10.5-03-残心3 -残心-
「んーっ、歌ったー! もう声でないー!」
カラオケ店の派手な電飾に背を向けて、亜沙美が大きく伸びをした。言葉とは裏腹に、夜の街に響く声はまだまだ元気そうである。
「楽しかったねー。亜沙美やっぱり歌うまー」
「そう? 香菜もめっちゃうまいじゃん。でもありがとね!」
香菜は自分が音痴や下手ではないと認識しているものの、高音域になるとすぐファルセットを多用してしまう悪癖──というか、声が裏返ってしまわないように配慮しすぎるきらいがあると自覚している。
対して亜沙美はミックスボイスを主体とする力強いハイトーンを得意としていた。かといって一本調子ではなく、しっとりとした曲では柔らかなファルセットを響かせる。
パワフルかつ煽情的な歌唱は香菜だけでなく、友人たち、ドリンクやフードを運ぶ店員をも魅了する力を持っていた。
「んじゃ帰ろっか。ごめんだけど、もっかいシャワー浴びていい?」
「うん、いいよー」
ありがと、白い歯を見せて笑顔になる亜沙美。
香菜は亜沙美を見て、感情豊かだなぁ……と同じように笑顔になってしまう。
亜沙美は喜怒哀楽がはっきりしている。この感情の起伏こそが亜沙美の魅力であり、もしかするとこういった
「香菜はさ」
「んー?」
前を歩き、振り返らないまま紡がれた亜沙美の声に、香菜はどきりとしつつも平静を装って返す。
きっと亜沙美は自分に言いたいことがあるのだろうと香菜は気づいていた。
しかしそれを受け入れるだけの余裕が香菜になく、香菜のメンタルを回復させるためにカラオケに連れ出してくれたのだ、と。
「もっと自分に自信を持っていいと思うんだよね」
香菜は亜沙美が透と伶奈のことを口にすると身構えていた。
そうでないことに若干の安心感を得たものの、自分に自信がないという香菜の宿命にも似た難題に、きゅっと拳を握る。
「そんなこと言われても、どこに自信をもっていいのかいまいちよくわかんないー」
たははー、と困った顔になって首をかしげる。
これまで亜沙美には、ふわっとしていて可愛いとか髪が綺麗とかスタイルがいいとか優しいとか様々な褒めかたをしてもらっていたが、香菜からすれば亜沙美のほうが綺麗でスタイルもよく、真の意味で優しい。
亜沙美は優しいから、自分に気をつかってこう言ってくれているのだ──と、自虐的に考えてしまう。
亜沙美は歩きながら考える素振りをして「あたし、香菜のアレ好きなんだよね」と香菜を振り返った。
「アルカディアでさ。香菜、弓にしたじゃん。あたしも持ってる小さいのじゃなくて、大きいやつ」
急にアルカディアの話が出てきて戸惑ったが、洋弓から和弓に持ち替えたことを言っているのだろうと香菜はすぐに理解する。
「香菜ってさ。矢を射ったあと、余韻みたいなの残すじゃん。あたし、香菜のアレちょー好き」
亜沙美の言う余韻とは、
射法八節とは、弓道における矢を射る際の八つの基本動作のことである。
足踏みで立つ位置を決め、
胴造りで姿勢を整え、
離れで矢を射る。
そしてその後の構え──射手に残る精神のことを残心、形のことを残身と呼ぶ。
八つの構えのうち、残心だけは矢の飛びや命中に関係がない。
なぜなら残心の構えをとっているとき、矢はすでに放たれているからだ。
それでもこの残心が八節に組み込まれているのは、弓道が得点を競うゲームではなく、精神性や礼節を重んじる〝武道〟であることの証左であろう。
とはいえ、香菜たちがアルカディアで繰り広げるのは〝闘い〟である。
こちらが武道の構えをしているからといって、モンスターがそれを理解し、待ってくれるはずがない。
武道に
実際、透もそう思ったし、亜沙美も同じだった。
透はともかく、疑問に関しては
亜沙美の質問をとめたのは、言うまでもなく香菜の実力だった。
香菜の和弓から放たれる高速の矢は、精神性を魔力として纏い、音速に変わる。
これまでの香菜や亜沙美が使っていた洋弓から射出されるものとは次元の違う、モンスターを打ち砕く入魂の
その威力に透も亜沙美も、一見無駄にも感じる香菜の構えを、魔法でいうところの〝詠唱〟と捉えた。予備動作、予後動作があるからこそ強いのだ、と思わせるほどの火力を香菜の矢は持っていた。
しかし自己評価が低い香菜からしてみれば、亜沙美の言葉は意外だった。
「残心のことだよねー? そ、そうかなー? 自分じゃわかんないー」
残心というのは残る心という名前でありながら、心を残すのではなく、心のすべてを
良い残心にしよう、と思えばその時点で残心ではない。無心ではないからだ。俗に言えば、カッコよくしようとすればそれはカッコいいではなく、カッコつけなのである。
これは良い射ができた際に起こる、弓が勝手に回転する
こういった、
中学生のころは残心を意識してしまい、逆に意識しないようにすることでむしろ意識して叱られてしまう香菜だったが、アルカディアでは違った。
迫り来るモンスターは構えの美しさに意識を向ける余裕など持たせてくれなかったし、射についてあれこれ陰口をたたく同級生もおらず、監視官もいなかった。
人間には自由になったときに喜ぶ者と、縋るものがなくなって不安になる者がいる。香菜は後者だった。
自分の射は正しいのだろうか。
教えてくれる人は、もういなかった。
闘いのなかで、武道を貫いていいのだろうか。
口に出してもいない懊悩に、応えてくれる人なんているはすがないのに。
『弓道ってのは、どれだけいい射ができるかを突き詰めていく武道なんだろ。だから外すとヤバいとか気にしないでいい』
──監視員も恩師もいなかったが、理解者はいてくれた。
香菜が洋弓から和弓に持ち替えたことで、弓道についてわざわざ調べてくれた人が。
透がそれを調べた理由はまったく別だったが、香菜の耳にはそう聞こえた。
自分の射が、許された気がした。
『自分のペースでいい』とは、楽してもいいとか、失敗してもいいとか、そういうことじゃない。
ちゃんと頑張っている。たとえ失敗しても、失敗から学ぼうとしている。
それを知ったうえで、ありのままのお前でいいんだ、と言ってくれた気がした。
ありのままの鈴原香菜でいいんだ、と。
そのとき、香菜はようやく、自分自身と向き合うことができたのだった。
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