかに歪め、足早に通り過ぎるのだが、彼女は虫に気づいた様子すらなく、香菜の隣を歩きながら、なにやら考え込んでいた。
『残心ってゆーの? 香菜のあれ、超好きなんだよね』
そう言ってから黙考する亜沙美の様子に香菜は、自分の残心を好きと言ったはいいものの、具体的にどう言えばいいか考えているのか、あるいは伝えかたを考えているかのどちらかであろう、と推察している。
そうしながらも、脳裏をよぎる少年の姿をどうにかかき消そうと苦心していた。
射の話だけで透のことを思い出してしまった香菜は、いけない、と思いながらもすでに身体じゅうが熱くなってしまっていることを悟る。
春の夜風は、汗ばんだ身体には冷たく感じる。むしろ香菜は、この冷気で裏切りものの自分を責めてほしい、と願ってしまうのだった……。
愛や恋といった話など、そこらじゅうに溢れかえっている。
ならば皆は、この胸を強く打つ鼓動と、この身を焦がす熱と、そして本来ならばはじまってすらいけないこの想いに気づいたとき、どのように対処しているのだろうか。
……さすがに亜沙美に訊くわけにもいかず、無言のままアパートの自動ドアを通過した。
エレベーターに乗り、三階のボタンを押したとき、
「あ、そーだ」
ようやく亜沙美が口を開いた。声はなにかを閃いたように弾んでいた。
「どうしたのー?」
「や、香菜の残心、単純にカッコいいだけじゃなくて、具体的にどんなとこが好きなのか考えてたんだよね」
やはり友達思いの友人は、自分のことでこんなにも考えてくれていたのだ……と胸があたたかくなるのを感じながらも、香菜は「えーやめてよー恥ずかしいー」などと両手を振る。
「んとねー。人ってさ、周りに合わせようとするじゃん。そのために自分をよく見せようとしたり、ヤなとこは隠したり」
「そ、そうかなー?」
香菜は白々しく首をかしげながら、胸の奥を抉られたような気分だった。
亜沙美の言う〝人〟とは、香菜のことを優しく言い換えたもので間違いないだろう。そしてそれは香菜も自覚している、自分の大嫌いなところだった。
「でもさ、残心にはそれがないんだよね」
「……ぇ?」
「ありのままの香菜がいるだけ、ってゆーか。カメラの前でキメてるわけでもないのに、キマってるってゆーか……。人間らしいしがらみを超越した美しさ、みたいのがあるわけよ」
「ありのままの、ウチ……」
香菜は亜沙美と目を合わせたまま、ぽかんと硬直する。
「あたしはさ。人の心を動かすのは、言葉じゃなくて、ものごとに立ち向かう姿勢だ、って思うんだよね。香菜の残心には、ありのままの香菜と、その姿勢がある」
亜沙美の言葉で高鳴る胸の鼓動と比べ、三階に到着したエレベーターのチンという音はちっぽけだったし、揺さぶられた心とは裏腹に、箱の振動はつまらないものだった。
しかし、扉が開いた正面に映る夜空は、どこまでも広がっている。
「……ん? 香菜どーしたん? 行かんのー?」
外廊下へと足を踏み出した亜沙美が何事もないように香菜を振り返る。
「ふふっ……そういうところ、似てるなぁ……」
「ん? あたし? なにが? 誰に?」
「ううん、なんでもないー」
──そうか。
──ウチ、立ち向かえて、いたんだ。
嫌われることをいやがって、怖いことには目を背けて、どうしようもなくなると逃げだした。
自分の想いに蓋をして、溢れて零れたものはシャワーで排水口に流してきた。
──そんなウチでも、射ではちゃんと、立ち向かえていたんだ──
「ありがとう亜沙美。ウチ、決めた」
「んー? なにー? ……てかさ、さっき誰に似てるって?」
香菜もエレベーターを降りて、夜に身を晒す。
歩きながら通路天井の蛍光灯を頼りに鞄から鍵を取り出した。
亜沙美は自分の質問に答える様子のない香菜に対し、苛立ちこそしないものの、
香菜はそれにふわりと笑って返した。
「ウチ、ちゃんと向き合ってみる。今度こそ、ちゃんとできそうだから」
次は亜沙美が硬直する番だった。が、それも一瞬で、香菜がなんのことを言っているのかを、見かけによらず明晰な頭脳がすぐさま把握し、彼女の口角を上げさせた。
「ふーん……。なにと向き合うわけ?」
「藤間くんのこと」
今度は頭が理解していても、驚きに染まる顔を止められなかった。
亜沙美は香菜の想いを知り、香菜がそのことで悩んでいると知っていて、これからどうするつもりなのか、じっくりと時間をかけて一緒に考えていくつもりだった。
だからいまここで透の名前が飛び出したことに目をぱちくりさせる。
「向き合うって、具体的にはどうすんの?」
「んー、そうだなー」
香菜は何事もない様子で部屋の鍵を開けながら、空いた手の人差し指を
開錠されたドアのノブに手をかけ、背をのばし振り返る香菜の姿を見て、亜沙美は──
「ウチ、伶奈に打ち明けてみようって思うー」
亜沙美は、香菜の身長が自分よりも高かったことを、いまごろになって思い出す。
「……え、嘘、マジ?」
亜沙美の驚きは複数の意味が
「ウチ、それくらいしか、立ち向かいかた思いつかないからー」
そう苦笑する香菜はいつもの香菜であることは間違いないのに、亜沙美の目にはなぜかいつもより大きく映った。
本日二度目のシャワーの準備をする香菜。
バスルームの入口で、亜沙美が香菜の背に声をかける。
「あんさー。なんで藤間なわけ? ……まーいいところもあるけどさ。ちょっと引くくらい変なところあるじゃん」
「あははー、そうかなー? ……でもむしろ、そこがいいんだよー」
香菜にとって憧れとは、雲の上の存在に対する、尊敬や
しかし透の、妙に泥臭いところや、お洒落にこだわらないところ、同年代の若者らしからぬ純朴な一面は、香菜の手が届きそうな場所まで透を近づいてくれた気がした。
好きなことには早口になるオタクらしいところは、親近感すら覚えた。
「なんつーか、隙だらけっつーかさ……」
そう。
透は隙だらけだ。
今日の昼、メンズショップにて、香菜が透にネックレスをつけたとき──
『ぬ、ぬおおおお……』
『っ……ごめん、ウチ……!』
完璧な人間は、こうはならない。
たとえば悠真なら、香菜に余裕のある笑みを向けるだろう。
しかし透は狼狽えて赤面し、情けない声をあげた。
──ウチなんかに、そんな顔をしてくれるんだ──
その
「そういうところが
好きになってもいいんだ、という想いが、憧れを、恋にした。
「ちょっとわかる気がするの、なんかムカつく……」
「ん?」
亜沙美は香菜に聞こえないよう、シャワーのヘッダーから滴る水音よりも小さな声で呟く。
ムカつくというのはもちろん、香菜に対してではなかった。
「それにしても香菜、なにがあったん? 言っちゃ悪いけどさっきとは別人じゃん」
穏やかな笑みを浮かべていた香菜だったが、亜沙美の言葉でブラウンの瞳は急に慌てて揺れ動く。
「そ、そう? 変かなー? ……引いた?」
亜沙美は香菜の残心を好きだと言ってくれた。そしてそれは立ち向かっているから、だとも。
亜沙美からもらった言葉で、香菜は自分の想いに立ち向かうことを決めた。
香菜が亜沙美に想いを打ち明けたその行動こそ、立ち向かう行動の第一歩だったのだ。
逃げ出さず、顔も背けない──それが立ち向かうということ。
そして、胸を張って生きる、ということ。
亜沙美の反応がどうであれ、香菜は自分の意志を曲げるつもりはなかったが、目の前にいるどうしようもないほど正直な友人にだけは理解してほしい、という願いもあった。
時を待たずして、亜沙美はにいっ、と口角を上げた。
「まさか。もっと好きになった」
香菜が〝周りに合わせてしまう〟という悩みを抱えていることを察していた亜沙美は、香菜がありのままの自分をさらけ出してくれたことがたまらなく嬉しかった。
「ウチも亜沙美大好きー」
香菜はありのままの自分を受け入れてくれた友人の頼もしさに感極まり、亜沙美の胸に飛び込んでゆくのだった。
──
「ぎゃああぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁああ!?」
「大丈夫だよ亜沙美、怖くないよー」
シャワーを終え、リビング。
亜沙美のために床に布団を敷いていたが、ふたりは香菜のベッドに腰掛けていた。
モニターには雪山の山荘で起きた、惨たらしい殺人事件の現場が映っている。
「もう無理だって……! なんでみんな別々の部屋で寝ようとするわけ!? こーゆーときは、広い部屋に集まってればいいじゃん! そもそも寝ようとする神経どーなってんの!? ……もういや……! ぐすっ……!」
ホラーだと思ってふたりが借りた作品は、どうもサスペンスミステリものだったようで、香菜からすると大いに肩透かしを食らった気分だったが、亜沙美からすればこれでもアウトらしい。
先ほどとは立場が逆転し、亜沙美は香菜の胸に顔をうずめ、腕にすがりついて赤ん坊のように泣き出してしまった。
「よしよし、怖くない、怖くないー」
香菜はリモコンを操作してディスプレイの電源をオフにし、左手で亜沙美の頭を撫でながら、右手で背中をさする。
そうしながら、やっぱり亜沙美と透は似ている、と再認識する。
どうしようもないほどの強さ。
どうしようもないほどの弱さ。
よくよく考えると、亜沙美にも弱いところがあって、こうやって抱きしめられる範囲にいてくれるからこそ、自分は亜沙美が大好きでいられるのだと思うと、自然に笑みがこぼれた。
「うう……トイレ行けない……。つ、ついてきて」
「えっと……あははー……ここから見える場所にあるんだけどなー」
亜沙美の苦手なものへの克服はずいぶんと先になりそうだ、と苦笑する。
亜沙美には悪いが、それでもいい、と思った。
──何度でも、どれだけでも、つきあうから。
立ち上がり、足をもつれさせながらよたよたと歩く亜沙美を支えながら、こうして時々隙を見せて自分を大人にさせてくれる友人を、香菜は心から好ましく感じるのだった。
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