10-17-雲雀(ひばり)──後編

 この気持ちに、名前がつけられない。



 さっき、奴隷商は俺に向かってこのふたりのことを「モノではなく人間だと勘違いしていませんかね?」と態度だけは控えめに言った。


 俺からすれば、とんでもない倫理観だ。


 しかしオルハとミーナを連れて歩くときに感じた、まるでON/OFFのスイッチの切り替えで一気にこの街から嫌われたような、エシュメルデの人たちからの冷たい視線が奴隷商の言葉がエシュメルデの総意であることを俺に無理やり刻みつけた。


 ココナと女将さんはふたりに優しかったけれど、時折覗かせる哀しい瞳が明確に「気の毒だけど、奴隷ってそういうものだから」と語っていた。


 オルハとミーナはずっと、こんな道を歩んできた。


 鹿児島の名家に生まれ、警察官僚を親に持ち、しかし俺に対しては「危険な仕事だから警察官にはなるな」と優しい言葉をかけてくれる甘やかな幸福のなかで育ったこの身が憎ましく思えるほどの、ふたりの不遇。


 名前すら与えられず、嫌われ、厭われ、忌まれて。



 俺が単身で千葉に引っ越す前、父が教えてくれた。

 〝持たざる者は、持つ者に救いを乞いながらも、嫉妬心や劣等感から負の感情を持つことがある〟と。


 かつてのクラスメイトや、慎也や直人からそれを感じたことが多々あり、まるで「悠真はいいよな、なにやっても勝ち組で」とでも言いたげな態度をされ、正直、鬱陶しく感じたこともある。

 そのたびに父の言葉を思い出し、連鎖して生まれそうな仄暗い感情を閉じ込めてきた。


 父は彼らの感情を、人が眩しい光に対して、思わず手をかざし目を瞑るときに似ている、と俺に優しく言い聞かせてくれた。

 人間の醜さではなく、あたりまえの感情なんだ、と。


 ──だから、人を憎んじゃいけないよ、と。



「オルハ……オルハ」

「ミーナ」


 オルハとミーナは涙を流しながら、染みこませるように自分の名前を何度も呟く。


「ミーナ」

「オルハ姉しゃま」


 ふたり抱き合って、刻みつけるように互いの名前を呼ぶ。

 俺がそう言ったように、ミーナでいいんだよ、オルハでいいんだよ、と言い聞かせるように。

 何度も何度も呼びあい、頷いて、ふたりは同時に俺に顔を向ける。


 涙の川をつくりながら。

 吹けば飛んでしまうような儚い笑顔で。

 やはり、眩しいものに目を細めるように。


 しかしなぜだろう、そこには、いっさいの負の感情がないように見えた。


 だから、戸惑った。


 嫉妬心に対する乾いた笑顔も、

 劣等感に対する繕った謙遜も、

 いつも用意していたはずの反応が、必要なかった。

 いつも準備していたはずの言葉が、必要なかった。


 与えているはずなのに、なにか大切なものを与えてもらっているような、そんな不思議な感覚だった。


 なにかに叩かれた気がして、左胸を押さえる。


 それは痛みなんかではなく、何枚も重ねた柔らかい布でそうっとノックされたような、とくん、とくんと優しい音。


 これは、なんなんだ。

 生まれてはじめて感じた、この心音こころねはいったいなんなんだ。

 悲しくないのに零れそうになる涙をこらえる、この感情は果たしてなんなのか。


 この思いに相応しい名前がある気がする。

 それがわかれば、すうっと優しく溶けていくような名前が。


 でも、それは俺が感じたことがないものだからか、いくら記憶を手繰っても、名前をつけることができなかった。



──



 三人で小屋の外に出ると、オルハが驚いたような声をあげた。


「空というものは、こんなにも青かったのですね」


 きっとこれまではオルハにとって、空や太陽が何色だろうと自分には関係がなかったのだろう。

 空が青くても、太陽が眩しくても、こころを殺され続けてきた自分には関係ないと。


 だから、感情を殺して、表情を殺して、すべては灰色なんだと色さえも殺してきた。


 ​──そういうのも、もう必要ない。


「そうだよ。オルハの髪と同じ、綺麗な空色だよ」


 隣に並ぶオルハの頭を見下ろしていると、振り向いた彼女は口をはわはわと動かしていて、合った顔を慌てたように逸らされた。

 さすがに言いかたがキザすぎたかな、と苦笑する俺の左腰を、オルハの逆側から控えめにつんつんと突かれた。


「み、ミーナの髪は……?」


 ミーナは泣きそうな顔で自分を指さす。

 姉だけが褒められて寂しくなったのだろう。じつに姉妹らしい、人間らしい素振りがじつに嬉しい。

 俺は膝を折って屈み、ミーナと視線をあわせ、柔らかい髪を撫でる。


「このアークに、撫子色なでしこいろの花を植えよう」


 アルカディアに撫子があるのかはわからないけれど、エシュメルデには花壇が並んでいる通りもあって、そのなかに撫子色の花が咲いていたことは覚えている。


「お花……。ミーナの髪の色と同じでしゅか?」

「そうだよ。ミーナの髪と同じ、可愛い色だよ」


 そう微笑むと、ミーナは撫でられるまま「おー……」と口を開け、目を見開いてきらきらと輝かせる。

 それは年相応の無垢とあどけなさを持っていた。


 思わず頬が緩んで、頭を撫でる手に優しい力がこもる俺の背に、オルハの呟きがそっと届いた。


「私たちは」

「うん?」


 オルハはその場にひざまずく。

 ミーナも撫でられる手を名残惜しそうにしながら姉に続いた。


「私たち──オルハとミーナは、ご主人様の奴隷となったことを、誇りに思います。これから、誠心誠意尽くさせていただきます」


 片膝を立てるその姿はまるで、主君に誓いをたてる西洋の騎士のようだった。

 あるいは江戸時代における、忠義の誓いにも見えた。


 ついさっきまで外道に堕ちたと思い込んでいた俺には、騎士道も武士道も荷が重い、とふたりを受け止めることができなかった。


 しかし、女将さんやココナの言葉を聞き、色彩を知ったオルハやミーナの顔を見て、本当になりたい自分は、既存のヒーローという舗装された道にはなかったのだと知った。


 綺麗な道を逸れ、泥濘ぬかるみに手を突っ込まなければ、汚濁おだくまみれた人たちを救うことはできない。

 俺が自分に強いた悪とは、きっと、真っ白な手を泥土でいどに浸しただけだったのだ。


 汚れたのなら洗えばいい──ふたりに言った言葉が反響し、胸のなかにそっと溶けてゆく。


 洗うとは、悪を水に流して、なかったことにするのではない。


 ったふたりの悲しみを、幸福で塗りかえることだ。


 ともかく、オルハとミーナの騎士道にも似た礼節も、武士道にも似た忠誠も、先ほどよりとは違った形で俯瞰することができた。


「奴隷として仕えてもらうより、同じ人間として接したいんだけどな。……首輪、消えろ」


 俺が手をかざしても、ふたりを縛める黒い首輪はやはり消えてくれない。


「も、申しわけございません」


 ふたりは立てた膝を引いて両足を揃え、緑土に額をこすりつけるように深々と頭を下げる。


 人間には価値観がある。

 俺にも、もちろんオルハとミーナにも。


 オルハとミーナの拒絶は、自らの考えを持つことを禁止された彼女たちにとって意思であり、意志であり、価値観だった。

 これは紛れもなく、ふたりが人間であるという証左だ。


 そう考えると、いますぐ首輪を外したいのは山々だが、無理強いは俺の価値観でふたりの価値観を塗りつぶすことになってしまい、やっとふたりに芽生えた、人間であるという意思を一息に吹き飛ばしてしまいそうだった。


「いまは仕方がないさ。ゆっくりやっていこう」


 だから俺は、できるだけ早く外してあげたいと願いながらも、ふたりが首輪をつけたままでいようとする選択を、いまは苦笑とともに受け入れた。



 アークを見回すと、先ほどは気づかなかったが、背の高い雑草が半分ほどなくなったことでアークの縁に石碑のようなものが建っていることに気がついた。


 手で僅かな雑草を掻き分けて前に立つと、それは石板のように薄く、俺の胸ほどの高さの、上半分が丸みを帯びた形をしている。


「ステータスモノリス……ではなさそうだね」

 アルカディアにある同じ形状のものはそれくらいしか思い当たらなかったが、ステータスモノリスとは違い、上部に大きく文字が刻まれている。

 そこには、


 Skylark


 とあった。


 中央のlエルがほかの文字より大きく、空のSkyと浮遊島arkを縦棒で区切っているのだろうか、と脳裏をよぎったが、オルハが、


「このアークのモニュメントです。モニュメントにはアークの名前が刻まれています」


 そう教えてくれたため、これはスカイラークと読むのだ、と若干の恥ずかしさを感じながら理解することができた。


 スカイラーク。

 さえずりながら大空へ向かって飛翔する鳥──雲雀ひばりのことだ。

 果たしてアルカディアに雲雀がいるのか、と疑問が浮かんだが、そんなことはどうでもいいと直ぐに消えうせた。


 なんだ、俺たちにぴったりじゃないか──そんな思いを強く抱いたからだ。


 ふたりは今日初めて人を知り、俺は今日初めて仮面を脱いだ。


 泥濘ぬかるみから手を伸ばして、

 汚濁おだくから這い上がって、

 泥土でいどから抜け出した。


 それは俺たちにとって飛翔にほかならない。


 

 俺たちは、在りかたを模索しながら、ここからさらに高く飛んでゆく。



 いつかこの思いにも名前がつけられるかもしれない。



 手を伸ばした大空の向こうにすべての答えがある気がして、開いた手のひらを強く握りしめた。

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