10-37-言ノ葉──前編
女性とふたりで飲食店に入る、なんていまさらはじめてでもないし、取り立てて特別な感情を抱くことはない。
むしろ女性と飲食店なんて俺はマスタークラスと言っていい。
ただまあ、その相手が母親か妹の澪だけだった、というだけの話だ。なにこれ泣きそう。
歩いてきた道をわざわざ引き返し、市川駅周辺で食べることになった。
しかし肝心のなにを食べるか、が決まらぬまま、うろうろと駅前をぶらつく。
「な、なに食いたい?」
「な、なんでもいい、よ」
漫画とかアニメとかラノベの知識で、俺はいやというほど知っている。
女子の「なんでもいい」は「私が気にいるものならなんでもいい」なのだと。
そしてそれは、安く食事できるチェーン店ではなく、小洒落たカフェなのだと。
なんとなく灯里は洋食が好きな気がする。
目の前にイタリアンレストラン・サイゼルィヤの看板が緑に煌々と光っているが、俺の半生を占めるサブカル知識が「やめておけ」と警鐘を鳴らす。
なんでだよサイゼ安くて美味くて最高じゃねえか。美味いドリアとドリンクバーで500円とか最高じゃねえか。
でもなぜか世論はこの最高のレストランを、女子とふたりで入るにはそぐわない、みたいな言いかたをする。リーズナブルな価格がそうさせているのだろうか。
もしもここを選んでしまえば、明日から俺のあだ名は〝サイゼ藤木〟とかいうリングネームみたいなものになってしまうかもしれない。
おのれ金髪ギャル、などと勝手に高木を悪者にしながら、緑の看板を横切った。
そういえば、灯里は俺と違い、ずっとこの市川市に住んでいるらしい。
ならば灯里のほうが詳しいのではないだろうか。
「灯里はいつもどんなもん食ってるんだ?」
「うーん……お父様やお母様と一緒のときは……あはは……高校生にはそぐわないお店かも……」
ここで難易度はさらにあがった。
お父様。お母様。
そうだ、灯里は警視総監の娘で、家に家令がいるお嬢様なんだった。
きっと目玉が飛び出るほど高いフレンチを上品なフォーク使いで食べているに違いない。
「……ちょっとくらい高くてもいいぞ」
背伸びした俺の言葉に、灯里は笑って首を横に振る。
「私、藤間くんがいつも行くようなお店に行きたい」
「えぇ……」
もう遥か後方に見えなくなってしまったサイゼを振り返る。
いや、じつはわかってる。灯里は俺がどんな店を選んでも、文句を言うような子じゃないことは知っている。
でも、だからこそ、惰性で選びたくなかった。
気づけばもう駅前で、いくつもの飲食店の看板が「ここにしろ」と言わんばかりに何色もの光を放っている。
そのなかから居酒屋や焼き鳥屋を除外しつつ、ちょっとでもオシャレそうな看板を探していると、灯里がじいっとある看板に視線を送っていることに気がついた。
視線の先を辿っていくと、そこにあったのはラーメン屋の看板だった。
「え、うそ。ラーメン?」
誤解がないように言っておくが、俺はラーメンが大好きだ。
いまの「え、うそ」は、灯里がラーメンに興味を持っているという意外性に対してのものである。
「あ、ううん、その……私、ラーメンって食べたことがなくって」
「え、うそ」
この「え、うそ」は誤解もクソもない。
ラーメンを食べたことのない高校生がいることに対する驚きだった。
「お蕎麦とかおうどんならあるんだけど……変、かな」
「あ、いや、変ってことはねえけど……。ラーメンでもいいのか?」
「うん。藤間くんがいやじゃなければだけど……」
いやなわけがない。むしろ好きだ。
問題は本当にラーメンでいいのか、ってことなんだけど、むしろ灯里のほうからの提案。こんなにもありがたいことはなかった。
「じゃあそうするか。行くぞ」
「うんっ。……あれ、入らないの?」
「ラーメンはラーメンでも、ここはハードルが高すぎる」
ふたりの目の前にあったのは、いわゆる二郎系ラーメン。
「ニンニクマシマシ野菜マシ」な、極太麺の上に大量のモヤシタワーが屹立するあれだ。
俺個人としては好きだが、少食の灯里からすると厳しいかもしれない。そう思い、今日高木と鈴原と歩いているときに見かけたラーメン屋まで移動することにした。
灯里の好みを考えれば、なんとなく透き通った黄金色のスープと上品な麺のあっさりラーメンがいいだろうかとも思ったが、残念ながらこの近辺にあるかどうかもわからない。
なので、先ほど灯里が言った「藤間くんがいつも行くようなお店に行きたい」という言葉に甘えることにした。
三分ほど歩いてやってきたのは、アーケード街にある、いわゆる家系ラーメンの店だった。
なにを隠そう、俺は家系ラーメンが大好物である。
というよりも、藤間家全員の好物でもあり、幼い頃はよくのれんを潜ったものである。
「もっぺん訊くけど、ラーメンでいいんだよな?」
「うん、いいよ。……えへへ、ちょっと緊張する、かも」
先導して横開きの扉を開けると、店の外にも漂っていた豚骨醤油の香りと店員の威勢のいい声が俺たちを迎えた。
店内は混んでいたが、ちょうど空いた四人掛けのテーブルに通される。
食券システムではないことを意外に感じながら卓上にメニューを探すと、一台のタブレットがスタンドに立てかけられていた。
「そちらからご注文お願いしまーす!」
やたら愛想のいい女性店員が氷水の入ったピッチャーを置いていった。タブレットの横にある剣山みたいなホルダーから逆さまになったプラスチックのコップをふたつ取り、水を注いでゆく。
「あっ……私が……って、自分でお水を入れるんだね……」
「あーすまん、澪と来たときの癖で」
澪と来れば、まず澪がメニューを見て、そのあいだに俺が水を準備するのがあたりまえだったから、つい真っ先に入れちまった。
水セルフの店なんて俺からすると当然みたいなところがあるけど、灯里の言葉と驚いた顔が、こんな店来たことない、と雄弁にもの語っていた。
側面に自然な凹凸のある木のテーブルには真新しい拭き跡が残っていて、しまった、こういうのも灯里は気にしちゃうんじゃないか、と思ったが、灯里はさして気にするふうもなく、興味深げに店内を見回していた。
灯里は気がついていない様子だが、店内の客は一組の家族連れ以外が全員男性で、まるで荒廃した地に咲く一輪のエーデルワイスに驚いたような視線を灯里に送っていて、彼らは俺と目が合うと慌てて顔を逸らした。
このままでは店内に流れるJ-POPもヨーデルになってしまいそうだ。俺は大げさに腕を動かして、壁沿いに立てかけられたタブレットに人差し指を伸ばした。
「なんにする? ……つってもラーメンしかないと思うけど」
タブレットには気合の入った豚骨醤油ラーメンの写真が「ザ・家系ラーメン! これで勝負してます!」と無言で誇っていた。
横にスライドさせると、豚骨塩や辛味を加えたラーメン、スープが透き通った中華そば、サイドメニューのからあげやライスが所狭しと並んでいる。
「藤間くんはどれにするの?」
「俺は豚骨醤油。家系にきたらまずはこれ食わねえと」
というか、豚骨醤油を食うために家系に入るってところあるしな。
「じゃあ私もそれにする」
「……いいのか? ちょっとしょっぱいかもしんねえぞ。こっちの中華そばのほうが食いやすいんじゃねえか」
「ううん、藤間くんの好きなものも知りたいから」
なにげなく響いた灯里の声に俺の指が止まった。
灯里はいつもすぐ顔を朱くするくせに、なんのことかわからない様子で可愛らしく首をかしげている。
己の赤面に気づかれないよう、慌てて指を動かし、注文を終えた。
「そういえば『しょっぱい』って北陸でも言うんだね」
「え、方言なの? 全国区かと思ってたわ」
「香菜ちゃんの実家が兵庫県なんだけどね、しょっぱいじゃなくて、塩辛いって言うんだって」
「塩辛いは塩辛い、しょっぱいはしょっぱいじゃねえのか……」
とりとめのない話。
ラーメン屋の気軽さがそうさせてくれるのか、先ほどの緊張した空気は幾分か和らいでいた。
「そういえば藤間くんも綾音ちゃんも方言使わないよね。うっかり出ちゃうものらしいけど」
「うっかりもなにも、向こうでもろくに喋ってなかったからなぁ……なんなら最近が人生で一番喋ってる」
「理由が暗い!」
大きな声をあげた灯里は慌てて口もとを押さえる。
いつもの通学路みたいな会話に戻ってきたことに安堵を覚え、何気ない話に花を咲かせた。
「お待ちどうさまです! 豚骨醤油のりたまトッピングです!」
そうしているうちに二杯のラーメンが卓上に載せられた。
よかったら使ってください、と二枚の紙エプロンを渡してくれる気配りのできる店員を灯里が呼び止める。
「あ、あのっ……その、写真撮ってもいいですか?」
「はい、もちろんです! よろしければお撮りしましょうか? ギアのロック解除だけお願いしまーす!」
ラーメンの写真くらい自分で撮れるだろうに、やたらおせっかいな店員だな……。それにしても外食イコール写真という流れが、いま俺は女子とふたりでメシを食っているんだということを再認識させてきて、こっ恥ずかしくなりながら箸箱からふたりぶんの箸を取り出し──
「はーい、彼氏さんもこっち見てくださーい」
「は?」
なに言ってんだこの店員、と振り向いたとき、彼女はなぜか灯里のギアを構えていて、カシャリ、という音が、いまなにが起こったのかを教えてくれた。
「んー、もう一枚撮りますね。彼氏さん笑ってー。彼女さんもちょっとぎこちないですよー」
なにをやっているのか。なにを言っているのか。
灯里に視線を移すと、右手の人差し指と中指を立て、店員に向かって朱い顔に笑顔をつくっていた。
「笑ってー……笑ってください」
店内がクソ忙しいなか写真を撮っているからか、店員の声には凄みがあった。なかば無理やり笑顔を店員に向けると、ラーメン屋に似つかわしくないシャッター音がふたたび鳴り響いた。
「……はい、これでいいですか?」
「あ、ありがとうございます」
「ではごゆっくりどうぞー」
灯里は嬉しそうに目尻を下げ、店員から受け取ったギアをこちらに見せてくる。
画面には照れくさそうにはにかむ灯里と、四本の箸を持ったまま引きつった笑みを浮かべる俺が、ラーメンからたちのぼる大量の湯気の奥でくもっていた。
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