10-35-人の為
これまでを振り返ってみると、自分がいかにクズだったかを思い返すのはあまりにも簡単だった。
バカにされるのがいやだったから、バカにする側に回った。
それが道徳的に間違っていることだとわかっていても、止まらなかった。
この世は椅子取りゲーム。
高校でもトップカーストという椅子を得たが、尻の感触はよくなかった。
同じテーブルを囲む椅子を見比べたとき、悠真や亜沙美が座る椅子のほうが立派に見えたからだ。
中学まではぼろっちい椅子に座るやつをハブにすることで、オレよりいい椅子に座る奴らはオレにそれらを譲ってくれた。
……それなのに。
藤間を嘲ることで、伶奈が離れていった。
香菜を罵ることで、亜沙美が離れていった。
ここまできてもオレは後悔も反省もできなくて、慎也と一緒に悠真のいるテーブルから離れていった。
新しいテーブルと椅子は最高だった。
酒池肉林だった。
時折見える、なぜか藤間と同じテーブルに座る伶奈や香菜、亜沙美の楽しそうな表情には気づかないふりをして──むしろ見たくないからこそ肉に溺れた。
どうだ、すげーだろ! オレさまはこの歳でここまでのぼりつめたぜ!
ほかのテーブルに向かっていくら吠えたてても、まわりはオレにまるで興味など示さなかった。
オレの目に映ったのは、藤間のテーブル。
藤間をじっと見つめる伶奈の朱顔。
照れ臭そうにはにかむ香菜の横顔。
八重歯を見せて笑う亜沙美の笑顔。
悠真が立ち上がった。こっちに来るのかと思って隣の椅子でも引いてやろうかと思ったら、オレに背を向けて藤間のテーブルに歩み寄った。
……は? なんで?
勝手につまらない気分になりながら、その理由を考えないように、慎也と一緒に卓上のステーキを食いまくった。
……いまならわかる。
きっとみんな、椅子の立派さとか座り心地とか、興味なかったんだ、って。
豪勢な食事にもこだわりがなかったんだ、って。
きっと。
誰と一緒のテーブルで、楽しく笑って食事ができるかどうかが大事だったんだ、って。
後悔ってのはやっかいなもんだって、この歳になってようやく知った。
気づいたときにはもう手遅れだった。
オレにはリリネアの体調を気遣う優しさも、すぐに忘れて次にいく鈍感さもなかった。かといって、この現実に立ち向かう強さも持っていなかった。
立ち向かうには、まず、立ち上がらなきゃいけない。
そして、向かい合わなければならない。
でも、合わせる顔がない。
そうしたオレの臆病が、すでに崩れ落ちて砂となった玉座から立ち上がる勇気すら持たせてくれなかった。
こういうとき、人はきっと、家族やダチに相談して解決するようにできているのだろう。
しかし誰かに相談するには、オレのやったことはあまりにも愚かしく、恥ずかしく、みっともないものだった。
どうすればいいのかまったくわからない。
唯一わかるのは、このままじゃダメだ、ってことだけだった。
一番の問題はリリネアと子どもに関してだが、これは現実ではどうしようもなく、誰かに相談できることでもなかった。
次の問題はオレのクズさで迷惑をかけた人間への謝罪だった。
なかでもひどいことを言っちまった香菜に対しては、オレがどれだけ頭を下げても足りないかもしれない。
それでもすぐに謝るべきなのに、きっとすぐに許してもらえないだろうという恐怖が、いまだにオレを立ち上がらせてくれなかった。
砂の城だとわかっていても、さらさらと溶けて消えるのが怖かった。
カードでつくった家だとわかっていても、自分の指で弾いて崩れるのが怖かった。
「セリカ──あいつ、オレらの高校……っつーよりも藤間の高校がどこなのかしつこく訊いてきてよ。それが必死っつーか、病的っつーか……ともかく、怖かったんだよ。……だから」
……だから、これ以上嫌われることのない、ダチでもない藤間からはじめるんだ。
「だから、鳳学園高校だって喋っちまった。……ワリぃ」
本当に謝っているのなら、頭を下げるべきなんだろう。
組んだ脚を解いて揃えることはできても、この期に及んで変なプライドが邪魔をして、オレに頭を下げさせなかった。
そのくせ藤間の顔を見ることはできなくて、ふいとコートへ目を逸らす。
そうして何秒シャトルのやり取りを眺めていただろうか。「その……」と躊躇いがちな藤間の声が左耳を打った。
罵倒──それもいやらしい言葉をわざわざチョイスしたものが飛んでくると思っていたオレは拍子抜けしながらも、心に受けるであろう多少の痛みに警戒しながら藤間の言葉を待つ。
……しかし、オレのそんな準備はまったくもって無意味だったことを知る。
「わかった。気をつける。……その、なんだ。その……あー……その、サンキュな」
ぎょっとして藤間に顔を向ける。
藤間はじいっとオレを見ていた。
視線を逸らそうかどうか迷っているような、それでもここで外すわけにはいかないと言い聞かせているような、そんな表情でオレの視線を受け止めていた。
なんだよそれ。
お前はいやなやつだろ。
どうすれば相手がイラつくか、日本じゅうから言葉をかき集めてありとあらゆる罵詈雑言でオレを非難する……そんなやつだったはずだろ。
なんだよ、その、清らかな顔は。
「責めねーのかよ。チクったオレを」
それが納得できなかったからか、オレの口からはつまらない言葉が飛び出した。
「自分の学校名を言うなんてチクりでもなんでもないだろ。……それに、お前が言わなくても……えーと、なんだっけ。望月……? が喋ってただろ」
藤間の言葉が真相を突いていたため、思わず目を見開いた。
実際、高校名をセリカに伝えたのは慎也だ。
でも慎也がいなければ……むしろ、もう一回セリカの追求を慎也がこらえていれば、喋ったのはオレだったに違いなかったから、オレが謝った。
「それでも悪いって思ってるんなら、俺の話をひとつ聞いてくれ」
そらきた、と思った。
こいつはこういうやつなんだ。
なんだかんだ大物っぷりを見せておいて、結局はこれまでの無礼を謝れって上から命令してくるんだ。
でも残念だったな。藤間に対しては売り言葉に買い言葉だったと思ってる。
だから俺が謝ることはない。
そうだ、結局この世はみんな自分の為──
「アッシマー……あー、足柄山いるだろ。あいつのこと、悪く言うのやめろよな」
「…………は?」
声と同じく、オレはよほど間抜けな顔をしていたのだろう。だからか、藤間はふいと顔を逸らす。
「俺は祁答院とか高木みたいにいいやつじゃねえから、ほかがどうなろうとどうでもいい。でも、その……仲間が悪く言われるのは我慢できねえ。お前だって、たとえば祁答院とか望月のことを悪く言われたらいい気分しねえだろ」
そのまま藤間が口にした言葉は鋭くカーブして、オレの胸を貫いた。
オレが、悠真や慎也のことを悪く言われると、いい気分がしない……?
ダチってのはきっと、そうするのが当然なんだろう。
でも、その世間一般にいう当然が、オレの本心に当てはまらない。
悠真のことを悪く言うヤツがいたら、あの完璧マンの悠真にもそういうところがあったのだと、オレは納得し、安心し、なんなら愉悦に浸るかもしれない。
慎也のことを悪く言うヤツがいたら、シュウマツでオレを見捨てたことをアテにして、そうだそうだと同調するかもしれない。
結局のところ、オレの世界には、大事なものはオレしかなくて。
藤間への謝罪も、オレの為で。
香菜にしようとしている謝罪も、オレの為で。
リリネアと自分の子どもに対する悩みもオレの為で。
「んだよ……いまさらいいヤツづらすんのかよ……!」
でも、藤間は自分の為でなく、地味子の為にこんなことを言っておいて、こんなにも清らかな顔をしているのだ。
「ふざけんじゃねー……! 〝人の為〟なんて、
そうだ。全部偽物だ。
いいヤツなんじゃない。
いいヤツのふりをしているだけなんだ。
悠真も伶奈も亜沙美も香菜も──そして、目の前のこいつも。
全部嘘っぱち。全部
なんで誰も気づかないんだよ。それ、全部偽物だぜ?
…………でも。
こいつらの清らかさに、心のどこかで憧れちまうのはどうしてなんだろうか。
藤間はぽかんとした顔をしていた。
「んだよ」
「や、案外
一度通った道……?
視線で先を促す。
「人の為と書いて
藤間がなにを言っているのかわからなかった。
俺は口を開けることしかできない。
「中学校のときにググってな」と藤間は顔を逸らしながら続ける。
「人間は自分たちが住みよい暮らしをするために、たくさんの建物や道具をつくってきた。これなんかもそうだ」
藤間はラケットを掲げてみせ、それを左手に持ち替えて右手でオレたちが腰かけるベンチを指さしてみせた。
「人の為につくられたものは、草木みたいな自然物ではない。だから偽物ってわけだ。本来、偽物の反対は本物じゃなくて自然物なんだよ。つまり、偽に悪い意味はねえ」
全身を貫かれた気がした。
いままでオレが信じていたものが、全部否定された気がした。
でも、すこしだけほっとするなにかが胸を包んだ気がして、それを藤間に悟られたくなくて、勢いよく立ち上がる。
「ならっ……!」
感情の揺らぎはもう隠しようがなかった。
震えを隠すように声を荒らげる。
「なら、本物ってなんだよ……! 偽物の逆とか言ったらぶっ飛ばすぞ……!」
オレはこれまで、偽であることをきらった。
己の欲望に正直であればあるほど、豪華な椅子に座ることができた。
それはつまり、オレにとっての本物とはいつのまにか、己の欲望に忠実であるというひどく独善的なものになっていたのではなかったか。
「答えろ藤間っ……!」
最初は唖然としてオレを見上げていた藤間だったが、オレが真剣だと気づいたのか、顎に手を当ててうつむく。
やがて藤間は「人によって違うと思うけど」と右手の親指、人差し指、中指を立て、手のひらをこちらに突き出した。
「ひとつ、環境を汚さないもの」
「はぁぁ……? 環境ぉぉ?」
環境なんて考えたこともない。授業で取り上げられても他人事だった。
戸惑うオレを捨て置いて藤間は親指を折った。
「かつ、人を騙さないもの」
追加された条件は、オレをのけぞらせるのにじゅうぶんだった。
自分に正直であるために、いったいどれだけ騙してきたのかわからない。
中指も折れ、もうひとつ条件があると、天を向いた人差し指が示してくる。
「かつ、自分の良心に訊いてみて、なんら恥ずかしくないもの」
オレに良心が残っているとして、これまでを振り返ってみると、オレはつくづくいやなやつだった。
恥ずかしいことだらけだった。
人差し指も折れ、藤間の手が拳をつくった。
それは皮肉にも、獅子王の理不尽な凶刃を打ち砕いたものと同じ形をしていた。
藤間の言葉と拳が本物ならば、いっそのこと、それでオレのクズな性根も粉々にしてほしかった。
「いいじゃねえか。人の為になにかができるなんて、なかなかできることじゃねえ」
「……嫌味かよ。じゃあさっき、地味子のことを言ってきたのは誰の為だっつーんだよ」
「俺の為に決まってんだろ。あいつが悪く言われてるとこを俺が聞きたくねえ。それだけだ」
藤間はおかしなことを言っている。
普通、人間は外面を重視して、誰かの為だーだなんて言っておいて、その
みんな、そうだった。
ごく稀に、悠真みたいに自分の為を匂わせないやつだっている。
藤間の場合は逆だった。
なんだって……?
地味子の為じゃなくて自分の為……?
自分が見たくないから……?
なんだよ、それ。
それって結局、人の為なんじゃねえのかよ。
人の為に、ってなかなかできることじゃねーなんて憧れるような顔をしておいて、こいつは無意識に、無自覚に、誰かの為に行動してるってのかよ。
「ふざけんじゃねー……!」
なんでだ。
藤間の顔が、眩しすぎて見られない。
藤間の視線が、清らかすぎて受け止められない。
そして人の身を超えた藤間の言葉が神々しくて……。
人が悪態をつくのはなんでだ。
──きっと、羨ましいから。
人が眩しくて清らかで神々しいものに憧れるのはなんでだ。
──きっと、長い人生のなかで汚れてしまったから。
膝がくだけ、俺の尻はすとん、とベンチに着地する。
「人の為、なんて存在するのかよ……。そんなやつ、いんのかよ……」
頭を抱えて呟いた独りごとは藤間の耳に入ったらしい。
「いるんだよ」
俺は藤間のことを呟いたつもりだったのに、藤間の言葉には己を誇るような響きはなかった。
指の隙間から覗いた藤間は、どこか思い出すような、どこか遠くを見るような顔で、そっと口を開く。
「いるんだよ。なんの得にもなりゃしないのに、両手を広げて他人を庇っちまうヤツが」
恋慕なのか、友愛なのか、憐憫なのか、それとも慈愛なのか。
藤間がなにを思っているかなんてわからない。
それでも、透明な視線の先には、地味子がいる気がした。
そして、人間って、こんなにも優しい顔ができるのか、と驚いた。
気に、食わねえ。
なんなんだよ、こいつは。
俺がどうすればいやがるかを知り尽くしていて、いまはこのやりかたがいちばんオレに刺さるだろうと、わざとこういうやりかたをチョイスしているんじゃないのか?
こんなにも答えがわかりきった自問はない。脳が自答する前に、ふたたび頭を抱える。
「やり直せるのかよ……オレに」
さっきよりもずいぶんと小さな、虫の声のような呟き。
しかし藤間は耳をすませているのか、それにすら反応した。
「やり直せないヤツなんていないだろ。どれだけ唾はいても世界は変わんねえのに、自分さえ変えられないって、それじゃあ人間はなんの為に生きるんだよ」
やりなお、せる。
「俺はちょうど一週間前に藤間透をやり直した。俺ですらできたんだから、お前だってできるんじゃねえの。知らんけど」
なれる、だろうか。
自分以外を好きになれる自分に。
自分以外を愛せる自分に。
誰かを貶めなくても、オレはここにいる、と誇れる自分に。
なんだか泣きそうになって、それを隠すように立ち上がる。
「あー、亜沙美おっせーなぁ。……まだ
べつに、地味子……もとい、足柄山を悪く思っていたわけじゃない。
でも、悪ぶる途中で、軽く見ちまっていたのはたしかだった。
だから、変えるならまずはこういうところからだ、と思った。
やがて、くつくつと笑いをこらえるような音が横から聞こえた。
「……んだよ」
「くくくくっ……いや
「笑いすぎて豚みたいになってんじゃねーか!! ……ちっ」
やっぱり気に食わねーヤツだ。
舌打ちしながら目を逸らすと、ちょうど試合が終わった悠真がこちらに手を振りながらやってくる姿が見えた。
めっちゃ笑顔じゃねーかよ……。
ほぼ同時に亜沙美が香菜と足柄山と妹のちびっ子を連れてやってきた。
オレと藤間を見比べて「にししー」と八重歯を見せて、悪戯っぽく笑ってやがる。
もしかしてこいつら、そういうふうに仕向けたんじゃ……。
ベンチに座ったままの藤間に目をやると、そんなことを気にした様子もなく、胸のなかに飛び込んできたちびっ子に夢中だ。
はあ、と一度ため息をついて、拳を握る。
「その……よ、香菜」
「う、うんー?」
結局、手のひらの上。
オレは誰かに転がされるのがどうしても許せなくて、常に転がす側に回ろうとしてきた。
誰にも頭を下げなかった。
常に下げられる側でありたかった。
人それぞれには価値観がある。
だから、藤間の価値観が必ずしも俺のそれに合致するわけじゃない。
──でも。
『自分の良心に訊いてみて、なんら恥ずかしくないもの』
本当に胸を張れる本物のオレに、なりたかった。
オレはすでに立ち上がってる。
もう香菜と向かい合ってる。
合わせる顔がないことには目を瞑ってくれ。
……あとは、乗り越えるだけだった。
「その……前、ひどいことを言っちまって──」
今日、オレは生まれてはじめて、誰かに頭を下げた。
背にはもう、玉座なんてない。
ただ、
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