10-16-雲雀(ひばり)──前編

 たかが数メートルしかない小屋までの草をむしった──途中からは諦めて借りものの手鎌で刈った──俺たちは、どうにか小屋に辿りついた。


 慣れない中腰で長時間の作業をしたせいで、いますぐにでも座りたかったが、六畳ほどの小屋も雨風に晒されたせいかひどく汚れていて、むしろ外よりも腰を下ろす気になれなかった。


 どうしたものかと立ち止まったのは俺だけで、ふたりは木床の隙間から伸びた草やこけを手際よく刈り取った。

 そのままミーナはほうきを手に取り、オルハは革袋から雑巾ぞうきんと水の魔石を取り出して、バケツに水を貯めている。


 俺にもなにかできることはないかと視線を巡らせたが、小屋の中はふたりがてきぱきと掃除をはじめていて、結局、俺にはなにも手伝うことはないと判断し、邪魔にならないよう小屋を出た。


 高さ2メートル半ほどの小屋には扉がなかったが、小屋と横並びになった、さらに小さい木の建物には扉がついている。


 物置だろうか、と取っ手を引くと、そこは洋式のトイレだった。

 俺が泊まっている宿と同じく、便器の後ろに貯水タンクがあり、その上部には魔石が浮いている。

 便器の側面には消灯したウィンドウユニットが設置されていて、軽く触れるとウィンドウがぽう、と灯った。



────────

水の魔石

0/100

─────

ジェリーの粘液

77/100

────────



 水の魔石が枯渇しているはずだから交換しておいてくれ、と女将さんから言われていたことを思い出す。水が流れない以上、このトイレはいまは使えない。


 特別臭いはしなかったため、確認する前からわかってはいたが、吐瀉物の汚れや臭いを吸収してくれるジェリーの粘液はまだまだ補充の必要はない。トイレットペーパーの予備もある。水の魔石を交換して掃除をすれば問題なく使えそうだ。


 トイレットペーパーがロール式でなく、ウォシュレットの有無などの違いこそあるが、トイレの使用感は現代日本とほぼ変わらない。アルカディアに根づいた現代の文化に驚く、その最有力候補だ。


 ふたりが小屋を掃除しているあいだ、箒を持ってトイレの掃除をしていると、ミーナから「ご主人しゃま!?」と大きな声をかけられた。


「ああごめん。邪魔したら悪いと思ってね。雑巾は一枚しかないのかい? 二枚あったら一枚はトイレ用にしたいんだけど」


 壁や床、便器も拭きたいし、それらを拭いた雑巾はさすがに他では使えない。


「ご、ご主人様にトイレのお掃除をさせてしまうなんて……! なにとぞ、妹だけはお許しを……!」

「ふぇ……ふぇぇ……」


 視界に飛び込んできたオルハは青ざめた表情で膝から崩れ落ち頭を下げ、ミーナは泣きだしてしまった。



──



 俺がふたりは自分たちを軽く見すぎていると感じているように、どうやらふたりも、俺が自分を低く見すぎていると思っているようだった。


「いや、俺だけ手が空いているんだから」

「そのためにわたしたちがいるのでしゅ」

「これでは首がいくつあっても足りません」


 ふたりによってぴかぴかに磨かれた小屋内に三人で膝をつきあわせる。

 まるで咎めるようなふたりの口調は、紛れもない喜怒哀楽のひとつだ。ろくに叱られたことのない俺にとっては新鮮だということも相まって、ふたりには申しわけないけれど、おのずと相好が崩れてゆくのを自覚した。


「それにしても、ふたりは掃除が得意なんだね。驚いたよ」


 荒廃していた家屋はいまだ年季こそ感じるものの、木の床も壁も、指でなぞればキュキュッと音をたて、清潔感を誇っているようだった。


 ふたりが綺麗にしたあとの小屋には、俺たち三人のほかにはなにもない。


 一隅に畳まれていた三組の薄い布団もオルハによって綺麗にされ、小屋の屋根で天日干しにされている。


 横に長い六畳ほどの小屋に三人分の布団を並べれば、それだけで窮屈になってしまうことを考えると、むしろ都合のいいことに感じられた。


 ……と、ここで今更ながら、この狭い小屋のなかで三人が川の字になるわけにはいかない、と気づく。


 ミーナはともかく、オルハはそういった意味で安心して休むことができなくなってしまうかもしれない。


「今日からここがふたりの家だよ。もうひと休みしたら、残りの草を刈る前に歯ブラシとか必要なものを買いに行こう。エペ草も採るか買うかしたほうがいいね」


 水の魔石はふたつあって、トイレの中と小屋の外に設置した。飲料水には向かないから、それは別に毎日買う必要がある。


 食料は、日用品は、女性用のアイテムも必要なんじゃないのか──と思案を巡らせたとき、躊躇うようなオルハの声がかけられた。


「ご主人様はどうされるのですか?」


 俺はどうするのか。

 オルハの質問の意図をはかりかね、思考を手繰ってゆくと、ふたりの家だ、と言ったことについてだろう、と思い当たった。


「俺はいままでいた宿に泊まるよ。毎日午前九時に来るから、その日のことはそのときに相談しよう」


 なんの疑問も持たず口にした言葉に、オルハとミーナは口をあけてぽかんとする。


 やがてオルハは俯いて、ちらちらと俺に上目で視線を送る。

 なにか言葉を探しているような──もっと言えば、藪蛇やぶへびを突くのを恐れているような様子だった。


「なにかあるなら遠慮なく言って。怒ったりしないから」


 俺がもう一歩踏みこんでようやく、オルハはおずおずと顔を上げ、弱々しい口調で呟く。


「……それでしたら、どうしてあのような額を出してまで、私たちをお買いあげになったのでしょうか」


 今度は俺が考えこむ番だった。いままでの会話と、オルハの「それでしたら」が結びつかない。

 そうしているうちに、今度はミーナが水面に水滴を落とすようなか細い声をあげる。


「……置いてけぼりは、怖いでしゅ」


 それを聞いて、もしかしたらふたりは、ずっとこの島に取り残される可能性を危惧しているのではないか、と思いつく。


 やはりどれだけ言葉を重ねても、本当に飢えた者を満たすことはできないのだ。どれだけ”捨てない”と言っても、その裏側を知るまでは、乾ききった心に信じる心は宿らないのだ。


 オルハとミーナ、内田くんとかつての藤間くんの面影が重なる。


 ──アンビヴァレント。


 信じたい。でも信じられない。

 信じながら疑う。彼らから感じた、そんな二律背反にりつはいはんが、目の前のふたりから滲んでいる気がした。


「どうしてふたりを買ったのか、か。……そうだね。聞いてくれるかい?」


 ならば全部、正直に話そうと思った。

 ありのままの祁答院悠真を、表も裏も。


「ごめん。俺は、ふたりが必要だと思ったから買ったわけじゃないんだ。……ううん、奴隷すら必要じゃなかった」


 ふたりの前では、まやかしも誤魔化しも、おためごかしも邪魔だった。


「俺はたぶん、なりたい俺になりたいから、自分のために、身勝手に、わがままにふたりを買ったんだよ」


 優等生な祁答院悠真の仮面は必要ない。

 それはむしろ、俺が仮面を脱げる瞬間でもあった。


 全部話した。

 自分の正義のこと。

 自分の世界には奴隷制度がないこと。

 奴隷を買うことは、自分の正義に反すること。

 名前は伏せたが、藤間くんと張り合う気持ちが俺を後押ししたこと。

 その場に居たのがオルハとミーナではなくても、きっと俺は自分のために奴隷を買っていただろう、ということ。

 買ったあとのことはなにも考えていなかったこと。


 話せば話すほど、自分が情けない人間に思えてきた。

 それなのに、仮面を脱いだ開放感のほうが大きく感じた。


「恥ずかしい話だけど、俺はずっと誰かが用意してきた道を悠々と歩いてきた。だから、これから先のことはわからない。でも、ふたりを買った責任は取らせてほしいと思ってる」


 責任、というネガティヴな俺の言葉はきっと、ふたりを傷つけてしまっている。

 割れたグラスは元には戻らないと知っておきながら、それでも傷つける──これは俺のアンビヴァレント。

 それでも、背反した思いが仮面の内側であるのなら、それもさらけ出さなければ、すべてを語っているとは言えないから。


 そして、女将さんと話して新たにうまれた誓いを口にする。


「俺は、オルハやミーナが人として幸せになってくれたらうれしい。そしていつか、この街の奴隷制度をなくしたい。人を人として扱わないなんて、俺の正義が許さない」


 その方法はまったくわからないんだけどね、とつけ足して、己の情けなさを誤魔化すように笑う。


 そうだ。

 許せなかった。


 このふたりが台車に載った檻のなかで、冷たい鎖に繋がれている光景が。


 許せなかった。


 目の前のふたりを救えない、自分が。


「世界中の誰が──それこそふたり自身が、自分たちは人じゃないって言い張っても、俺はそれ以上に、ふたりは人だって言うよ。オルハとミーナだって言い続けるよ。ふたりがわかってくれるまでずっと、何度でも」


 胸のうちをすべてさらして、ふぅとひとつ息をつく。

 本音で話すのはここまで疲れることなのかと、十五年生きてきてはじめて知った。


 ミーナはやはりぽかんと口を開けたままでいて、小さなそれがゆっくりと動き「ひと……」と密やかな響きになった。


 オルハは正座したまま、三つ指を立てるようにしてずっと頭を下げている。



「……い、の……で、か」


 オルハの声は震えていて、距離と体勢のこともあり、よく聞こえなかった。


「オルハ、顔を上げてもう一度」


 強い言いかたにならないよう、柔らかい布で触れるような声をかけると、オルハは顔だけを上げて俺と目を合わせる。

 双眸からは大粒の涙がとめどなく零れていた。


「いいの、ですか」


 なにがいいんだい? と訊く前に、俺の手はオルハの目元に伸びていた。

 親指でそっと涙を拭うと、オルハは一度ぴくりと身体を震わせたあと、それからは両眼を拭き終わるまで、俺の指に身を任せてくれた。


「いいの、ですか。生きて……オルハとして、生きて、いいのですか。この子も、ミーナとして、生きて……ぅ…………」


 俺が拭いた涙のわだちを新たな川が流れてゆく。


 どれだけいじらしく、悲しく、切ない問いかけなのだろうか。

 どのような人生を過ごせば、このような言葉が出てくるのだろうか。

 どれほどの不遇を忍んだら、このような表情ができるのだろうか。


「もちろんだよ。だってふたりは、オルハとミーナなんだから」


 何度でも、という言葉に違わず、ふたりに言い聞かせる。

 オルハは綺麗な顔立ちを歪めて、


「ぅ……ぅ…………ぅぅううぅぅぅぅぅ……!」


 ふたたび頭を下げて嗚咽を漏らす。


 ミーナはそんな姉の姿を見て、自らもひぐひぐと顔をくしゃくしゃにした。


 もしかすると、ミーナはオルハの涙を見たことがなかったのかもしれない。

 涙を流すと打擲ちょうちゃくされるからか、血こそ繋がっていなくても姉という立場だからか、それとも泣くという感情をなくしてしまっていたのか。


 ──でも、もう、そんな心配はいらない。


 ちょうどふたりの間に入るように膝を進める。



「ふたりとも、いままでよくがんばったね」



 オルハと同じように、ミーナの目元に右の親指をそっと持っていく。

 オルハは俯いてしまっているから、泣きじゃくる頭に左手を乗せて撫でた。



「もう、泣いてもいいんだよ。そのたびに俺が拭ってあげるから」



 ふたりの嗚咽が小屋内にそっと響く。



 俺のこころに、なにかが生まれた。

 それがなんなのか、名前をつけることはできなかった。



 ──でもそのなにかは、生まれてはじめて、俺が宝物のように大事にしてきた正しさや正義といったものを、柔らかく、そっと優しく忘れさせてくれた。

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