10-36-夕陽は沈まない

 午後五時半。

 スクエアテンの自動ドアを通ると、涼やかな風が運動で火照った身体を冷ましてくれる。


「んー、遊んだ遊んだ!」


 高木がぐぐーっと身体を伸ばす。それに対してアッシマーが申しわけなさそうな顔を向けた。


「あのあの、高木さんたちはもっと遊んでいただいても……ごはんとかも」


 アッシマーは家で待つ多くのきょうだいたちに夕食をつくらなければならない。

 本当は五時までに帰宅する予定だったそうだが、言い出せなかったのか、あるいは楽しくて時間を忘れたのか……ともかく、予定を大きくオーバーしていた。


「いーんだって。遊べるのは今日だけじゃないし! ほら『明日死ぬかのように遊べ、永遠に生きるかのように遊べ』みたいな名言があるじゃん?」

「ガンジーが聞いたら卒倒するな……」


 祁答院が呆れたような声をあげた。

 ちなみに正解は『明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように学べ』である。


 つい先ほどまで「ふじまもいっしょにおうちかえるー!」とごねていたつくねは、金髪坊主の背中ですうすうと可愛らしい寝息をたてていた。

 まろやかなほっぺたをつんつんしたくなる衝動を抑え、一徹に声を潜める。


「絶対に落とすなよ」

「わ、わかってるって」


 つくねを背負うのはいつもアッシマーの役割なのだろう、一徹はどこか緊張した面持ちで強がってみせる。

 アッシマーはそんな弟を見て優しく笑う。


「ではっ、今日はありがとうございましたっ」


 アッシマーは何回もこちらに深々と頭を下げ、つくねを背負う一徹を伴って夕焼けの町並みへと消えていった。


「じゃあ俺たちも帰ろうか」


 祁答院のその言葉で、夕飯どうする? というさっきまでの流れは解散の方向にまとまった。


 家がこの辺りだという三好姉弟とはここで別れ、一行はぞろぞろと市川駅へ。

 電車組が手を振って改札を通過していくと、残ったのは俺と灯里だけになった。


 灯里はもじもじと俺に視線を向けては逸らしを繰り返す。


「あー……その。……そろそろ暗くなるし、送る」

「は、はいっ……! お願いします……!」


 可愛らしいバッグを両手で上品に握ったまま、灯里はうつむいて汗を飛ばす。


「あー……コインロッカーに荷物置いてるし、取ってくる」

「は、はいっ……! 待ってます……!」


 ……なんで敬語なんだよ。なんかこっちまで緊張しちゃうだろ。


 そうやって己の緊張や照れくささを灯里のせいだと誤魔化して、夕暮れが迫る町へふたり足を伸ばした。



 だいだいに照らされたアスファルトに、ふたりぶんの影が伸びている。


 短い時間とはいえ、ほぼ毎朝顔を合わせて途中から一緒に登校しているというのに、どうしてこうも緊張しているのか。

 ちらと見た灯里の顔は朱に色づいていて、きっと俺の顔も似たようなことになっているだろう。

 そしてもう、これを茜色に染まる空のせいにすることなどできそうになかった。


 じゃあ、どうしてこうもいつもの感じになれないのか。

 ショップのロゴがプリントされたチャラくさい紙袋と、涼やかなワンピースに身を包む灯里の眩しさが、俺の身の丈に合っていないからだろうか。


 なにか声をかけたほうがいいだろうか。そう思っても、普段ならつまらないことばかり考える俺の脳みそは、一向になんの言葉も生み出そうとはしてくれない。

 俺がぐだぐだしているうちに、灯里のほうがくすくすと笑いだした。


「あはは……なんか、緊張しちゃうね」

「ぐむ……まあ、そうだな」


 灯里の声色はどこかぎこちなく、俺は頷き返すにとどめ、なぜだろうな、と灯里に訊くことはしなかった。


「藤間くんも緊張してくれているのなら……えへへ、ちょっと、嬉しい、かな」


 灯里はこちらを向かぬまま、俺の隣ではにかんだ。

 俺はそれになにかを返すことも、どうして嬉しいのか尋ねることもできない。


 大きな群青色が遠くの空からゆっくりと黄昏を押してくる。

 よく見慣れた道になったころ、夕暮れは薄暮はくぼとなり、街灯の光が目立ちはじめる。世界は夜に変わろうとしていた。


「あ、あのっ」


 灯里の声は勇気を振り絞ったもののようにも聞こえたし、夕陽が沈む前に、と慌てたもののようにも感じた。


「その……焦らなくてもいいからね?」


 灯里は足を止め、振り返った俺にじいっと視線を合わせる。

 その姿があまりにもいじらしくて、楚々としていて、俺の貧困な語彙力から、いまの灯里を形容する言葉を探したなら──


「私、我慢できないことがあって……ううん、全然我慢できなくて、つい、言っちゃうことあるけど……。藤間くんは、焦らなくていいから」


 いまの灯里は、どうしようもなく、可憐だった。


 いつもの俺ならば、それが照れくさくて目を逸らす。顔を背ける。

 しかし、きっと灯里はいま、勇気を振り絞っている。

 その勇気が俺のためであるならば、ひとつも無駄にしちゃいけないと思った。


「高校生活は三年もあるんだもん。藤間くんも鳳学園大学に進学するのなら、あと七年は一緒だもん。……だから、焦らなくていいの」


 灯里はきっと、とっくに俺の懊悩おうのうを見抜いているのだろう。

 それが祁答院に指摘されたような具体的なものであるかどうかはわからないが、表情で思考を雄弁に語ってしまう俺の悩みは、灯里にはきっとバレバレなのだろう。


 灯里に相応しい俺になれるかどうか。

 胸を張って生きられる俺になれるかどうか。


 灯里は俺を待ってくれるという。

 こんなにも可憐な美しさを持つ女の子が、俺に大きな瞳をじいっと向けてくれている。

 なにかを──きっと瞳が揺れるのをこらえるように、小さな唇をきゅっと引き締めて。


 かつて、アルカディアの砂浜で告白されたあと。

 俺はべつに灯里に惚れているわけじゃないと思った。

 手を繋ぎたいかと問われたらそうでもない、なんて感じた。



 …………でも、いまは。



「ぐ、ぅ」


 また、これだ。

 ちゃんと考えて立ち向かって乗り越えなきゃいけないことなのに。


「ふ、藤間くん?」


 胸の痛みに呻く俺に、灯里が近づいて声をかけてくる。


「な、なんでも……」


 なんでもないわけがなかった。

 灯里のことを考えると、胸が苦しい。

 嫌いだから苦しいとか、好きすぎて苦しいとか……そういうことじゃ、ない。


 灯里のことを考えると、どうしても、出てくるんだ。

 そいつが、俺の心の臓を疼かせるんだ。


 俺は、そいつのことを傷つけたくなくて。

 俺は、そいつのことをどうしても守りたくて。


 それなのに、灯里に応えられない理由とすることで、俺自身がそいつを胸のうちでネガティヴに傷つけている気がして。


 お前は悪くない。

 灯里も悪くない。

 悪いのは俺なんだと、世界一簡単な、いつもの場所への着地を選択することは、結局いつもの思考放棄だ。


 灯里は胸を押さえる俺の背を、やさしくさすってくれる。

 不思議とそれで痛みは治まった。


「救急車呼ぶ……ね」

「いや、そんな大袈裟なもんじゃねえ。もう大丈夫」


 小さなバッグからギアを取り出した灯里の腕を掴んで止めた。

 「ぁぅ……」と小さな、でもどこか艶っぽい灯里の声が、俺に新たな痛みを運んでくる。それは誰が悪いとかそういうものではなく、顔の紅潮に伴う、いまだ慣れぬやさしい痛みだった。


 ……そこへ、俺の胸に巣食う、なにか黒いものがそっと囁いてくる。


 このまま灯里の腕を引いて。

 この可憐さを自分の胸のなかに封じ込めてしまいたいと。

 きっとこの無垢で純情な少女は、いやがらない、と。


 灯里の腕を掴み、ふたり見つめあったまま、どれくらいそうしていただろうか。

 目が離せなかった。灯里の潤んだ瞳も、俺から目を逸らそうとしなかった。


 どくんどくんと聞こえてくる音は、己の律動か。あるいは灯里の脈動か。それとも獣のような情動が忍び寄る足音か。


 結局──


「んあ、わ、悪ぃ」

「う、ううん、大丈夫」


 俺が手を放すことで、この膠着は柔らかな解決を迎えた。


 灯里は俺が掴んでいた腕を、まるで大切なもののようにゆっくりと胸に抱く。

 そうしてやさしい笑顔を浮かべるのだ。


 その後、真面目な顔をして口を開いた。


「藤間くん、ほんとうに大丈夫? 時々胸、痛そうにしてるけど……一度病院で見てもらったほうが……」

「や、そんなんじゃないんだ。マジで平気」


 まさか病院で、女の子のことを考えると胸が苦しいんです! なんて言うわけにもいくまい。かといって、それを灯里に明かすのはもっとありえない。


 ……でも、ずっと逃げ続けるのはさらに駄目だと思った。

 

「あー、なんだその、灯里」

「えっ、は、はいっ!」


 誰かのせいにするのではなく、自分のせいにするのでもなく、受け止めきれるかわからないからやめるのでもなく。


 これまでの灯里の勇気には、俺の勇気をもってでしか応えられない気がした。


 身の丈に合わぬ夜には、身の丈に合わぬ言葉こそが相応しい。

 ふくらはぎに力を込め、心の踵を持ち上げた。

 


「ここまで来ちまってアレだけど……よかったら、夜飯、どっかで食ってくか」

「ひっ……!」



 灯里は慌てたような顔をして、俺から一歩後ずさる。

 えーなにその反応。さすがに傷つくんですが。


「あ、いや、悪ぃ、無理しなくていい。よく考えたら、実家暮らしなんだからもう準備してるよな」

「あ、ひっ、いえっ、違います……! 驚いちゃっただけで……! あのあの、家に連絡を入れれば大丈夫ですから……!」

「だからなんで敬語……」


 灯里は丁寧な言葉とはうらはらに、ぶんぶんと両手を大きく振って左手のバッグを乱暴に揺らす。


「ぎ、ギア……ギア……」


 なんて言いながらバッグを開けてなにやら探しているが、もしも目当てのものが言葉通りのギアならば、バッグを探す右手にずっと握られたままだった。


 その様子につい吹き出してしまう。


 景色はとっくに夜に変わってしまったが、夕陽はまだ俺の目の前で眩しく煌めいている気がした。

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