10-25-Cthulhu Dawn
わたしにとって、今日は忘れられない日になるでしょう。
またご主人さまが亡くなられて、これで野良の奴隷になるのは四度目でした。
四人目のご主人様はどんなかたでしょうか。
今度は、わたしはなにになればいいのでしょうか。
いもむし?
踏み台?
足置き?
ずっと我慢していればいつか天国に行けると姉さまは教えてくれました。
女神エスメラルダさまが、魔法で天国へ連れて行ってくれるって。
天国には幸せな魔法が溢れていて、奴隷も差別もなく、みんな笑っている世界だそうです。
お星さまのような焼き菓子があって、とっても柔らかいお椅子があって、お花の香りがするお茶があって……。
それまでの我慢なのです。
辛いのは、こころがあるからなのです。
死ぬまでの我慢なのです。
わたしには、こころは不要なのです。
でも、どうしてでしょう。
なぜでしょう。
なにがなんだかわかりません。
そんな私につけられたのは、ミーナという可愛い名前でした。
──
「ひゃぁぁぁぁああ!」
わたし、こんな声出せたんだ、と驚くくらいの甲高い悲鳴が後ろの空に消えていきました。
わたしはいま、ユーマさまのお言いつけで、リディアさまとオルハ姉さまと一緒に、サンダーバードという大きくて眩しい鳥さんに
サンダーバードさんはバサバサと翼をはためかせ、ものすごい速さで街から離れていきます。
わたしは振り落とされないよう、前にいるリディアさまの腰をしっかりと抱きしめています。わたしのお腹には、オルハ姉さまの手が回っています。
リディアさまの髪はお花ででもできているのでしょうか。すごくいい匂いがします。
どうしてわたしたちがこんなことになっているかというと、リディアさまがわたしたちとソウルケージを繋げてくださるにあたり、誰にも見られない場所に移動する必要があるかららしいです。
リディアさまがユーマさまに出された条件とは、
ユーマさまはついてこないこと。
終わったあと、なにがあったのか、わたしたちに訊かないこと。
このふたつでした。
ユーマさまはわたしたちの安全が保証されるなら、とリディアさまを信じられました。
とはいえ、わたしたちは怖いです。
リディアさまのことを知らないわたしたちは、このままリディアさまに食べられてしまうのではないか──あるいはこのまま、すでに豆粒よりも小さくなったエシュメルデから遠く離れた地で空から落とされてしまうのではないかって。
でも、ユーマさまの奴隷であるわたしたちには、ユーマさまが信頼なされたリディアさまを信じるほかありません。
20分ほど飛んだでしょうか。やがてわたしたちは大きな塔に辿りつきました。
ぐるぐると渦を巻きながら天高く
その頂上は尖っているのか、それとも平べったいのか──どれだけ見上げても、たくさんの雲に遮られてわかりません。
サンダーバードは速度を落とし、リディアさまの指示で塔の周りを旋回します。
塔の外側には、たぶん塔の階層ごとにいくつかの窓が備えつけられていて、わたしが見るかぎり、そのすべてがこちら側に大きく開いています。
いまの高さが何階くらいなのかと窓の数を指さし数える気にもなりませんでした。
「このへんにする」
サンダーバードが旋回をやめ、ばっさばっさと翼を鳴らしながら滞空します。窓の隙間から、塔のなかを見ることができました。
「ひぃ……!」
左手をリディアさまのお腹に回したまま、右手で咄嗟に自分の口を塞ぎました。
だからわたしの絶叫はわたしの口のなかだけで終わってくれました。
窓のなかに、ユーマさまより背の高い、毒々しい紫色をした大蜘蛛が何匹も見えました。カチャカチャと音をたてて動いています。
わたしが悲鳴をあげてしまえば、わたしたちはあの大蜘蛛に食べられていたに違いありません。
泣きそうになりながらオルハ姉さまを振り返ると、姉さまはとっくに瞳から光を消し、奴隷モードになって妄想の世界に逃げていました。
わたしは未熟だから、姉さまのようにすぐこころを切り替えられません。
「しっかりつかまってて」
言葉通り、私は両手でリディアさまの腰を掴み、銀色の髪に顔をうずめます。すごくいい匂いです。ここが天国なのでしょうか。でもでもあの大蜘蛛に食べられたらとても天国へは行けない気がします。
「…………」
リディアさまからなにやらぶつぶつと声が聞こえ、シュウウ……と不思議な音がなっています。なんだか肌寒くなってきた気もして、私は顔を上げました。
リディアさまの右腕は天に掲げられていて、いつの間に取り出したのでしょうか、その手には銀の杖が握られています。
杖の先というよりも、リディアさまの拳の先に、お星さまのような精巧な青い魔法陣が高速で描かれていきます。
開いた窓にリディアさまが杖を向けると、魔法陣も連動して窓を向きました。
ああ、リディアさまはどうしてそのようなことを……!
冷気を纏ったようにシュンシュンと音をたてる魔法陣に大蜘蛛たちが反応し、たくさんのグロテスクな瞳がぎょろりとこちらを向きました。
救いはわたしたちが窓の外にいて、窓よりも蜘蛛のほうが大きく、その巨体がこちらには来られないことでしょうか。
いや、蜘蛛は糸を吐くといいます。
きっとあの蜘蛛はあのおぞましい口から禍々しい糸を出し、わたしを絡めとって自分の巣に引きずりこむでしょう。
やはりわたしはここで食べられちゃうのです。
そう思い瞼をきゅっと閉じたとき、リディアさまが静かに言いました。
「
ふたたび目を開くと、魔法陣からたったひとつ、拳大の白い珠が現れました。
珠は横に回転しながらまっすぐ窓に近づいていきます。
これっぽっちの魔法で大蜘蛛がどうにかなるはずがありません。
しかし、蜘蛛には弱点なのか、窓口に張りついた蜘蛛はこちらを向いたまま逃げていきます。
……いいえ、逃げているのではありませんでした。
白い珠は回転しながら氷の
珠は吹雪を発生させながら窓から塔の中に入っていきました。
周りの蜘蛛も同じように仰け反ります。
やがて紫の蜘蛛はみんな青白く凍りつき、パリンと音を立てて崩れ、緑の光になってしまいました。
わたしが驚いているあいだに、リディアさまはもうふたつめの魔法陣を描いていました。
「
今度は黒い魔法陣から、黒い玉が五つも現れました。
よく見るとそれは黒い玉ではなく、髪の毛のついた、人の頭部のようでした。
「オオオオヲヲヲヲォォ…………」
五つの頭は気味悪い悲鳴のような慟哭のような声をあげながら、緑の光が溢れている窓にそれぞれ入っていって見えなくなりました。
聞こえるのは、ギャアとかガァァ……といった獣の悲鳴だけ。すこし遅れてガタン、ゴトッ、となにかが落下したような音が聞こえてきます。
リディアさまはサンダーバードを窓に近づけて、わたしたちにすこし待つように指示し、まだすこし緑が煙っている窓におひとりで入っていきました。
カツカツと靴の音を鳴らしながら、わたしの角度からは見えない場所へ行ってしまいます。
置いてけぼりなわたしたちの耳に、
「
「
「
なんでもなさそうなリディアさまの声が静かに響き、窓のなかが白とか赤とか黄色に光ります。
その度に、魔物の叫び声らしきものと、なにかが落ちたような音が聞こえてくるのです……。
「もうだいじょうぶ。はいって」
窓からにゅっとリディアさまの美しい顔が現れました。汗ひとつかいていません。
リディアさまがどれだけ強くとも、本当は、恐ろしいモンスターがいる塔のなかになど、入りたくありません。
しかし奴隷であるわたしたちに断れるはずなどなく、わたしは窓の縁に手をかけました。
窓の内側は地面まで高かったですが、リディアさまが魔法の階段を宙に出してくれていて、わたしもオルハ姉さまも難なく塔の中に入ることができました。
このフロアはどうやら大きな一部屋でできているようです。
右手には上り階段、左手には下り階段が見えます。
モンスターの姿はありません。代わりに、立派な装飾を施された木箱が二十個ほど落ちていました。先ほどの落下音はきっとこれに違いありません。
「召喚。リアムレアム、サラマンダー、ユニコーン、ハルピュイア」
今度は、リディアさまが杖をつけた地面に魔法陣が現れて、たくさんのモンスターが出現しました。
銀色の狼、赤くて大きなトカゲ、長く鋭い角を持った馬、翼を有する女性……。
わたしたちは驚きましたが、それは身の危険を感じたからではなく、リディアさまが呼び出したモンスターたちの瞳が優しかったからです。
「サラマンダーとユニコーンは下、リアムレアムは上をまもって。ハルピュイアは100%の木箱だけあけて」
モンスターたちはリディアさまの声で四方に散っていきました。
リディアさまはそれを見届けると、窓の近くに手を
「ミーナ、ソウルケージをかして」
「はいでしゅ」
「ん。すわって」
「は、はいでしゅ」
背もたれがフロアのほうを向いていたので、わたしは自然と壁のほうを向いて座りました。
「わ、わ」
ずももー、と腰が沈みこんで、浮遊感を感じました。
背もたれは天使さまの羽で出来ているのでしょうか、ふかふかと柔らかいです。
気を許せば眠ってしまいそうなくらい心地いいです。
わたしが何度も妄想した『天国の椅子』でした。
「じゃあ、はじめる。ミーナはいたくもくるしくもない。安心して、目をとじてじっとしてて」
これは新しい拷問なのでしょうか。
そんなことをしたら眠ってしまいます。
「ねてもいい。むしろそのほうがいい。できればオルハもみないほうがいい」
「ふぁい……」
「かしこまりました」
こんな拷問ならどれだけでも受けたいです。
いまここで死ねるなら、天国へ行けるでしょうか。
でも、それはちょっといやだな、とも思いました。
わたしも、きっとオルハ姉さまも、ユーマさまのお側を離れたくないからです。
リディアさまの両手が、後ろから私の肩に乗せられます。
あたたかい……。
「……ん。やっぱり本気じゃないとだめ」
五分くらい瞼を閉じていたでしょうか。
眠れそうで眠れず、
続いて、服を脱ぐような衣擦れの音。
──ああ、どうしてわたしは眠ることができなかったのでしょうか。
眠っていればきっと、幸せなまま、終わることができたのに。
突如、ズボオォッッ!! と非常に乱暴な音が背中で聞こえました。
「い、いまの音はなんでしゅ」
「目をあけたらだめ」
リディアさまの声色は先ほどまでと変わりません。
けれど、わたしの質問には応えてくれず、ただ念を押す厳しさがありました。
そして、そうしているあいだにも、ズドォォッ! ドボォッッ! と、ひどく不快で恐ろしい音が鳴り響きます。
わたしにはどうしていいかわかりません。
ただご命令通り、目を瞑っているだけ……!
それでもこれがなんの音かだけでも知りたいです……! 怖い……!
でもでもリディアさまは目を開けたら駄目だって……!
身体が震えて、歯が勝手にカチカチと音をたてます。
背後の音はズボズボドボドボと感覚が短くなっていて、わたしの後ろで激しいなにかが起こっていることだけはわかる。わかるけど、それがなにかわからない……!
「だいじょうぶ」
ああ、私が恐怖からくる誘惑に負けてしまわないよう、リディアさまがわたしの両目をうしろから塞いでくれる……!
ああ、ああ、でも、でもでもでも、
「こわくない」
次は頭を撫でてくれる……!
リディアさまの手は二本しかなかったはずなのに……!
両肩と両目、そして頭を撫でている手はいったい誰のもの!?
「ひいいぃぃぃぃぃぃ……!」
遠くからオルハ姉さまの声がした。
オルハ姉さまはいつも良い子だけど、わたしを守ってくれるために悪い子になることがあって、前のご主人さまに怒られたことが何回かあった。
きっと、オルハ姉さまは悪い子になって、目を開けてしまったんだ。
ならいったい、どんな光景を目にすればあんな声が出せるのだろう。
「ひっ、ひっ……!」
それがわたしをさらに恐怖の坩堝へ
音はズボズボとしたものから、ギュプルグチャギュプと変なものが
もはや悲鳴はオルハ姉さまだけでなく、わたしの口からも……!
「リディアさま、わ、私はどうなっても構いません! ミーナだけは! ミーナだけはどうか……!」
ああ、ああ、いまわたしはどのような状態なのだろう、姉さまの哀願する声は、わたしに生命の危機が迫っていることを教えてくれている……。
「もう、おわる」
「ひ、ひ、ひぃぃ……!」
なにが終わるのだろうか。
終わったとき、わたしはどうなっているのだろうか。
天国にいるのだろうか。
グチャグチャニュプグチュニチャグチャグチュニュプ……!
ああ、ああ、どうせなら耳も塞いでくれたらいいのに……!
そう思ったら六本目と七本目の手かなにかわからないものに耳を塞がれた……!
聴覚がなくなったらなくなったで、さらになにもわからなくなった恐怖が押し寄せる。
怖い、怖い、怖い怖いこわいこわい……!
ああ、ユーマさま。
どうして、わたしに喜びを教えてしまったのですか?
どうして、いつ死んで天国に行けるか、以外の楽しみをわたしに教えてしまったのですか?
生きたいとさえ思わなければきっと、この死を救済だと頷くことができたのに……!
頭を撫でる感触がなくなって、両耳、両目、とわたしの感覚は次々と回復していきました。
「おわった。目はまだあけないほうがいい」
リディアさまがそう言ったとき、気色の悪い音はシュルシュルと収縮するようなものに変わり、やがて消えました。
「もういい」
目を開けたとき、石の壁が視界に広がりました。
急いで振り返ると、なぜかリディアさまは服を着ていなくて、美しい身体をさらけだしていました。
顔はひとつ。胸はふたつ。…………腕もちゃんと二本です。
「ふぁぁ……!」
わたしは情けなく背もたれに身体を押しつけてしまいます。
全身に力が入りません。
そして、もしやと思っていたことが現実だと知ります。
「リディアさま、もうしわけありません……」
どちらにせよ、わたしは死ぬことになりそうです。
ユーマさまから頂いたコモンパンツと、リディアさまのふかふかの椅子を汚してしまいました。
「いい。あとでエリーゼに洗ってもらう。おつかれさま」
リディアさまはわたしの肩から手を外して、青色に輝く水晶を渡してくれました。
先ほどまで、ソウルケージは光っていませんでした。
「ありがとう、ございましゅ……」
生き、残りました。
これでまた、ユーマさまに会えます。
「つぎはオルハ。すわって」
「は、はいっ……! あのっ、先ほどは失礼をいたしました……!」
「きにしていない。ソウルケージをだして」
背中からリディアさまと姉さまの声が聞こえる。
わたしは安堵感からか、振り返ることもできないまま、自分で汚してしまった椅子の上でぐったりと動けません。
そのとき、また、聞こえてきました。
ドボォォッ! ズボォッッ……!
あれはいったい、なんの音だったのでしょうか。
よせばいいのに、わたしは悪い子だから、身体を捩らせてリディアさまと姉さまのほうを見てしまいます。
ああ、ああ、やはり見なければよかった。
そして、姉さまよりもわたしが先でよかった──そう思ってしまいました。
ひ、ひいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ…………。
わたしが目をやった先──
そこには…………
(了)
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